■今川本陣に向かう前に
さて、いよいよ最後の戦い、信長率いる織田軍本隊による義元本陣奇襲を見て行きましょう。
義元が桶狭間山の本陣を動いてない事を確認、19日の昼過ぎに中島砦へ移った信長はこの段階で集められた2000人以下の軍勢(信長公記による。三河物語だと3000人だが現場にいたであろう太田牛一の説を取る)を率い、いよいよ義元の本陣を目指すのです。
この時、周囲は信長にすがりつくようにして出陣を止めるのですが、信長公記によるとウツケの若様は理詰めで周囲を説得してしまいます。すなわち、「あの武者どもは昨日の夕暮れに最後の糧食を取り、以後は夜に大高城に兵糧を入れ(これは前回見たように織田側の勘違い)、鷲津と丸根の砦攻めに手を焼き、苦労し、疲れ果てた武者である。こちらは疲労の無い新手だ。よって少数ではあっても大軍を恐れてはならぬ。運は天にあり、の言葉を知らぬのか」と。
まずは前回も指摘したように、これから襲撃する相手を「あの武者」と呼んでいる事に注意。高度に抽象化して、Theのような意味で「あの」を使っている可能性もありますが、当時の武士の皆さんの文章力、筆者の太田牛一の表現力からして、単純に見えてる何かを指してる、と見るべきでしょう。よって、出撃時に信長は目指すべき場所をきっちり視界に捕えていたと思われます。対してこの段階に至っても今川軍にはなんの情報も無かったと見られ、ここまで偵察、そして情報収集を軽視していたら、そりゃ負けるわ、という対比になっております。前にも書きましたが、この辺りはミッドウェイ海戦の時の日本海軍と実に良く似ています。
ついでに信長が「運は天にあり」と言ってるのに注意してください。後に上杉謙信の言葉として有名になり、江戸期には流行語にもなりますが(狂歌などでこれを元ネタにパロディが流行った)、実は信長も使っています。元々は太平記 巻二十九にあるセリフなので、信長、太平記を読んでいたと思われ、やはり単なるウツケでは無いのです。
ついでにこのセリフは桃井兄弟が自軍の兵に対し「運は天にあり、一足も引く事有るべからず。只討死をせよ」と言ったものでした。よって信長は討ち死にの覚悟を言外に求めたのだと思いますが、野性味あふれ過ぎて識字率も怪しいこの時期の織田軍の皆さんに通じたかどうか…。光秀でもいれば通じたでしょうけどね。まあ当時の尾張にも講談師が居たなら話は別ですが、この時代では無理でしょう。
そして実際、この段階では嵐がまだ来ておらず、視界の利く晴天の中を織田軍は敵本陣めがけて進撃するわけですから、ほぼ決死の任務だったのは間違いありません。
■決戦直前の動きのこと
ちなみに信長公記によると中島砦に入った後、手柄を急ぐ連中が早くも敵の首を取ってやって来ました。その中に後の加賀百万石の始祖、前田又左衛門(利家)も居たのですが、この人、この時期は浪人中でした。当時、信長のお気に入りの小姓の一人を喧嘩で殺してしまい、信長から「犬」呼ばわりされるほどの怒りを受け、出仕停止のお咎めを受けていたのです。
その前田利家に仕えた村井勘十郎が江戸期に入ってから「利家夜話」という言行録を残しているのですが、その中で桶狭間について少しだけ触れています。それによると最初に敵の首を信長の元に届けたのは当時は孫四郎と呼ばれていた前田又左衛門(利家)でした。ところが信長は「それは士のなすべき事」と「犬」呼ばわりしていた利家の差し出す首の見分を拒否します。すると、利家も荒っぽい武者ですから、持ってきた首を信長の目の前で田んぼに投げ捨て、そのまま再度出て行こうとしたため、周囲があわてて取りなし引き留めた、とあります(ただし最終的に許されて出仕が許されるのは後の森部合戦の後)。
この話から、中島砦周辺は田んぼの中の低湿地だったこと、すでに織田軍は今川軍団と接触し始めていた居た事が判ります。そして中島砦周辺が田んぼだったとなると、やはり一帯は大軍の展開には向かなかったはずです。6月(太陽暦)の田んぼなんて、事実上の泥沼ですからね。おそらく中島砦が無ければ織田側も2000人近い軍勢をここに集める事はできなかったでしょう(都市部の高校の全校集会二つ分近い人数なのだ)。
さて、ここから決戦までの動きは以下のようになります。前回推定した義元本陣の位置を信長は報告によって知っていたのですから、後はまっすぐ南下するだけで、一時間もかからず、その丘陵西側の麓まで辿り着いたはずです。
国土地理院サイト 明治期の低湿地図を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
■直前の今川の主力部隊について
その間、義元本陣に何の動きもなかったのは何度か見ましたが、では配下の今川軍の主力はどこに居て、何をしていたのか。この点、信長公記には何の記述もありません。
ただし三河物語を見ると、これらは丸根、鷲津の両砦を攻め落とした松平軍団の後詰め(支援)、あるいは督戦のためにその背後に居て、その部隊は信長率いる織田軍が現れた直後に敗走を始めた、と受け取れる記述が見られます(二郎三郎(元康=家康の別名)様を(城に)置奉りて引退く(退く)処に信長は思ひ之儘に懸付給ふ)。
この時、松平(徳川)軍団の中に歴戦の老武者、石川六左衛門尉が居ました。二十年以上前に織田家と松平家が激突した伊田合戦の生き残りで体中が傷だらけだったとされる彼が、現地の今川軍から呼び出され意見を求められます。すなわち付近に現れた敵はただの偵察か、それとも後に本隊が居るのか、と。
これを聞いた石川は「申すまでもない。あれほど勇み立った武者が単独行動の偵察のはずがない。背後に本隊が居る」と応じました。すると「ではどれほどの軍団と見るか」と重ねて尋ねられ、「少なくとも五千」と答えます。
これを聞いた今川の武者は「織田軍にそんな軍勢があるか」と笑いましたが、石川は平然と答えます。
「皆さんは戦場における戦力の見積もり方をご存じない。高台から見下ろすなら多数の敵も少数に見下していい。逆に低地から高台の敵を見上げる事になったなら、少数の敵も大軍と見ねばなりませぬ。このように考えるなら、なぜ五千の兵力が無いと言えましょう。何より今回のような長評定は何もいいことがありませぬ。(中略)早々に部隊を引き上げなされ」と述べました。
これを聞いた今川軍団は撤退を開始したのですが織田軍がすでに本陣のある山に登りつつあるの発見、以後は我先に逃げ出した、とされます。すなわち、この段階で義元本陣の下に居た今川軍の主力は軽いパニックを伴った撤退に入っていた、という事です。
ここで不思議なのは、大高城も周囲の砦も今川の手にあるのに、そこへ逃げ込む、という発想が無い点です。
収容し切れない人数だった、という可能性もありますが、下請けとして過酷な戦場を担当させ、恨みを買っている松平軍団の裏切りを恐れたようにも見えます。石川六左衛門尉の発言も、取りようになっては、さっさと帰らんとどうなっても知りませぬぞ、とも受け取れ、そうなると東西の高台を敵に抑えられ、北から北西は海、南は湿地の低地(もう少し南下すると当時は知多湾が奥深く入り込んでおり、それに続く湿地となった)に今川軍の主力は閉じ込められる事になるわけです。
そして松平&今川軍の砦攻め陣地から織田軍が山を登るのが見えたというのも、義元の本陣が前回推測した場所であろう、という根拠の一つです。その方向を抑えられてしまった以上、司令部との連絡を絶たれ、さらに大高の高地を迂回して低地沿いに東海道に逃げるしかなくなります。そして、その途中にあるのが桶狭間周辺の湿地帯なのです。
国土地理院サイト 国土地理院地図の写真版を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
この辺りを地図で確認して置きましょう。
大高城、鷲津砦、中島砦、鳴海城を結ぶ線から向こう側(画面左上)は入海で、干潮時以外は完全に水没します。となると、大高周辺で大軍が駐留できる平地は、義元本陣推定地の下から大高城、鷲津砦を結ぶ線の内側しか無く、恐らく主力部隊がここに居た可能性は高いでしょう。本陣からも1q以内の地区に分散できますから、とりあえず義元が見える範囲に主力を置くことが出来る、という利点もあります。よって三河物語の記述は信頼できると見ていいでしょう。
ちなみに軍の主力が義元の本陣から見て南側の低地に居たと考えれば、北側の中島砦を出た信長の奇襲部隊が容易に本陣に接近出来た理由もある程度まで説明が付きます。丸根、鷲津の両砦が攻められた、と聞いて地理勘のあった信長は、すぐにこの点にも気が付いていたはずですから、やはり彼の行動は決してギャンブルでは無いのです。
一帯は1500×300m程度の広さがあるので、一人当たり四メートル四方のそれなりの広さの空間を与えても、2万8千人くらいまでの軍勢が入る事が計算上は可能です。ただし湿地部分は田んぼ、あるいは一部が池などだった可能性が高く、さらに松平軍団が居たりした事を考えると、ここに今川軍全員が入ることは出来なかったでしょう。恐らく鳴海城解放戦にそなえた主力部隊のみが居たと思われ、そして先に見たように織田軍が五千の戦力と聞いて撤退を開始した事からすると1万5千以下の人数だったのではないか、と筆者は考えています。
そしてその状態でも、自軍の兵だけで一杯だったとはずで、当然、戦闘隊形なんて取れません。よってここに兵を集めた目的は別にあるはずです。この点、一帯は西側の海が干潮時に干潟になってしまえば全軍が鳴海方面に一気に移動できる、という利点がありました。よって前回に触れたように、どうも義元はそれを狙っていたようにも見えます。
ただし周囲を丘陵と入海で塞がれた逃げ場の無い低湿地ですから、本来なら大軍を置くべき土地ではないのにも注意が要ります。大軍の移動に適した東海道に出るには丘陵の谷間を通る細い道を使うしかないのですが、これらは義元の本陣横を通ってます。よって織田軍がそこを抑えてしまうと脱出路を完全に塞がれる事を意味します。まさか本陣を占領されるとは思ってなかったのでしょうが、不幸にしてその事態は発生してしまうのです。
信長の手勢では完全封鎖は無理だったと思いますが、それでも退路を断てる高地に織田軍が現れた心理効果は大きかったでしょう。
この結果、我先にと逃げ出した主力部隊の一部が周囲のパニックを誘った可能性は高く、直前の嵐で動揺していた事が拍車を掛けた可能性もあります。そして不幸にして、この主力軍の動きを本陣に居た義元は知りませんでした。その後、本陣が襲撃されて指揮官が行方不明となってしまえば、後は無秩序な全軍敗走が待つのみです。この辺りは三河物語が述べる通りだったと思われます。
こうして見ると義元の行動はあまりに不注意でした。ただし、もし信長が清洲から動かず、織田軍の本隊が襲来しなかったなら、何の問題も無かったのです。よってこの場所から大軍を一気に鳴海方面に移動させる、という彼の考えは必ずしも無意味なものではありませんでした。
ところが不幸にして信長は討って出て、高速行動による情報戦を完全に制圧してしまいます。この結果、義元に自分の位置を知られずに最後まで何の対策もとらせないまま、奇襲によってその大軍を壊滅へと追い込みます。これはもうOODAループの高速情報戦の完全勝利だった、と言っていい戦いでした。義元の不幸は、最後まで信長の、そしてその主力部隊の現在地を把握していなかった事にあります。その点を除けば、彼の行動は非難すべき点はないのですが、その一点の過ちがあまりに大きかったのです。
■織田軍の人数と大嵐のこと
襲撃前の最後に、織田軍の2000人という数を考えて置きましょう。。
中島砦から低地を抜けて大高の丘陵地に向かう道は街道では無く、かなり狭かったと思われます。周囲が利家が首を投げ込んだような田んぼなら畦道のようなものしか無いはずで、そうなると二人横に並ぶのが精一杯、その状態で1m置きに並んで歩いたら全長で1qもの隊列になるのです。人気のラーメン店なんて目じゃない大行列であり、中島砦から義元本陣に至る道のほぼ半分を埋めつくしてしまう長さとなります。
今川軍がどれだけ油断していてもこれほどの兵の列を見逃す、というのはさすがに普通では考えられませぬ。
ところが、ここで信長の人生でも最高の幸運である大嵐のような夕立が来るのです。信長公記では襲撃直前に大木をなぎ倒すほどの風と、石のような大きさの氷、すなわちヒョウを降らす大嵐が来た、とされます。
これがどの程度の時間続いたのかは判りませんが、視界も遮られるようなこの大嵐で信長の軍勢は敵に見つかることなく、義元本陣周辺に展開できたと考えていいでしょう。そして今川軍の主力は山を挟んで反対の南側に居たのですから、山上から見つかりさえしなければ接近は容易だったと思われます。
ちなみに連載初回で少しだけ紹介した江戸初期の資料、尾張藩家老だった山澄英龍(ひでたつ)がまとめた「桶狭間合戦記(山澄本)」に筆者が若いころ、桶狭間で信長の馬を引いてた男から聞いた話が出てきます。ただし秀龍は寛永二年(1625年)の生まれとするのが一般的なので、すでに桶狭間から65年後、さらにその後となると最低でも80年後になります。これは西暦2010年生れの若者が、15歳位の時の2025年に太平洋戦争の生き残りの人にインタビューした、というような話であり、果たして桶狭間の生存者が居ただろうか、という疑問は残るのですが、とりあえず紹介して置きましょう。
その老人の証言によれば「信長様が山へ乗り上げたり下ったりした、という以外は特に聞いてない。ただしあの日はとても暑い日で猛火の側に居るようだった。それが昼前に小さな黒い雲が見えるとやがて見たこともない大嵐になった」のだとか。
すなわち中島砦を出るころまでは快晴であり、そこから突然の大嵐になった、という事で、信長の強運を感じさせる話となっています。
もっとも嵐が無く、織田軍が発見されたとしても、今川本陣は何の対策も取っておらず、軍の主力はすぐさま駆けつけられない1q前後離れた低地に居たのですから強襲は成功したでしょう。その場合、義元が逃げ延びれた可能性は高いですが、それでも本陣は敗走、そして先に見たように干潮前の湿地帯に居た敵主力は、退路を断たれる事になりますから、結局、敗軍は免れられなかったと思われます。実際、信長公記でも三河物語でも、嵐の事は触れてますが、それが信長の軍に大きく利した、とはしてないのです。この嵐が勝利呼び込んだ、と解説するのは江戸期の資料からですね。
それでも最低限の損害で最大の戦果を上げれた、という点でこの嵐は大きな意味を持ちました。そして、そういった錯綜した状況の中で最後の戦いが始まります。
|