■戦いの始まりのこと
ではいよいよ、桶狭間戦いまでの流れを見てゆきます。
とにかく織田信長がOODAループの高速回転で今川を圧倒したのがこの戦いでした。これは信長自身の決断力にもよるのですが、同時に今川義元の優柔不断さ、OODAループ回転の遅さが致命傷になった戦いでもあります。
桶狭間の戦いは敵に一切の観測させない事でOODAループを回転させず、常に先手を取るというOODAループ戦の王道中の王道、敵OODAループの完全麻痺による圧勝でした。戦いの結末は、天候による運があったのも事実ですが、その運を味方にできる場所に信長が居たのは彼の決断力と統率力によるものだったのもまた事実なのです。
それでは両者が決戦に向かって進んだ19日朝までの状況から確認して行きましょう。
国土地理院サイト 明治期の低湿地図を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
■5月18日中の動きのこと
先に動いたのは今川軍です。
義元はまず南の大高城を囲む織田軍の砦を潰すつもりでした。東海道沿いに進出するなら当然の判断です。
三河物語によれば義元は19日当日に池鯉鮒(知立)を出て大高城周辺に着陣。城を囲む織田軍の丸根、鷲津の両砦を眺められる地点で家臣団を集めて軍議を始めたとされます。ただし、早朝に戦いは始まっている以上、19日当日着陣はどう考えても無理があり、この辺りは信長公記にもあるように前日の18日の段階で今川軍は大高周辺に到着していたと考えるべきでしょう。
ちなみに三河物語では今川軍は大高城の救援に向かい、戦い、敗れた、という説明だけになっています。すなわち桶狭間の地名が全く出て来ないのです。地元で地理に明るい織田側との認識の差にも見えますが、筆者の大久保彦左衛門が小瀬甫庵の通俗小説、「信長記」を読んでいる事は本文中に書かれていますから、桶狭間の地名を知りながら意識的に無視してるようにも見えます(本記事で資料としている太田牛一の「信長公記」は読んでないように見えるが確証は無い)。この点は、ちょっと注意して置いてください。
また「桶狭間」という地名から谷間が戦場になったのかと思てしまいますが、全く違いますから要注意。
「おけはざま山に人馬の休息これあり」、と信長公記に書かれているように、義元は「おけはざま山」、すなわち高台に居たのです。それ以外にもいくつかの点から、義元が高台の山上に居たのはほぼ間違いありません。
そもそも大高城、丸山砦、鷲津砦は全てが高台にあるのですから、戦術を考える上でも戦況を監督するためにも自分も高台に上がらなければダメなのです。ただし、それは義元の本陣だけの話であり軍団の主戦力の配置は別、というのはまた後で見ます。
さらに江戸期の書籍や明治の陸軍参謀本部がまとめた戦記などでは、義元は19日になってから沓掛城を出て大高城に向かい、途中の桶狭間で休憩中に襲撃されたと説明される事が多いですが、そんな記述は信長公記にも三河物語にもありません。中には宴会やってたとする話もありますが、論外でしょう。まだ鳴海城解放戦が残ってるんですから。
この辺り、先に述べたように三河物語では桶狭間の地名すら登場せず、義元はゆったりと昼食を取っていた、とだけされ、信長公記では、今川義元は兵馬を休ませながら桶狭間山に居た、と書かれているだけです。
よって普通に考えれば、今川義元は18日の内に池鯉鮒から東海道沿いに進んで大高周辺に着陣、丸根、鷲津の砦攻めを監督できる高台、「桶狭間山」に陣を張った、と考えるべきでしょう。万単位の軍団を率いて砦攻めをやるのに、本陣がそんなにウロウロするとは考えにくいですから、そのまま翌日、この本陣のある桶狭間山で決戦となったはずです。この場合、問題は信長公記にある「桶狭間山」の場所ですが、この点は次回に考えます。
■信長の異常のこと
今川軍着陣の報は、大高城から約20qの距離にある清洲の信長の元に18日中に届けられました。佐久間大学(丸根砦)、織田玄蕃(鷲津砦)の両指揮官から「敵は夜間に大高城へ兵糧を補給し、織田軍の援護が難しくなる翌朝の満潮を待ち、両砦に攻撃を開始すると思われる」と18日の夕刻に連絡が入った事が信長公記にあります。
ただし、18日の夕刻にこの報告を受け取りながら、信長は特に軍議はせず、軍団へも何の指示も出さないまま、配下の武将を深夜になると城から帰してしまいます。このため織田家の家老が、運が尽きる時には知恵の鏡も雲ってしまうようだ、と信長を「嘲弄」したと信長公記にはあるのは有名です。
どちらも異常ですね。
この異常な行動の理由は今となっては信長本人とその家臣団にしか判りませんが、いろいろ推測することは可能です。
まず、桶狭間合戦の時、信長の敵は今川だけではありませんでした。
北の美濃では、嫁さんの父ちゃん、すなわち義理の父だった斎藤道三(どうざん)が弘治二年(1556年)に息子の斎藤義龍(よしたつ)に討たれたため、この段階で斎藤家と信長とは敵対関係にありました。すなわち信長は南北に同時に敵を抱えていた事になります。私が斎藤義龍なら、清洲の城下に諜報員を貼りつけて置いたでしょう。信長と織田軍の主力が城を空けて南下するなら大チャンス到来ですから。おそらく織田の家臣団にも一人や二人でない斎藤家への内通者が居て不思議は無かったと思われます。
さらに信長の実弟、よくできた弟として家臣団に人気だった弟の勘十郎(信行または信勝)の存在がありました。
勘十郎はこの段階で既にに信長によって謀殺されていたと見ていいのですが、それからさほど時間は経ってなかったと思われ、信長の家臣団は必ずしも一枚岩ではありませんでした。よって家臣団の中にチャンスがあれば勘十郎の仇であるウツケの信長を裏切って寝返っちゃおう、と思っていた人物がいても不思議はなく、彼らにとって信長の危機は、必ずしも自分の危機を意味しないわけです。
このような状況下で今川軍、大高に着陣の報が清須城にもたらされる事になります。
■信長が行動の「観察」を防ぐのこと
この段階で最も重要な情報は兵力差が最大10倍近くになるとされる今川軍団に対して、織田側がどう出るか、でした。これを「観察」しないと敵である斎藤さんも今川さんもOODAループが回せないのです。
念のため、ここで再度OODAループの基本形を確認しておきますよ。
すでに何度か述べたように、全ては「観測」から始まる以上、これを封じてしまえば、敵はループを回せないまま「行動」に入れず、一方的に受け身の状態にされる事に注意してください。よって自らの行動の秘匿に成功すれば、先に優位に立てます。
この点、後世の我々は翌19日の朝に突然、信長が今川の軍団めがけて出撃するのを知っていますが、18日夜の時点では、守りを固めて清洲に籠城するのが現実的な選択肢だったのに注意が要ります。
公称4万5千という軍団は、大高城周辺に出現した段階で、実はそこまでの数ではない、とバレていた可能性がありました。攻城戦では数倍の兵力差でも攻め落とせない事があるため、こうなると織田家の残存兵力をかき集め5000人くらいで清洲城に籠城してしまえばなんとかなる可能性が出てきます。今川の目的は尾張の支配である以上、同じ目的の斎藤義龍と同盟される心配は無く、その攻撃をしのぎ切ってしまえば少なくとも尾張の北半分は織田家の支配下に残せたはずです。
以上の理由から信長にとって清洲での籠城戦は有力な選択肢となります。
籠城になれば、美濃の斎藤義龍が南下、信長の留守に城を乗っ取っちゃうのは無理となりますが、大高周辺に攻め寄せた今川軍から見れば織田軍の主力が出てこない以上、目の前の砦だけに集中すればよく、理想的な展開となります。ミッドウェイ海戦でアメリカ側の空母機動部隊が出撃して来ないようなものですから。よって、両者ともこの点に注目していたはずです。
この点、城下で兵に動きがあれば織田軍の行動の判断が可能で、前夜の内に敵の密偵によってすぐに報告されたでしょう。そうなれば敵は一定の準備ができてしまいます。
ところが信長は家臣団を深夜まで城に引き留め、その後も何の指示を出さなかったため、清洲の城下では何の動きも生じませんでした。こうなると例え内通者が居たとしても、何も判らないままで終わります。常識的に見て、この状態なら籠城に決したのだろう、と考えた可能性も高いでしょう。となると北の斎藤さんは迂闊に動けませんし、今川さんとしては大安心となるわけです。いずれにせよ、信長が敵に何の情報も与えなかった事だけは確かです。
■信長動くのこと
ところが翌19日の早朝、丸山、鷲津の両砦から敵の攻撃開始の報が届くと、信長は「敦盛」の幸若舞を歌い踊って朝食を立ったまま掻き込むと、軍出撃(集合かもしれない)の合図である法螺を吹かせます。後は具足を着込むと、わずか五人の小姓衆だけを連れて、真っ先に馬を駆り熱田を目指して街道を南下してしまったと信長公記にあります。
信長の気性を知る家臣団としては、驚きながらも兵をまとめて追うしかありません。すなわちこの段階で初めて皆が、籠城ではなく出撃に決したことを知ったわけです。
なにせ清洲城から最速で今川軍に向かっているのは信長本人なんですから、これを超える速度で清須城から敵に情報が漏れる事はありえません(笑)。光速を超えて情報の伝播は出来ないようなもんです。そして信長はこの日の午後に奇襲で戦いに決着をつけると、可能な限り素早く清洲に帰ってしまったので美濃の斎藤義龍も全く動けずに終わりました。信長の高速戦闘の勝利だったと言っていいでしょう。よってまずは、この高速情報戦について、少し詳しく見て置きます。
■信長の高速戦のこと
19日の朝が来て、歌って踊って朝飯食べた信長が馬に乗って城を走り去るまで、織田軍においても籠城なのか出撃なのかほぼ誰も知らず、そうなると当然、敵の今川軍も信長の動きを全く知らないままでした。すなわち敵にOODAループの第一段階である「観察」を行わせないまま不意討ちの出撃に信長は成功した事になります。これがこの日の勝利の第一歩だったと思っていいでしょう。
高速な行動によって敵の観測を防ぐ、または与える情報の質を落とすのは極めて有効なOODAループ戦の手段です。それは以下のような事を意味するからです。
まず両者が動かずに居る静的な情報戦なら、観察者からの報告はほぼ同じ時間を経過してから敵と味方の双方に届きます。
よって諜報員の能力によほどの差が無い限り、その情報の質に差はつきません。城下に家臣団を集めた、こちらも軍団首脳を集めて軍議を始めた、といった情報が互いに行き来する事になり、情報戦として特に見るべきところは特にありません。
が、この朝の信長のように観察対象である指揮官と司令部、さらにはその軍団までもが敵に向けて速攻で出撃してしまうとどうなるか。まず観察者が軍について行けなかった場合、情報は一方的に途切れて終わります。そもそも信長がどこに向かって出て行ったのを確認するにも手間取るでしょう。対して信長は街道に沿って戦場に向かうため、現地からの連絡員と常に接触でき、戦場に接近するにつれ情報の鮮度は上がって行きます。相手がこちらの観察者の前から動かない限り、この優位は最後まで続くのです。
この場合、信長が現地に入った段階で今川軍の状況を完全に把握し、襲撃すべき今川義元の本陣の場所まで知っていたのに対し、義元は信長が現地に到着したことすら知らないままで終わります。圧倒的に不利と見ていいでしょう。
それよりはマシな場合、すなわち出撃した家臣団の中に諜報員が居る、すなわち観測者も動く場合はどうか。
これは先の条件よりましですが、それでも報告を送り出した後に信長はさらに前進してしまいますから、やはり不利です。信長が熱田神宮に着いた段階で使者を出しても、信長が高速移動してしまう結果、情報は常に古くなってしまうのを避けれません。
よって義元が報告を受け取り、ホホホ、信長のウツケが熱田まで来たか、いとおかし、とか言ってる段階で、既に敵は大高の自陣の目と鼻の先で抜刀突撃準備に入ってる可能性もあるのです。実際、この後の展開は、そういったものになって行きます。結局、指揮官自ら高速行動を取っている信長に対し、本陣から全く動かない義元は常に不利な状態に置かれ続けます。
もちろん、今川軍から直接発見された段階でこの優位は終わりですが、その段階で自軍は完全に戦闘態勢を整え突入中なのに対し敵は何の備えをしていない、しかも行動に時間のかかる大軍ですから、一定の優位は残ります。まともに迎え撃つ事ができないのですから、よほどの戦力差、そして指揮系統の優秀さが無いといかな大軍であれ、一方的に蹂躙される事になるでしょう。
すなわち、信長は自軍の「心臓部」の位置を決して敵に把握させないまま、今川軍の「心臓部」である義元の本陣の位置を完全に把握し、その優位を持って最速の奇襲を行えたのです。この差は決定的でした。
(ちなみにクラウゼヴィッツ風に言うなら「心臓部」は「重心点」となる)。
このように敵に情報を与えない戦闘というのは、超音速で飛翔する弾丸で敵を狙撃するようなものだと思ってください。超音速の弾丸は音が聞こえるより先に着弾するため、発射音がした、撃たれたぞ、という情報を与える前に標的を殺してしまいます。
すなわち「発射音」という重要な情報を相手に与える前に着弾する以上、敵は何もできない、反撃どころか回避に入る事すらできないまま終わるのです。同じように、一切の情報を「観察」ができない状態にしてしまえば敵は確実に敗北します。人間の行動原理であるOODAループが全く回転しない以上、何ら行動に入れないまま、一方的に不利な状態に追い込まれるからです。
これこそが情報伝播の最前線に最高指揮官が居続け、敵に行動が漏れる前に先手を打ち続けた信長の高速情報戦の勝利でした。
ただし第二次大戦以降、航空偵察や小型無線機による連絡が有効になって来ると高速行動における情報伝達戦での優位はかなり薄れて来ます。それでも電撃戦でドイツ陸軍のグデーリアンが指揮官ごと高速移動をやってフランス軍を蹂躙、さらに中東戦争でイスラエル陸軍も同じような事をやって成功してますから、一定の有効性は残ったと考えていいでしょう。
■高速情報戦による敗北のこと
この情報把握の差、信長が清洲を出撃した時の「観察」段階の差は以後も決定的に効いてきます。
信長公記や三河物語の記述を見る限り、信長の以後の行動が速すぎて、今川軍は最後まで信長率いる織田軍本隊の所在どころか、清洲から出たかどうかすら完全には掴んでなかった可能性が高いのです。すなわち敵のOODAループを最初から最後まで麻痺させたまま、信長は圧勝する事になります。
この「観察」される事を徹底的に防ぐというのはOODAループ戦の基本中の基本にして最終奥義となりますから、覚えておいてください。
ちなみに信長が最初に回したOODAループでは、今川は自ら身動きの取れない丘陵地帯に入り込んだ、各個撃破できるぞ、という「仮説作成」まで至り、後は本当にそれが可能な状態なのか知りたい、と「観測」段階に一度ループを戻し、その情報収集を目的とした先行を信長は行ったのだと思われます。
さらに余談ですが、出撃時に信長が歌って踊った敦盛の歌詞が有名な「人間五十年
下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」ですが、敦盛は謡と踊りによる物語なので、実際はもっと長いものです。この部分だけで気が済んだのが、ノッテ来ちゃって全部歌って踊っちゃったのかは謎で、個人的には気になるんですが、ここでは深くは考えません(笑)。
ちなみにこの後、今川義元も陣地で歌って踊るので、戦いはヨシモト東西歌合戦的な展開を見せます。ただし義元はより多くの曲数を二回に分けて歌って踊ってます。よって歌合戦ではどうも信長劣勢だったようにも思えるのですが、まあ、どうでもいいですね。
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