■5月20日までの展開

さて、再び話をA軍集団の機甲部隊、クライスト装甲集団とホート装甲集団(NEW!)に戻します。17日の完全停止、そして18日のグダグダ状態でほぼ二日を無駄にしたのですが、19日からはヒゲのヒトラー公認で再度進撃が開始されました。これによって一気に侵攻が進むのですが、21日に入るとホート装甲集団の先頭を走るロンメルが電撃戦最大の激戦にして最大の危機であったアラスの戦いに巻き込まれ停滞、同時にクライスト装甲集団ではグデーリアン軍団の第2装甲師団が海岸線に到達した事で軍上層部が再度、その進撃を停止させてしまいます。

今回はとりあえずその再度の停滞直前まで、すなわち20日の夜までの状況を見て置きましょう。

ル・ケスノワとド・ゴール

19日から進撃を再開したA軍集団の装甲部隊は、以後、21日の朝に至るまでほぼ無抵抗の中、フランス領内快進撃に入ります。ただし例外が二つだけありました。

その一つがホート装甲集団配下の第5装甲師団です。ハルトリープ中将が率いる同師団は、ベルギー領内に侵入後、西に向かうロンメルと分かれ、フランス・ベルギー国境近郊にあるル・ケスノワ(Le Quesnoy)の攻略に向かいました。なんでこんな場所にと思うんですが、ここは中世から続く城塞都市で一帯は19世紀後半に築かれた城壁で守られていました。第一次大戦期にはドイツがここを4年間に渡り占拠、最終的にニュージーランド軍が煙幕の中、梯子を登って攻め込むと言う中世の攻城戦のような戦闘で攻略しています。



■Photo:National Library Wellington

第一次大戦時にニュージーランド軍が撮影したル・ケスノワの城壁。この時の攻略では破壊されなかったので1940年の第5装甲師団も同じ光景を見たはずです。

恐らく自分たちが頑張った記憶からフランス軍が立てこもったら厄介だと判断した&後で見る海岸線の封鎖に対し、高地の間を抜ける狭い通路を突破しル・ケスノワ周辺に連合軍主力の一部が逃げて来るのを警戒したのかもしれませぬ。ただし全周で4qほどの小さい城砦であり、実際、ここに居たのは精鋭とは言えない植民地軍、モロッコ兵による一個大隊のみでした。捨てて置いて全く問題無いと思うのですが、18日の段階でドイツ第5装甲師団が派遣され、さらに悪いことに以後、4日近くに渡ってここで脚止めを食らってしまいます。この結果、同師団は電撃戦から脱落、さらにロンメル大ピンチのアラスの戦いにも間に合わず、師団長のハルトリープ中将は解任されてしまうのです。この辺り、まともな資料が見つからず、そもそもなぜなんで城砦攻略を得意とする工兵部隊ではなく機動戦を任務とする虎の子の装甲師団を送り込んで包囲戦をやらせたのか、どうにも理解に苦しむ所があります(風の谷のナウシカ 3巻でクシャナ殿下が言っていたのがこれだ。ただしあっちは防衛側としての投入だけど)、とりあえず事実として、これで第5装甲師団は以後、電撃戦から脱落してしまうのです。

そしてもう一つの例外が、ド・ゴール大佐率いるフランス最後の装甲師団、第4装甲師団による襲撃でした。これがグデーリアン軍団に17日以降付きまとい、一時はその司令部を脅かす事になります。



フランス政治最大の汚点、アルジェリア戦争に乗じ、1958年、事実上のクーデーターで第五共和制に移行させ、その初代大統領になった、シャルル・“もっと低く飛びな”ドゴール(Charles André Joseph Marie de Gaulle)。ただし第二次大戦が始まった段階では師団長ながら一介の大佐に過ぎませんでした。ちなみにこの人も開戦前に何冊か著作を出版していた軍人の一人です(ただしあまり売れなかった。ついでに第一次世界大戦の英雄、ペタンのゴーストライターも務めており、これは公然の秘密だったらしい)。

フランス軍の中では戦車とその機甲戦の専門家筆頭であり一定の政治的な動きも出来る男でした。このため首相に就任したレイノーに直訴し独自の戦車師団、第4戦車師団を設立、その指揮官に収まったのです。ちなみに電撃戦が終了しつつあった6月1日頃に准将に昇進していますが、完全な負け戦の中の昇進は、これもレイノーの後押しがあったと思われます。

ただし第4装甲師団が正式に発足、ド・ゴールが師団長に任命されたのは電撃戦二日目の5月11日であり、本来は4個大隊あるはずの戦車部隊は3個半大隊、支援に当たる機械化歩兵部隊はほぼ無い状態でした。そのフランス第4装甲師団が、電撃末期なってからグデーリアンの装甲軍団の前に現れるのです。ただし戦力的には全く話にならないほどの差があったので、基本は一撃離脱のゲリラ戦法でした。

当初、ド・ゴールがフランス軍司令部から受けた命令はクライスト装甲集団が南下しないよう、セダン南方のエーヌ川沿いに展開する事でした(恐らくパリに向かう道の封鎖)。ところがド・ゴールはこの命令を無視、17日の午前から北上を開始します。目的地はグデーリアン軍団とラインハルト軍団の第6師団が合流したモンコーメ地区です。ド・ゴールは気が付いて無かったのですが、これは絶妙なタイミングでした。前日、モンコーメ周辺に集結していた両軍団の主戦力は既に前進を開始しており、一帯には第19装甲軍団、すなわちグデーリアン軍団の司令が無防備のまま残されていたのです。第1装甲師団の殿軍として数両の戦車が一帯にあるだけであり、これを蹴散らしてド・ゴールはその司令部に肉薄します。 すなわち、ドイツ側が警戒していた、第19装甲軍団に対する「南方からの横腹への攻撃」が、初めて実現した事になります。

この時、遅れてモンコーメを出て、第一装甲師団を追いかけようとしていたのが、師団の参謀将校、キールマンゼック大尉でした(Johann Adolf von Kielmansegg/戦後は西ドイツ軍で将軍となり、NATO中央軍指令官になった人物)。フランス軍の奇襲に驚いた大尉は修理のために残されていた戦車を集め防衛線を構築、残っていた工兵に簡易な地雷原を構築させ、さらに急ぎ空軍に支援を要請しました。その間にフランス戦車部隊、一個中隊がモンコーメ集落直前まで到達するのですが空軍の空襲に加え、例のストンヌの戦闘から離脱した第10装甲師団が一帯に到着、これによってドゴールのフランス第4装甲師団の攻勢は挫折するのです。この時、グデーリアンは捕虜から初めてド・ゴールの名を聞いたようです。

ただし第4装甲師団はまだ戦力を維持していたため、ド・ゴールは19日に再度、グデーリアン軍団司令部への奇襲を仕掛けます。この時は完全に無防備だった第19装甲軍団司令部に一気に迫るのですが、これも空軍の急降下爆撃に阻まれ挫折、一定の被害を受けてしまい、以後、フランス第4装甲師団による反撃は終了となるのです。それでもこれらがフランスの装甲師団が行った唯一の奇襲戦であり、同時に唯一の反撃でした。そして連合軍がグデーリアンを危機一髪な状況まで追い込んだのはこの攻撃だけでした。ド・ゴールがんばった、と言っていいというか、戦史に名を残す天才相手にこれだけ戦った大統領ってある意味凄いでしょう。まあ、上には上がいて、最強軍人本人が大統領になっちゃったヒンデンブルグとかもあるんですが、あの人の攻勢の多くはルーデンドルフの発案ですし、少なくとも大戦後に限っては銀河系最強の戦術屋の大統領だったと思います。



19日の奇襲はグデーリアンが軍団司令部に居る時に行われ、その司令部一帯にはこの20o対空機関砲が2〜3門あるのみの完全無防備状態でした。戦車に襲われたら、一方的に蹂躙されて終わったでしょう。このため空軍の援護を受けるまで、グデーリアンは極めて不安な数時間を過ごした、とその回顧録、「電撃戦」の中で述べています。

 



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