■義元本陣のこと
いよいよ桶狭間の決戦に入るわけですが、その前に、そもそも今川義元の本陣はどこだったのか、という問題が残っています。
その場所こそが今回の合戦の中心点であり、以下の地図のどこかだったのは確かです。そして少なくとも東海道沿いであり、桶狭間から大高城の間のどこかだったのも状況から考えてまず間違いありません。
とりあえず、大前提として、桶狭間の戦いはそもそも、織田軍に包囲された大高、鳴海の両城の救援が目的だった事を再度思い出してください。
では、そこからさらに場所を絞り込めるのかを少し考えてみましょう。
既に何度か述べたように義元は18日から大高地区に本陣を構え、19日に奇襲を受けるまでそこに居た、という説をこの記事では取っています。
数万の大軍を率いる本陣が、一日でそんなにウロウロするとは思えず、さらに山上の本陣は視界を確保するために周囲の樹木を片っ端から伐採せねばならない、という重労働が伴うので、その設営が楽では無いからです。
当然、義元が大高城に向かう移動中に桶狭間付近で休息をとっていた説は、そういった記述が当時の資料に見当たらない、大軍を率いて砦で攻めをやってるのに現地に最高司令官である義元が不在とは考えにくい、といった点から、問題外とします。
ただし長篠や三方ヶ原のように両軍が陣を敷いて対峙したわけではない、極めて狭い一点で起きた合戦の上、当時は地方の一大名に過ぎぬ信長の戦いだった故に世間の注目度も低く、義元の本陣がどこであったかは460年後の今では判りようがありませぬ。それでも、いくつかの点から推理し、ここであろうと考える事は可能です。
この点について、手がかりとなる記述を信長公記と三河物語から抜き出してみましょう。
■信長公記
〇桶狭間山で兵馬の休息中、義元は陣に居た、とされるので桶狭間山に本陣があったと思われる。そして桶狭間山の名から山上、少なくとも高台の上である。
〇義元は丸根、鷲津砦を堕とすのに戌亥(乾)、すなわち北東に兵をに向けて攻めた、とあるので、両砦から見て南東に義元の本陣はあった。
〇織田軍の佐々隼人正、千秋四郎が率いる別動隊が壊滅したのを信長、義元、ともに見ていた。よって両者はそれほどの距離を置かずに対峙していた事になる。ただし義元は信長がすぐそこに居る事を最後まで知らなかったと思われる。
〇信長が善照寺砦から中島砦に移動するにあたり、敵から発見されると家老衆がこれを止めているから、今川軍は中島砦周辺を視界に収める場所に居り、さらに上の条件と合わせて義元本陣からも見える場所だった可能性が高い。
〇その出陣の時、信長は敵陣を「あの武者」と呼んでいるから、その場から見える位置に義元の本陣はあったと思われる。
〇信長は中島砦を出る時に配下の武将に訓示し、その直後には今川軍が居る山際(おそらく稜線を指すので山頂に近い位置)に至り、そこで嵐にあった、という記述になっている。よって中島砦からそれほど遠くない高台だったと考えられる。
〇この日の干潮の時間(14時半前後)を考えると遅くとも14時ごろには今川軍が干潟を渡って鳴海に向けて動き出す可能性が高かった。実際に今川義元に動く意思があったかどうかは不明だが、動かれたら終わりなのだから、織田軍としては意識せざるを得なかっただろう。信長公記では義元本陣への奇襲は未の刻(13時〜15時)とされるが、以上から遅くとも14時前には行われたと考えていい。
よって大規模部隊が1時間前後で移動可能な距離、すなわち中島砦から 2〜3q以内の距離の高台だった可能性が高い(人間の平均歩行速度は4km/h前後だが、武装して動く集団の速度はそれよりずっと遅くなる。例えば義元の本陣は東海道沿いに直線距離で13q前後しかない岡崎城〜池鯉鮒城の移動に一日を費やしていた。対して江戸期に武士でもあった文化人の大田南畝(蜀山人)は東海道の約500kmを終点の大津まで12泊13日、すなわち一日平均38qも走破している)。
〇奇襲直前の嵐で大木が東に倒れる中、軍団は背後から風雨を受けたとあり、さらに義元本陣は織田軍から見て東にあったとされる。よって織田軍は西から強襲しており、西側から接近できる道が続く高台だったはず。
■三河物語
〇着陣した義元が「棒山の砦をつくづくと巡見して」とあるので、丸山、鷲津の両砦を観察できる場所に居たと判断される。
〇桶狭間の地名は最後まで一度も出てこない。すなわち義元は大高に着陣し、戦い、敗れた、となっている。
〇信長の襲撃前に「従者(かちもの)は早五人三人づつ山へ上がるを見て、我先にと退く。義元は其をば知り給わずして」、すなわち織田軍の兵が山に登るのを見て、今川軍の一部が逃げ始めたのに義元はそれを知らなかったとする。よって義元の本陣は山上で織田軍の動きが見えない場所に居て、それとは別の低い場所に多くの軍勢が居た、と推測される記述になっている。
以上に加えて、前回見たように丸根、鷲津砦からなる棒山砦の攻撃は外様といえる松平軍団に担当させた以上、これを大将の義元が督戦する必要があり、両砦が至近に見える場所に義元の本陣を置いたはずです。さらに、この後には鳴海城周辺の織田軍の砦を襲撃する予定なのだから、そこからも遠からぬ位置であることが望ましいのです。
さて、以上の条件を満たす場所はどこなのかを考えると、ほぼ以下の二か所に絞られます。
国土地理院の立体地図に明治期の低地を黄色で重ねたものをまた利用させていただいてますが、今回の標高の強調は二倍だけです。
国土地理院サイト 国土地理院地図の写真版を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
筆者が見た限り、上の条件を満たすのは図で示した二か所、現在は大高緑地として公園になっている高地の稜線上のみです。
推定地1、2、どちらでも上の条件を全て満たし、両者は小さな谷を挟んで200m離れただけのほぼ同じ場所ですから、どちらでも記事を書く上では問題ありません(推定値1を青で示してますが池ではありませぬ)。両者をまとめて本陣にした可能性もありますが、後で述べるように山上に本陣を設営するのはかなりの重労働ですから、おそらくどちらか一方に布陣していたと考えらえます。
ちなみに信長は今川義元と旗本三百騎を西側から襲撃したとされ、その状態で今川軍が谷に降りるのを避け、丘陵上を東に向かうと桶狭間の低地部に迷い込むことになりますから、これも信長公記の記述に一致します。
そもそも太閤検地前の時代ですから、村落や地名が現在と同じという保証は無いのですが、少なくともこの丘陵部のどこかに今川義元が居たのはほぼ間違いないと思います。当時、人が住んでもない丘陵地にいちいち名前を付けるとも思えないので、桶狭間の湿地の横の丘陵だから桶狭間山、という程度の認識だったと思われますし。
では、ここからの視界について同じ立体地図で確認してみましょう。
地形だけの立体化なので樹木が無い前提なのに注意してください。ただし合戦の最中ですから、この本陣周辺はもちろん、大高城、そして織田方の砦の周辺も、その樹木は可能な限り伐採され(樹木があると隠れて接近されてしまうし麓から火を放たれる危険性もある)、おそらくこれに近い視界が確保できたと思われます。
その場合、御覧のようにどちらからも大高城、そして丸根、鷲津の両砦が見えるのです。標高は手前の推定地2の方が僅かながら高く、最高地点で海抜52mほどあります。黄色い湿地帯は当時は満潮時には水没してましたから、海抜2m以下と思われ、よって一帯の視界は良かったはずです。
鷲津砦は手前に低い丘陵を挟んだ向こう側にあるため、ここから少しでも動いてしまうと見えなくなります。よって砦攻めを督戦するにはこの位置しか無く、さらに周囲から見て最も高い場所で、稜線上なので一定の広さもあります。よって大高城を囲む棒山の砦攻めを督戦するには理想的な立地であり、よほど戦術眼の鈍い指揮官でなければ、この場所以外に本陣を置くとは考えにくいです。そして義元を含め、今川軍の指揮官はそれなりに実戦経験がありましたから、おそらくここを選んだと筆者は考えます。
その代わり、どちらも200×40m程度の広さの場所なので、多くても千人以下の人数しか置けなかったはずです。よって奇襲に成功すればこれを一気に蹂躙できる条件を満たす場所にもなっています(約8千uだから、二メートル四方の狭い空間に武装した兵を詰め込めば二千人入るが、それでは指揮官たちはまともに身動きも取れない。しかも樹林の伐採跡で切り株だらけの荒地である。どんなに無茶をしてもその半分以下の人数だろう)。
ちなみにこの位置関係だと大高城からもまた、義元本陣は見えたのに注意してください。すなわち城に居た元康(家康)は、織田軍による奇襲に気が付いていたはずなのです。この点はまた後で考えます。
ちなみにその位置から北方向を見るとこんな感じです。周辺の入海と河口(黄色い低湿地部の左側一帯)を挟んで対岸にある鳴海城はもちろん、善照寺砦、中島砦まで丸見えとなります。
先にも述べたようにこちらは海抜50m以上、対して中島砦は河口沿いの三角州の上にあったので、海抜4m以下でしょうから、両者にはほぼ15階建てのマンションに相当する高度差がありました(ただしオフィスビル、商業施設などは天井がもう少し高いので12階建て位になる)。今川本陣側から中島砦まで直線距離で約1.6qですが、その観察はできたでしょう。
ただし繰り返しますが、これは樹木が無い状態ですから、実際の視界は義元が本陣をここに構えた時、どこまで周囲を伐採したのかによります。後に信長の中島砦からの出撃を見逃してる辺り、その方面の樹木はそれほど伐採してなかったように思われますが、今となっては全く判りませぬ。この点、織田軍が少数過ぎて、この距離からでは動きがよく判らなかった、という可能性もありますので。
そして中島砦から手越川を渡り、この丘陵に至る谷沿いの低地を示す、黄色い帯が画面やや右側に見えているのにも注意してください。この低地に沿って入り込む道があるのは1920年(大正9年)の2万5千分の1の測量地図でも確認でき、これは画面を横切って左側、丘陵の西側に回り込む辺りまで続きます。
中島砦周辺には集落があったと信長公記にありますから、江戸期に干拓される前からこの辺りは河口より高い位置だったはずで、よって当時でも人馬が通れる道があったと思われます。なので今川軍がここに入って陣を張ることも、織田軍がそこに西側から接近することも可能だったはずです。よって、これも上で見た条件を見たします。
とりあえずここが今川義元の本陣だとすると、中島砦からは約1.5q、丘陵の麓までは平地である事から徒歩20分ほど、よってスキを突いて一気に接近できる距離ではありました。さらによく知られるように突然の大嵐の襲来があって、その行動を隠すことはより容易になったわけです。この距離なら嵐の中を一気に接近してしまう事もできたでしょう。
これだけの条件が揃う以上、ほぼここで間違いないと筆者は考えますが、全て状況証拠ですから、絶対とは言えません。この記事ではここが本陣として話を進めますが、もし実際の場所が違っていても、この周辺のどこかに居たのは確かであり、大筋では問題ないと思っていただいていいはずです。
■織田軍侵入のこと
上の写真を見れば、中島砦から本陣のある丘陵に至る最も重要な一本道を今川軍は塞いで無かったのか、少なくとも警戒すらして無かったのか、という疑問が当然、浮かんできます。筆者の推測が間違っていて、義元の本陣は別の場所だったとしても低地の中島砦周辺から丘陵地に向かう以上、同じような問題はあったはずです。
そうなると先に見た、謎の別動隊300人は、この一帯を塞いでいた今川の部隊を別の位置に誘い出すための陽動だったのでは、という考えが浮かぶことになるのですが、この辺りはあくまで推測となり、何ら確証はありません。ただそうとでも考えないと、あまりに今川軍はマヌケだ、という事になってしまうのです。
もっとも警戒はしてたけど数十人程度の部隊を置いただけで、嵐に乗じて接近した織田軍にあっさり突破された、というような可能性もありますが、信長公記にも三河物語にも、この辺りの記述が無いので、全ては推測になってしまいます。事実として今川軍は織田軍の強襲部隊が本陣に近づくことを許してしまったので、何らかの手落ちがあったのは確かですが、それが何かは今となっては判らないのです。
という感じで、今回はここまで。次回、決戦です。
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