とりあえず満潮間は大高城から鳴海城を結ぶ線、そして中島砦がある河口付近まで水没したはずであり、逆に干潮になればここを歩いて移動できたと思われます。これが岩場だったのか、砂浜だったのかでまた話は変るのですが、今回はあくまで兵の移動ができればいいので深くは考えないで置きます。 ■同じく織田軍の動きのこと 対して織田軍の動きは急でした。以下は信長公記の記述によります。 まず信長は清須城から約13q南(信長公記によると三里)の熱田(あつた)神宮に到着、そこから両砦付近に煙が上がっているのを見て、すでに陥落した事を知ります(当時の熱田神宮は海に突き出す岬の上にある見晴らしの効く場所だった。海抜5m前後なので直線距離で7qの大高方面ならギリギリ水平線の上に見えたはず)。これが辰の刻、午前7時〜9時間の事でした。 日本馬の長距離移動時の平均速度を私は知らないのですが、人間の3倍程度、12q/hの速度ならちょうど1時間前後ですから、信長は午前6時から7時ごろに清須城を出たことになり、意外に遅いのに注意してください。午前5時前にはとっくに日の出となる夏至前後としては早朝とは言いかねるのです。この辺り、前回も少し触れたように、信長の当初の反応はやや後手に回っているのですが、以後のOODAループの回転速度と義元側の油断により、この後れを取り戻してしまいます。 念のため、再度ここにOODAループの基本形を掲載して置きましょう。 熱田での「観察」により信長は二つの砦が陥落した事を確認、それによって「敵は大高城周辺にまだ居る」のは確実になりました。となると「監察結果への適応」としては「奇襲するため、さらなる情報が必要だ」となります。よって正解行動は「現地に移動し情報を集め、その間に強襲部隊の軍勢が追いつくのを待つべき」となるわけです。信長は終始、情報を重視してましたから、この判断は当然だったでしょう。 この点、軍議ばかりやっていて行動が遅れまくった今川軍と違い、最高司令官である信長の独断で動いていた織田軍のループ回転は極めて速く、独裁の利点を完全に生かした例ともなっています。指令官が優秀な人材なら独裁という指揮系統は人類最速のOODAループ回転を可能にするものなのです。ただし当然、指揮官がボンクラだと最高速で地獄に突入する事にもなりますが…。 ちなみに熱田着の段階では騎馬武者、いわゆる指揮官級の士族は清洲を出た時と同じ信長を含め六騎のままですが、雑兵、いわゆる足軽がすでに二百人ほど集まっていた、とされます。ちなみに信長に付き従った五騎は以前少しふれた太田牛一(信長公記の筆者)を含む六人衆、側近部隊とは別の御小姓衆でした。 徒歩である足軽が二百人も清洲から追いついたのなら、信長はここでかなりの時間を潰した事になりますが、以後の信長の行動を見ると長居したとは思えず、那古屋城から熱田周辺までの雑兵が自主的に集まってきたのではないかと思われます。 合戦となれば立身出世、そして報奨がもらえる大チャンスであり、最大の裁量権を持つ大将について行けばその機会はより大きくなるはずで、これを見逃す手はありませんから。余談ながら、熱田へは中村地区からも近いので、この二百人の中に、目端の利くヤング木下藤吉郎が紛れ込んでいたんじゃないかなあ、と個人的には想像してますが、無論、なんの証拠もありません。 先の海上保安庁による潮汐計算では、1560年5月19日、すなわち6月12日(太陽暦換算)前後の最初の満潮は、朝6〜9時前後となっています。実際、信長公記でも既に満潮により熱田から鳴海方面への最短経路、干潟を通れなかったので、信長は陸路を経由して約6qほどの距離にある丹下砦まで南下した、とされます。もっとも干潟を経由した場合、大高城方面からも丸見えになるため、今川軍にあっさり発見される可能性もあり、これは必ずしも不利な面ばかりでは無かったと思われます。 この時の信長は「もみにもんで」急行したとあり、おそらく午前中のかなり早い段階で織田軍の北端の拠点、丹下砦に入ったと思われます。ちなみに信長は年がら年中、馬で走り回っていたのでその愛馬の持久力はベラボーで、こういった時に高速移動を可能にしていました。再度地図で確認するとこんな感じです。 ただし丹下砦はすぐに離れ、より南で戦場に近い高台にあった善照寺砦に入り、ようやく信長は動きを止めます。 ここで徒歩で追いかけて来る足軽部隊を待ち、配下の軍勢に戦闘隊形が取れるようにし、同時に情報収集に努めました。そして正午ごろに、信長は義元が未だ桶狭間山の本陣を動いていない「人馬の休息」中であるとの情報を入手するのです。これは決定的な情報でした。信長は間に合ったのです。ただし午後早くからの干潮に合わせて今川軍が北上する可能性があったことを考えると、時間的にはギリギリで、相手が信玄や後の家康ならとっくに行動を開始していたでしょう。この点は運とも言えますが、信長の接近を知っていたらさすがの義元も何か動いたでしょうから、やはり高速情報戦の勝利と見るべきです。 信長公記の記述によれば昼過ぎには信長は善照寺砦を離れたと思われるので、信長が清洲城を出撃してから約6時間前後で軍団を整え、いよいよ強襲に動いた事になります。清洲から善照寺砦までは鎌倉街道沿いに約20q。となると時速4qの徒歩で約5時間の距離なのですが、足軽衆は武装の上ですからもっと遅かったはずで、那古屋周辺の兵を中心にギリギリ集結が間に合った、場合によっては清洲よりも北部から来る兵の一部は到着してなかった、と思われます。が、先にも見たように午後の干潮になってしまえば義元の軍団は鳴海に向けて大高から大挙移動する可能性が高くなるため、信長としてはこれ以上は待てなかったはずです。 ちなみに信長公記では善照寺砦には指揮官の「佐久間」が居た、とだけあるのですが、これが元々ここを任されていた佐久間右衛門を指すのか、それとも丸根砦から逃げ延びた佐久間大学がここに拠点を移して全体の指揮を取っていたのかはよく判りませぬ。 ■先遣部隊全滅のこと その後、佐々隼人正、千秋四郎が指揮する別動隊三百人が先行して襲撃に出ました(人数三百計にて義元へ向かって足軽に罷出候)。が、これはあっさり返り討ちに合い、五十騎ほどが討ち死にした、とされます(単位が騎であるから指揮官級の士族の数だと思われる。となると配下の雑兵、足軽も含めてほぼ全滅に近いだろう)。 この攻撃の目的については何の説明もなく謎が多いのですが、その戦闘は今川と織田、両軍の陣地から観察されていたと信長公記にあります。今川義元はこれを見て「義元が矛先には天魔鬼神も不忍(耐えられぬ) 心地はよし」と喜んでまた一曲歌うのです。ジャイアンが戦場に出たような大将ですが、これで義元は本陣で計四曲熱唱した事になり、出撃前に一曲歌って踊っただけの信長を歌合戦では圧倒することになります。まあ、圧倒したところで何の役にも立ちませんが。 対して、信長はこの部隊の壊滅を見て東海道への入り口、当時は海に面した河口の三角州上にあった平地の中島砦に全軍を移動させます(扇川と手越川がこの辺りで合流するのはおそらく当時から変ってないはず)。 なぜ別動隊の壊滅が移動のきっかけになったのか、信長公記には全く説明が無いのですが、この点は後でまた検証します。とりあえず、あと一時間もすれば鳴海と大高の間の入海、そして中島砦周辺の河口部は完全に干潮となって陸地が現れ、今川軍の自由度は一気に拡大しますから、信長は義元本陣への急襲をすでに決意していたはずです。その軍勢は2000人以下だったとされますから、ギリギリの人数ではあったでしょう。当時の織田家の勢力を考えると、もう少し人数を集められたと思うのですが、これ以上は集結を待てなかったのだと思われます。 ただしまだ完全な干潮には早く、このため中島砦までの道は低湿地を抜ける狭い一本道しかありませんでした。 よってここを通過すると高台に居る今川軍から丸見えになって発見される上、軍勢の少なさを敵に知られると家老衆が信長を止めたのですが、これを振り切って信長は中島砦に移動、そしてそのまま奇襲攻撃に出撃する事を宣言します。 ここでもまた、両者が同じ事件を「観察」しながら、全く異なる「監察結果への適応」を行っていたことに注意してください。織田軍の先遣部隊の全滅を見て、片やご機嫌で歌って踊り、片や決戦を決意して死地へ向かったわけで、この段階である意味勝負があったとも言えます。 そしてこの間、義元は信長率いる織田軍本隊に対して、何一つOODAループを回していない事にも注意してください。 対して信長は清須城を出る時に始まり、熱田から砦方面を見た時、善照寺に入って義元動かずの報を受けた時、別動隊が壊滅した時、と義元本陣強襲のために少なくとも四回のループを回しており、十分に勝算をつけてから最後の「行動」に入ったのです。そして繰り返しますが、義元は信長率いる織田軍本隊に対しては完全に無策でした。 こうして5月19日の昼過ぎの段階で、両者の決戦の準備は整った事になります。 |