分散型OODAループの戦い

連載中、何度も述べているように電撃戦はOODAループの教科書のような戦いでした。ここでは、あらゆるOODAループの戦いが登場するのです。

これまでは単純なループの高速運用、そして「絶対的指針」の策定による、集団内の混乱回避と高速化などを見て来たわけです。今回のセダンの戦いではさらに集団同士のループ戦が登場して来ます。全ての判断と決定を司令部だけが行った結果、広大な戦場でたった一つのOODAループしか回せず敗北したフランス軍、現場指揮官への大胆な権限移譲により、無数のループをブン回して圧勝したドイツ軍の差です。ちょっと図にしておくとこんな感じですね。



全情報を最高司令部に集め判断し行動を命ずる、すなわち指令を出す指揮系統になっていたのがフランス軍でした。これは現場での独断専行を防ぎ、混乱を生じさせない利点はありますが、広大なフランス全土で唯一、最高司令部だけが意思決定を行うのでは全戦線で分単位の変化が起きる戦況に対応できるハズがありまぬ。ちなみに最高司令部の下に現地のフランス北東方面司令部があったんですが、ここが何をやっていたのか、実はよく判りませぬ…

さらに無数の情報が最高司令部に殺到しますからあっという間に情報処理能力が破綻し、ただでさえ遅い行動段階への移行が麻痺してしまう可能性が高いのです。そもそも全軍で一個のループしか回って無いのですから、司令部が少しでも判断に迷うと全ての「行動」が止まってしまいます。そして実際、この戦いはそうなって行きます。さらに以前も指摘したように、このような指揮系統なのにフランス軍は通信手段を軽視し、第一次世界大戦と変わらぬ有線電話だけで連絡を取っており、無線機はほぼ使われてませんでした。このため、ドイツ側の破壊工作、爆撃、砲撃で地上の電線が片っ端から切断されると速攻でその指揮系統は破綻します。よって以後、ガムラン将軍は司令部から100q以上離れた戦線にオートバイで伝令を出すと言う冗談みたいな状況になって行きます。以前も述べましたが、兵数、兵器の質と量、全てでドイツの上を行っていたフランスが惨敗したのはこれら全てのOODAループの停滞が原因でした。

さらに現地部隊は状況が全く判らない状況下に置かれる事になったため、一部は疑心暗鬼から独断で撤退を開始します(本人たちは確かに撤退命令を受けたと主張しているが、セダン戦の段階でフランス軍司令部が撤退命令を出した記録は無い)。さらに周囲の部隊も、隣の部隊がどうも撤退指令を受けたらしい、ならば我らも急ぎ下がらねば孤立して包囲されるとし、次々に戦線放棄を始める負の連鎖が起き、防衛線は速攻で崩壊するのです。そこにドイツ側の高速進撃が加わり、最後はパニックから軍組織としての崩壊に繋がって行きます。この辺りは後でまた見ましょう。




対してドイツ側はマホガニーの額に入れてニス塗った上でOODAループ学校の校長室に飾りたいような見事な高速集団ループをブン回してました。

すなわち現場の指揮官に独自判断を許し、司令部はよほどの事が無い限りその行動に介入しませんでした。これにより無数の情報が司令部に殺到して処理能力が飽和する事もなく、しかもその場で次の行動が決定されるため、圧倒的な高速で戦闘が進んで行くのです。

これはモルトケ謹製プロイセン参謀本部以来の文化的な伝統でした。ドイツ軍は各部隊に大きく権限を委譲し、現場部隊の独自判断を認めていたのです。このため「重要な目標」、すなわち「とにかく高速でマース川を渡河して敵主力部隊の背後に回るのだ」さえ守れば、以後どのような行動を取るかは現地指揮官に一任されていました。

よって何か新たな事態に遭遇してもいちいち上層部に報告せず「とにかく高速でマース川を渡河して敵主力部隊の背後に回る」ための判断を現場で行い戦闘は続行されます。当然、近所の師団司令部どころか場合によってはパリ近郊の最高司令部の判断待ちとなるフランス軍とはその行動の速度が決定的に異なって来るわけです。この点がいかんなく発揮されるのが今回のセダン戦でした。

ちなみに何度か書いてるように、これが出来たのは優秀な士官級の指揮官、大佐から少尉に至るまで、すなわち連隊長級から小隊級の指揮官まで、十分な教育を受けた優秀な士官が十分な数居たおかげです。そういった人材を戦前から育てていたのがドイツ軍の凄みとも言えます。ちなみにOODAループ的にあまりに見事な作戦展開になって行きますが当時OODAループの概念なんざありません。それがここまで理論通りなのは逆にボイドがOODAループ理論を組み上げる中で電撃戦を大いに研究した結果でしょう。卵が先か鶏が先かという話ですね。この点、OODAループは人間なら必ず取る基本行動に過ぎませんから無意識にやっていたのがドイツ軍、それを理論体系にまとめたのがボイドという事になるでしょう。

13日の戦いの前に

前回見たように、グデーリアン軍団は12日の夜までにベルギーの横断を終了、全師団がアルデンヌの森林地帯でフランス国境を突破します。そしてこれがドイツ軍による最初の国境突破でもありました。

フランス軍がこの状況が意味する事を完全に見落としたのも既に見た通り。ドイツ軍の主力は北部平原に雪崩れ込んで来たB軍集団であると決めてかかり、アルデンヌ方面から突破して来たドイツ軍の意味を慎重に検討した形跡は全く無いのです。意味も無くこんな面倒な場所からドイツ軍が来るわけ無いし、初めて国境を突破されたんだし、少しは警戒しろよと思うのは私だけでは無いでしょう。実際、この点は後世の後知恵、安易な結果論ではない、というのは当時の状況を見れば見るほど確信できます。一度でもなぜドイツ軍がここから国境を突破して来たのかを真剣に考え、慎重に情報の収集を行えば最終的な敗北は逃れられなくても、あそこまで一方的な完全試合にはならなかったでしょう(13日夜までに連合軍主力の一部を南下させて置けば完全包囲は避けれただろう)。

この判断の誤りがフランスに致命傷を与える一因なるのですが、この辺りはOODAループ以前の話、単純にフランス軍の最高司令部は底抜けに馬鹿だったという話になって行きます。何度も言いますが、軍が馬鹿だと国が滅ぶんですよ。



再度、地図で12日夜までの状況を確認して置きましょう。グデーリアン軍団、すなわち第19装甲軍団の全三個師団、さらに第1装甲師団と行動を共にしてたエリート歩兵部隊、大ドイツ連隊は既にマース川渡河地点、セダンに向け集結しつつありました。

開戦前からこのセダンが作戦中、最大の山場となると思われていたのはフランス北部を流れる大河、マース川の渡河地点だったからです。50m近い川幅を持つこの川はフランス国内を西に向けて進むにはどうしても突破しなくてはならない要害でした。当然、フランス側もここを天然の防衛線とし、全ての橋は落とし、対岸に無数のトーチカと銃座を築いて待ち構えていたのです。

ちなみにマース川を渡るだけなら幾らでも他の場所があるだろうと思う所ですが、ナポレオンIII世を捕虜にしちゃったプロイセン・フランス戦争の時代から、第一次世界大戦、そしてこの電撃戦と、ドイツがフランスに攻め込むときはほぼ毎回、ここでマース川を渡河をやります(第一次世界大戦の時はほとんど戦闘無しでドイツ軍は突破占領し、以後、セダンを補給流通の中枢地とした。後にこれを潰しにいった連合軍と1918年の激戦が行われる事になる)。多くの道路が交差する交通の要衝で国境突破後直ぐ渡河できる(ベルギー国境でフランス軍の行動は限られる)といった辺りがその理由でしょうか。

さらに言えばセダンからパリまでは約200q、対してイギリス海峡の海岸線までは約250qあります。すなわち海に向かうよりパリの方が近いのです。しかもかつてのプロイセン軍はナポ3代目を捕虜にした後、実際、パリに向かって進撃しています。このためグデーリアン軍団のセダン突破に気がついたフランス軍は、敵はこのままパリを襲うのではないかと疑い、結果的にこれもグデーリアンの快進撃を許してしまう一因となります。さらにこの時のグデーリアンは超必殺技、「行け行け第10装甲師団」を発動し、この混乱に拍車を掛けるのですが、その辺りはまた後で。



では13日の攻撃開始に至るまでの状況を見て置きましょう.
この一帯を守っていたのは、これもフランス第2軍に属する第55歩兵師団でした。そこにベルギー国内でケチョンケチョンにされた第5軽騎兵師団が撤収して来て合流したようですが、こちらはほとんど戦闘をした形跡がありませぬ。指揮系統も異なるので後方に下げられてしまったのかもしれません(第5軽騎兵師団は第2軍司令部直属、対して第55歩兵師団は第10軍団の配下だった)。

グデーリアン軍団の三個師団は前日中にフランス国内に侵入、遅れが目立っていた第2装甲師団は未だマース川に到達していなかったものの、残りの部隊、第1装甲師団+大ドイツ連隊、そして第10装甲師団はほぼ渡河地点まで進出していました。ただし川に着いたよ、じゃあ渡っちゃえ、といったような簡単な話では無く、渡河作戦には一定の準備行動が要ります。よって戦いはまず空から始まりました。すなわち衝撃の白いデブ、ゲーリング閣下率いるドイツ空軍による空爆です。


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