■今川方の混乱のこと
さて、では19日朝、信長がハイヨーと清須城から出撃した段階まで、今川軍の状況がどうだったのかを確認します。
決戦前日、18日の段階で義元率いる本隊が大高地区にまで進出していたのは既に見ましたが、この日は丸根と鷲津砦の観察を行い、家臣団との軍議だけで終わったと見ていいようです。念のため、現地の位置関係を再度、確認しておきましょう。
国土地理院サイト 明治期の低湿地図を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
地図左側に大高城がありますが、ここから右の桶狭間の手前に至る一帯が古くから大高と呼ばれる土地だったようで、義元は18日の段階で大高城から桶狭間の間のどこかに着陣したはずです。その本陣が置かれた「桶狭間山」がどこなのか、という点は次回に見ましょう。
三河物語によれば、大高に到着した義元は織田側の砦を念入りに観測、指揮官を集めて軍議を長々と行ってから攻め取ることに決定し、松平元康(家康)に先陣を命じた、とあります。
義元の軍議が長い、というのは信長公記には無い話ですが、三河物語によれば以後も義元の軍議は常に長評定になりがちだったと批判しています。
ちなみに三河物語では大高城を囲む織田軍の砦を「棒山の砦」と呼び、佐久間大学が守っていた、とだけ書かれています。
すなわち丸根、鷲津の二つの砦をまとめて一つと見なしているのです。この辺り、攻城戦の砦であり、用心深い信長が造らせた砦ですから、両者の間には柵などが巡らされ、事実上一体化していた可能性もあると考えるべきでしょう。砦の距離は500m前後、その間は丘陵の斜面で深い谷ではないので、そういったものがあっても不思議は無いはずです。ここを封鎖してしまうと、当時は入海があったので、大高城から東海道への連絡は絶たれたと思われますから、ありえる話ですが、あくまで詳細は不明です。
■家康の砦攻撃のこと
丸根、鷲津の両砦攻めを命じられた家康が攻撃を開始たのが19日の夜明けでした(以後、三河物語に従い両者で棒山砦とする)。
ちなみに信長公記では佐久間大学などから「今川軍は夜の内に大高城に密かに兵糧を運び込み、朝の満潮を利用して攻撃して来るだろう」と報告があったと書かれており、いかにもその条件で敵が攻めてきたように見えますが、三河物語によると、実際はそうはなら無かったのです。
まず大高城への兵糧搬入は前夜にではなく、最終的に棒山砦を落とした後に行われています。
さらに夜明けとほぼ同時に攻撃を開始した松平元康(家康)は、明らかに満潮を待たず攻撃を開始してます。ただし、これが元康(家康)が奇襲を仕掛けたのか、単に義元の長評定で時間が無くなり、夜明けと同時に動くしかなかったのかはよく判りません。筆者は後者だろうと推測してますが、結果的に奇襲になったと見ていいようです。
ちなみに棒山砦の指揮官だった織田家の重臣の一人、佐久間大学は江戸期以降の資料では、この時の戦いで討ち死にしたと説明される事が多いですが、信長公記にそういった記述は無く、三河物語でははっきりと逃げのびたと書かれてます。
こうして夜明けと同時に元康(家康)率いる松平軍団は棒山砦へ攻め寄せ、陥落させます。信長公記では主従六騎だけの信長たちが熱田に到着した辰の刻、午前7時〜9時の段階ですでに砦方向から煙が上がり、攻め落とされたのが確認できたとされますから、その攻撃はかなり速やかに成功したようです。おそらく今川軍が入っていた大高城からも共闘して討って出たと思われますが、三河物語にそういった記述はありませぬ。とりあえず、松平軍団が速やかに仕事を片づけた、というのは間違いないようです。
ついでながら江戸期以降の資料ではこの時、信長は熱田神宮で必勝祈願をしたとするものが多いですが、信長公記にそういった記述はありませぬ。当時は海に突き出た高台の半島だった神宮の端から砦方向を観察した、とのみあるのです。
とりあえず、ここまでは今川軍も好調でした。ところが、再び長評定で今川軍の動きが停まります。
三河物語によると、砦が堕ちた後、大高城に元康(家康)の軍団が兵量を運びこんで、城は救われたのですが、城を守っていた鵜殿長持を交代させる事に義元は決めます。長い籠城戦で消耗したためだと思うのですが、この交代に誰を当てるかがなかなか決まらず、またも長評定となってしまい、結局他に人が無いので、現地に居た松平元康(家康)をそのまま城に入れて守らせることに決したのでした。こうして元康(家康)は以後、大高城に居たため、今川軍の壊滅から逃れられる事になります。おそらく配下の松平軍団もそのまま城に入っていたはずです。
こうして家康が棒山砦を落としてから、そのまま大高城の番手(城番。城の指揮官である)として入るのを決めるのに義元がもたついてる間に、信長が現地に駆けつけてしまった、と三河物語では述べています。とりあえず今川軍の動きは以上のような状況でした。
■信長の決断のこと
ここで信長が籠城ではなく、大高城周辺での野外決戦に臨んだ理由を少し考えておきましょう。
家臣団がいつ裏切るか判らん状況で籠城は避けたい、と最初から信長が考えていた可能性は高いのですが、最終的に出撃に決したのは義元が大高周辺に向かったからでしょう。もし今川軍が比較的平坦な鎌倉街道経由で北側の鳴海城解放に来ていたら、果たして出撃を決意したかは微妙だと思います。信長は意外に用心深く、勝算のない事はしない人ですから清洲で籠城に入った可能性は高いと思われます。そっちの方が生き残れる可能性は高いですからね。
では、なぜ大高なのか、と言えば丘陵地帯で広い平地が存在せず、大軍による戦闘展開は不可能な地形だったからでしょう。
当時の野戦は、両軍が一定の広さの土地に陣を敷いて向かい合い、その状態で激突するのが一般的でした。よって軍団もまた、そういった戦闘に適した編成、そういった戦闘でもっとも破壊力を持つ構成になっています。が、大高一帯のような山林と湿地による丘陵地帯に、万単位の軍団が展開して陣を展開できるような平地は存在しませんから、これではどれほどの大軍でもその全力を発揮できません。その上、一か所に集合できるような平地が無い以上、細かい部隊ごとに分散して展開するしかなく、これなら各個撃破できる可能性が出て来ます。
すなわち両者が陣を敷いて対峙する正規の合戦の場合、2000人対2万5000人ではアッという間に包囲殲滅され終わりですが、まともに陣を構えさせず2000人対2000人×11.5回に持ち込めば、少なくともしばらくは対等に戦え、さらに敵を1000人程度の小部隊に分断できれば、今度はこっちが一方的に蹂躙する立場に変ります。しかも奇襲を前提に動いてる部隊で陣構えが出来てない敵を襲うのですから、条件はかなり有利です。
その間に義元のいる本隊を見つけ出し、これを潰せれば勝ち目は出てくるわけです。多数の敵が怖いのは逃げ場の無い陣形で前後から挟撃される、最悪、完全に包囲殲滅される場合ですから、敵が陣を敷けない、そして集結すらまともに出来ない、となれば数の優位は極めて弱くなるのです(この多数の敵でも分散させてしまえば怖くない、高速行動で敵の集結前に各個撃破すれば勝てる、という戦術は全盛期のナポレオンと同じ種類のものだ)。しかも奇襲に成功できれば、より条件は有利になります。
信長は大高周辺の地理を熟知していいましたから、以上の点から大チャンス到来、と考えたのは当然でしょう。後の長篠であれだけ地形を見事に生かした戦いをやった人ですから。
とりあえず義元の大高地区着陣で、一定の勝ち目のある戦いに持ち込める可能性が出て来たのは間違いなく、信長の行動は決して大博打だったわけではありませぬ。そしてその鍵は敵に情報を与えないままの、そして義元がまだ大高地区に居る間の奇襲、すなわち高速行動となるわけです。
国土地理院サイト 国土地理院地図の写真版を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
ここでその大高周辺の地形を例の国土地理院3D地図を使って確認しましょう。実際の高低差を5倍に強調してあります。
今回は写真地図で、そこに明治期の湿地を黄色で重ね、現存しない池なども載せました。こうすると手前の桶狭間の東側(画面手前)が谷底の湿地帯なのも見て取れるでしょう。ただし先にも述べたように義元の本陣はここではなく、別の場所、桶狭間山の上でした。
ちなみに、画面右上方向が北でそちらから信長は南下して来ます。
画面左上、西側に位置する今川の大高城と織田の鷲津、丸山砦はそれぞれ小山の上の高台にあるのが見て取れます。その周辺の黄色い湿地帯は当時、鳴海城下まで続く入海でしたが、干潮時には干潟となり軍の移動が可能になったと思われます。
その右下、丸山砦横の緑の山は現在は公園になってる大高緑地で最高海抜50mを超える丘陵地帯になっています。おそらく義元の本陣はここにあったはずですが、この点はまた次回に。さらに名二の環状高速道路を挟んで画面右下、東方向に広がる桶狭間の一部まで起伏の大きな土地が続き、先にも述べたように大軍の戦闘展開は不可能な地形になっています。
そして東海道沿いには手越川が流れているのにも注意してください。信長が奇襲攻撃の出撃点とした中島砦のすぐ左辺りまで当時は入海だったはずですから、今より流れの幅は広く、特に満潮時の手越川を超えての移動は困難だったはずです。
以上の地形から、大高周辺は大軍の展開には全く向かない土地でした。特に満潮になってしまうと西側の入海と手越川の河口部は水没してしまったはずで、その傾向は顕著になったと思われます。
■信長と義元の判断のこと
そしてこの地形をどう見たか、すなわちOODAループの「観察結果への適応」段階で信長と義元がどう考えたか、が最終的に両者の運命を決しました。この点もちょっと見て置きましょう。OODAループの心臓部、ループの二段階目であり長篠の戦いでも見たこれですね。
すでに見たように大高城周辺の地形は以下のように観察されたはずです。地理勘があった織田側の方がより詳細に把握していたと思いますが、それでも一定の実戦経験を持つ指揮官が同じ地形を見たのですから、大筋では同じだったはずです。
■大高城、そして織田軍の丸根、鷲津砦では周辺より一段高い小山の上にある。
■そのすぐ東により高台が続く大高緑地がある。
■それらの高台以外は湿地か入海である。
■手越川と入海によって北側の鳴海城周辺とは分断される。ただし干潮になれば干上がり行動の自由度は上がる。
といった所でしょう。
今川義元は丸根、鷲津砦を観測できる場所に来た、と三河物語にあり、実際、大将が戦闘を観戦しないと手柄を上げても報奨がもらえないので皆がんばらないですし、今回は外様ともいえる松平(徳川)軍団に先陣を務めさせる以上、きっちり見て置かないと本気で戦わない可能性もあります。よって、大高緑地のどこかにある「桶狭間山」の上に義元は本陣を置き、両砦への襲撃を督戦したと考えるべきでしょう。
当然、その判断には義元の「経験則」から、街道沿いの手前にある大高城を囲む丸根、鷲頭の両砦を先に落とさないと鳴海城の解放戦は面倒だ、という判断がまずあったでしょう。これは当然の判断でした。大将は戦を督戦せねばならぬ、という判断もまた「経験則」から、あるいは当時の常識として一部は「文化的伝統」から出てきたはずで、これも特に間違えていません。
そして「分析と統合」から、それには一帯を見晴らせる高台、大高緑地の上が最適である、という判断が働いたはずです。よって彼の本陣はそこに置かれ、砦攻めに参加しない軍団はその周辺に分散待機となったでしょう。そして義元はこの後、一気に鳴海城の周辺の織田軍の砦を潰すつもりだったと思われ、松平軍団の棒山砦攻略投入で温存できた本隊は手元に置く必要がありました。この辺りは推測ですが、当時の戦の常識からして、大きくは外してないと思います。
ちなみに海上保安庁が公開してる潮汐推算表によると、西暦1560年6月12日(太陽暦に換算)前後の干潮は午後2時半。その前後1時間近くは完全に干潟になったと思われるので、午後1時半ごろから大高の丘陵地帯に居た今川軍は大挙して鳴海方面に移動できる状態になったと思われます。信長もこの点は判っていたはずですから、19日の昼過ぎには決着をつけるための奇襲攻撃に撃って出るわけです。
こうして見ると、義元の判断は全くもって正論で、何の落ち度もないように見えます。
が、これらは全て、「大高城を囲む織田軍の砦を陥落させる」ためのOODAループの回転なのです。信長がこの朝からの織田軍本隊の行動をほぼ完全に隠ぺいしたため、明らかにそれに対する対応を行っていません。すなわち、最初の「観測」段階に失敗した結果、本来なら正解だったはずなのに、結果的に決定的に不利な判断を下してしまった事になります。
これが情報戦の恐ろしさで、情報が無ければ前提条件として取り込めず、その結果、間違った前提条件に対する正解行動を取ってしまう事になるのです。それは得てして正しくなく、そして時に致命的な間違いを含みます。
もし義元が何らかの形で信長率いる織田軍の主力が南下中、の情報を得ていれば、速攻で山を降りて手越川沿いに陣を張り、織田軍の南下を止める、あるいは全軍を山の上にあげて待ち受けさせる、という行動が可能であり、そうなれば本陣を奇襲されるという悲劇は避けれたでしょう。
このように最初の「観測」に失敗すると以後、全ての判断は正しいものでは無くなってしまう可能性が高くなるのです。義元の場合、さらにOODAループの回転速度そのもの遅い、という欠点もあり、とにかくあらゆるOODAループの戦いにおいて完敗でした。
この点、信長は全く同じ情報から、既に見たように敵を奇襲できる、と判断したのです。さらに昼近くになってもまだ義元の本陣は動いていない事まで正確に把握し、指揮官自らが先頭に立って高速OODAループ戦を導いたことが奇襲成功の決定的要因となりました。さらに彼は集団のOODAループの高速化までやってのけるのですが、この点はまた次回。
ちなみに「観察」の失敗から本来後回しにするべき攻撃目標を優先し、敵の主力に不意討ちを食らって完敗、というのは、後に日本海軍がミッドウェイ海戦で全く同じ過ちを犯しています。過去から学習しない人に戦争をやらせてはいけません。
以上から、籠城しなくても勝てる可能性が出てきた、と判断した上で信長は出撃したはずで、一定の勝算を得た上の行動でした。決して一発勝負のギャンブルでは無かったと思われます。ただし本来なら両砦が健在の内に現地に向かうべきで、そこに満潮が重なればより優位に戦いは進められたはずです。よって翌朝、報告を聞いてからの出撃というのはやや決断が遅かった、という気もします。先にも述べたように、大高周辺の砦が堕ちれば、午後の干潮を利用し義元は一気に北の鳴海側に押し寄せる可能性があり、時間との戦いになって行くのは判り切っていたのですから。
この辺り、信長もまだ27歳の若殿様ですから、いろいろ迷いがあったんじゃないかという気がするのですが、今となっては誰にも判らん所です。ちなみに先にも見た海上保安庁が公開してる潮汐計算表によると、1560年6月12日前後の最初の満潮は、朝6〜9時前後と信長公記の述べる時刻とほぼ一致しており、先に見たように織田軍はこの前後の時間に敵の攻撃を予期していたため、不意を突かれた可能性もあります。
■今川軍の分散のこと
三河物語によると、今川軍が出陣した時は今川義元の本陣が最後尾として駿府を離れ、配下の軍団は四つ、場合によっては五つの集団に別れて東海道沿いの池鯉鮒(ちりう)周辺まで先行したとされます。
そして最終的に義元が池鯉鮒に着陣しても、全部隊は池鯉鮒の街に入り切れず、周囲の牛田、宇頭、今村、八橋、矢作(やはぎ)、と実に10q近い距離を持って五ケ所に分散(池鯉鮒を入れると六ケ所)、宿営したと書かれています。この場合、それぞれ集団には指揮官が置かれ、一定の独立性を維持して行動していたと考えるべきでしょう。義元が10q以上に広がり展開する全軍の行動の指揮を執っていたら、あっという間に集団のOODAループは麻痺して停まってしまいますから。ちなみに、これだけの部隊がより狭い沓掛周辺に入れるはずがない、というのも義元は池鯉鮒から出撃説の根拠の一つです。
よって、戦地に入ってからも一定の分散、自律行動は可能であり、全軍が集結できる広さの土地が無い以上、大高城解放戦の間は五つ以上の部隊に別れ、独自行動で周辺に展開したと考えるのが自然です。よって合戦前の段階では義元が全軍を率いてたわけでは無く、その本陣周辺の手元には限られた兵数しか無かったと思われます。
とりあえず、今回はここまで。
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