渡河のための基礎知識

さて、ドイツ側の渡河作戦を見る前に以下の点をまず覚えて置いてください。

●渡河にはゴムボートなどの装備が必要。これらは現地で組み立て使用する。それ以外にも突撃ボート(Sturmboot)、木製でケツにエンジン積んだ高速モーターボートを投入した、とする史料があるが未確認。写真等では確認出来ない(工兵部隊が持っていた可能性は高いが)。

●川辺に向かう歩兵が隠れるための遮蔽物が河岸に必須となる。この点で気の毒だったのが遅刻した第2装甲師団だった。この部隊の渡河地点は郊外の開けた土地であり、対岸のフランス軍陣地から何をやってるのか丸見えだった。当然、火力で勝るフランス軍は徹底的に叩きに来る。遅刻によって敵に準備時間を与えてしまったのは事実だが、それが無くても苦戦はしただろう。

●当時、戦場の歩兵が携行できるような小型無線機は無く、渡河後に工兵部隊が電話線を敷設するまで各司令部との連絡は断たれた。その状況下でも快進撃が可能となったのは前回見た現地部隊に対する大幅な指揮権移譲の結果だろう。各指揮官は様々な状況下でも、迷う事なく前進のための「行動」を取っている。対して全軍で一つのOODAループしか回って無いフランス軍は電話線がズタズタにされ、何ら命令が届かない中でドイツ軍の高速進撃を受けたためパニックから戦線崩壊へと向かう事になる。


出典:Bundesarchiv

ここで紹介する写真二点はベルギーでの撮影とされるので、セダンではないと思われます。この点はご了承あれ。

クライスト装甲集団の各部隊は主に写真のようなゴムボートでマース川を渡河しました。この作戦では直前に空輸で届けられたという話もあるんですが詳細は不明。軍用ですから頑丈で御覧のようにバイクぐらいなら完全武装の兵員ごと運べました。よって渡河作戦に参加した第1オートバイ狙撃兵大隊は、一定の数のオートバイを対岸に持ち込んでいるはずです。まあそれでもゴムボートではあるので、一発でも銃弾を食らえば沈んでしまうんですが。実際、渡河作戦で苦労した第10、第2装甲師団の場合、かなりの数が沈められたようです。


出典:Bundesarchiv


二隻のボートを並べて上に板を置く事で浮力を確保し、さらに重い物でも運べました。といっても恐らく3.7p砲、Pak36(500sある)辺りが限界だと思いますが…。ついでにこんなの漕いで進むのは無理だし、手漕ぎ船に馴れない人間が流れのある川で真っすぐ対岸に向かうのはほとんど不可能なので(経験者談)、御覧のように両岸をロープで結び、これを手で引っ張り渡河してました。

とりあえず、最低限これだけの知識があればご町内の渡河博士くらいは名乗れるはずです。今後、貴殿の渡河作戦ライフはきっと充実したものになるでしょう。さあレッツ エンジョイ 渡河作戦。

13日の渡河 第1装甲師団編

ではいよいよ作戦開始後の展開について見てゆきます。ただし西側を担当していた第2装甲師団は16時の段階で未だ現地に到着していません。17時30分ごろに到着するものの、既に述べたように大苦戦に陥り最後まで自力では渡河に成功しませんでした。よってしばらく第2装甲師団の事は忘れて問題無しでしょう。

まずは渡河作戦開始から3時間、19時ごろまでの状況を地図で確認しましょう。ちなみにマース川沿いに書かれたオレンジ色の破線が例のトーチカがほとんど無かった地帯です。ここを第1装甲師団の渡河部隊の内、二つが突く事になるわけです。



今回の作戦で最も広い面を担当し、かつ最も快調に作戦を進めたのが主力で最精鋭だった第1装甲師団でした。
これは戦力が充実していたのと同時に、三つの渡河点の内、二つがフランス軍の最弱部を突く形になった事が大きく影響しています。フランス軍としてはよりによって第1装甲師団がそこから来るか…という感じなんですが勝ち戦ってこんな感じにあっさり運が味方に付く事が多いんですよ。

敵防衛線の弱点を突いた部隊その一が、最北部を担当する第1オートバイ狙撃兵大隊でした。もはやお馴染みの第1装甲師団に置けるMVP部隊で、一個大隊のみと最も小規模な兵力での参戦でした(他の地点は全て三個歩兵大隊)。この渡河地点は逆U字型に流れるマース川の中央を南下する、最も長く敵中を移動する経路であり、このためオートバイ狙撃兵(この時期の狙撃兵は乗物で移動する機械化歩兵の事)をここに投入したのだと思います。ちなみに第1狙撃兵連隊の進出地に到達するまで2時間半掛かったのは、さすがに一個大隊規模ではやや戦力不足だったからでしょう。まあそれでも敵陣地内を4q近く突破してるので十分に高速なんですが。

その南で渡河したのが第1狙撃兵連隊の三個大隊でした。これもトーチカ希薄地帯だったので、まともな抵抗無しに渡河に成功、作戦開始直後にグデーリアンもここで渡河してしまいます(一帯を視察後、軍団司令部のある北岸に戻った)。以後の進撃も極めて高速で渡河から1時間半で湾曲して流れるマース川の西側の流域に到達しています。この結果、最も早くから一帯の安全が確保されたため、後ほど同地点で仮設橋の敷設が行われる事になります。以後、第1狙撃兵連隊は順調に前進を続け、最終的には19時ごろまでに大ドイツ連隊の担当地区にまで南下、さらに西に進んで対岸からの攻撃で動きが取れなかった第2装甲師団を助ける事になります。

この第1狙撃兵連隊の活躍がセダン地区における戦闘の高速決着に大きく貢献したのですが、その指揮官がヘルマン・バルク中佐(Georg Otto Hermann Balck)でした。当時46歳、かなり高齢の中佐だったのですが(二歳年上のロンメルは既に少将で師団長だった)、極めて優秀な人物で戦中に次々と昇進、最後は装甲兵大将にまで昇進します。戦争後半に入ると将軍だらけになるドイツ軍ですが、それでも開戦後に中佐から大将まで昇進したのは珍しいでしょう。ちなみにスターリングランドで壊滅した悲劇の第6軍は後に再編成されて復活したのですが、その最後の指揮官になったのがこのバルクでした。

そんな第1装甲師団の中で例外的にかなり苦労したのがその東でマース川を渡った大ドイツ連隊でした。ここはトーチカ不毛地帯を外れ、フランス軍にも十分に迎え撃つ準備があったからです。



大ドイツ連隊は写真の一番上付近で渡河を開始しています。前回も書いたようにこの写真、なぜか右側に他の写真が乗ったまま焼かれているのに注意。実際の右岸一帯は市街地でした。写真では見づらいですが、左側、フランス軍陣地の河岸には幾つかのトーチカがあり、これは空襲にも砲撃にも耐えて健在でした(ちなみに第1装甲師団の兵でも火砲の援護は貧弱だったと述べている)。

作戦開始直後に対岸のトーチカからの銃撃を受け渡河に失敗、いきなり死傷者をだした大ドイツ連隊はもはやおなじみ88oFlakを持ちこんで対岸のトーチカを撃破、ようやくその渡河に成功、以後は一気に前進する事になりました。ただし順調に進めたのは奇襲に成功し、しかもわき目もふらず奥地に突っ込んで行った最初の大隊、第2大隊のみでした。続いて渡河した第1、第3大隊は南のセダン市街地から移動して来たフランス軍と戦闘となり、一時的に脚止めされてしまいます。この妨害に引っかからなかったのも、第2大隊が後続を待たず、独自の判断で高速進撃を行った結果でした。


■第10装甲師団編

そして最も南で渡河する事になった部隊、第10装甲師団配下の第86狙撃兵連隊も渡河には苦労します。ここも対岸のトーチカ陣地が健在であり、さらに前日に引っ越して来たばかりのフランス第71歩兵師団の担当地区まで直線で4qほどの位置だったため、こちらからの砲撃も食らう事になったからでした。それに加えて遮蔽物も少ない一帯だったのでゴムボートを無事に川に運ぶだけでも苦労したようです。さらにフランス側の砲弾が古い在庫品で品質が悪く(涙)、着弾時に変な白い煙を出したため、これを毒ガスと勘違いしたドイツ軍は一時的にパニックとなりガスマスク装着などで時間を浪費します。

作戦開始から2時間近く経った18時ごろ、ようやく第49装甲工兵大隊配下の小隊わずか11名が渡河に成功し対岸での戦闘を開始します。普通に考えればほとんど自殺行為ですが、さらに4名が加わった所で小隊長だったルーパート曹長は敵陣中への進撃を決意します。これも誰に言われたでもない、彼自身の「観察」と「判断」からの「行動」であり、戦場で無数に回っていたドイツ軍のOODAループによるものでした。そして驚くべきことに、たった15名のこの部隊は超高速で快進撃、約1.5qもフランス軍陣地内を突き進み、僅か1時間の間に六つの敵トーチカを沈黙させてしまいます。この活躍によってようやく第86狙撃兵連隊の渡河が一気に本格するのです。

ちなみにルバート曹長の活躍は先に見たセダンの市街地付近の戦闘に巻き込まれていた大ドイツ連隊の第1、第2大隊側面の敵まで掃討してしまい、結果的にその進撃を助けます(この点について本人たちは気がついて無かったらしい)。こういった現地部隊指揮官が独自に考え、判断し行動して次々と高速戦闘を挑んで来る間、フランス軍は特に何の工夫も連携も無くただ陣地に籠って抵抗する以外の事は出来ませんでした。司令部に繋がる電話線が無い以上、新たな命令は無く、部隊同士の連絡、連携も不可能だったのですから。

5月13日深夜まで

こうして日没の21時過ぎまでにほぼマース側南岸のフランス軍陣地は一掃され、河岸から5q以上の距離に渡りドイツ側が支配、完全に渡河作戦は成功したと言っていい状態となりました。その直後、22時ごろまでの状況を整理するとざっと以下の図のような感じになります。



日没前後の段階で、第2装甲師団を脚止めしていた対岸のフランス軍陣地まで、第1狙撃兵連隊が侵出、その掃討に入っていました。これによってようやく第2装甲師団は渡河を開始、22時ごろに先行部隊がようやくマース川南岸に入り、グデーリアン軍団が全て揃った事になります。

さらに日付が変わる頃、14日の0時までには最初の渡河橋、グーリエ(Gaulier)の舟橋が完成していました。これで翌日の激戦もなんとかなると思われたのですが、この夜からドイツ軍部隊は不思議な現象を目撃する事になります。激戦区を抜けてその先に出ると敵が居ない、全く無抵抗のまま進めてしまうフランス軍真空地帯とでも言うべき地区が広がっていたのです。当初、ドイツ軍側は罠ではないかと警戒するのですが、実際は既にフランス軍の戦線崩壊が徐々に始まっていた結果でした。この辺りを次回から見て行きましょう。といった感じで今回はここまで。


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