■ロンメル電撃戦の始まり
前回は15日に戦われたフラヴィヨンの戦車戦を見ましたが、この戦闘の主役はロンメルではなくハルトリープ中将率いる第5装甲師団でした。ロンメルは10時の段階でフランス第1装甲師団と接触すると、1時間だけ散発的な戦闘を行った後、速攻で先に行ってしまったのです。ロンメルはさらに15q西に位置するセフォンテヌ(Cerfontaine)一帯、フランス国境から約20q地点まで同日中の到達を目指しており、これを最優先として最低限の戦闘で西への進撃を急いだのでした。この辺りを再度地図で確認して置きましょう。

第5装甲師団がフランス第1装甲師団と接触したのは午前11時ごろ、直後に戦場を離脱したロンメルはフランス国境を目指して西のフィリプヴィルに進みます。ちなみに一帯にはディナンからフィリプヴィルに至る街道がありロンメルはこれを西進しています。当然、フランス側もこの街道の存在を知っていますから、これを封鎖するため、フィリプヴィル周辺に二重の防衛戦を築く予定でした(第1防衛戦をフィリプヴィルとフラヴィヨンの中間に、第2防衛戦をフィリプヴィル周辺にする計画)。第1装甲師団をフラヴィヨン周辺に移動させたのはこの防衛線を築く時間を稼ぐため、ドイツ側に先制攻撃を仕掛ける意図があったと思われます。
ところがこの防衛線に入る主力として投入されたフランス第4北アフリカ歩兵師団は、例によって15日になっても多くの部隊が現地に到着してませんでした。拠点となるフィリプヴィル一帯には兵が入っていましたが、それ以外はほとんど無防備状態でした。このため計画の拠点となるフィリプヴィル周辺にロンメルの第7装甲師団が12時ごろに先に到達してしまい、この防衛線計画は戦わずして崩壊します(ただしロンメルはフランス国境への到達を最優先とし無駄な戦闘を避けるためにフィリプヴィルを迂回、当初、集落そのものは占領されなかった。それでも後で見るようにフランス軍は間もなくパニックから敗走に入る)。これも典型的な機甲師団による高速戦の勝利でした。ちなみにロンメルによると、フラヴィヨンを離脱し、フィリプヴィルに向かう途中でも多くの野砲や戦車を見かけたが、周囲の兵がドイツ軍を見るなり森の中に逃げ込んでしまい戦闘とはならなかったとの事。すでにこの段階でフランス側のパニックは始まりつつあったのでしょう。
この結果、錯綜した状況から第4北アフリカ歩兵師団の指揮系統が崩壊、ロンメル師団に大量の捕虜と鹵獲品を献上する事になります。さらにロンメルの驚異的な進撃速度は、前日に突破されたオー・ル・ワスティア〜オナイユ一帯の戦線から後退するフランス軍を追い抜いていしまい、彼らが撤退してみたら既に一帯はドイツ軍に占領されていた、という事態が生じます(一定規模の軍隊がフランス国内に撤退できるのは同じ街道沿いのみだった)。この辺りから電撃戦でおなじみ、フランス軍がパニックから戦わずして崩壊する事例が一斉に生じ始めるのです。すなわちロンメルの電撃戦は、15日の午後から始まったと見ていいでしょう。その進撃速度にフランス軍は全くついて行けず、もはやおなじみパニックからの組織崩壊が連鎖的に発生して行く事になります。
まず12時にフィリプヴィルまで到達したロンメルは既に述べたように集落を迂回し、そのまま西のソゼイュ (Senzeille)に向かいます。
この間のロンメルはとにかく前進を優先しました。フィリプヴィルを南に迂回して間もなく、一帯南部の丘陵部に展開するフランス軍砲兵部隊から砲撃を受けながらも一切停止を許さず、戦車砲による反撃を加えながら走り抜けてしまうのです。ちなみにロンメルの記述によると「走りながら戦闘を実施した」との事ですが、この時代の戦車は走行中にまともな照準ができるようには設計されてません。停止してキチンと狙いを付けて撃つが基本なのです。そうしないと弾は当たらないと思っていいのですが、この反撃によってフランス側の砲は沈黙してしまったと述べています。恐らくフランス野砲陣地に命中はしてないと思うのですが殺到する戦車の大軍に脅威を感じて撤退してしまったのだと思われます。この辺り、ロンメルが主張する止まるな考えるな撃て、とにかく反撃しろ、という方針が有効である事の証明とも言えます。以後もロンメルは敵を発見すると走ったまま射撃を行わせ快進撃を続けるのです。この辺りはグデーリアンですらやらなかった戦術で(少なくとも記録には残っていない)、機甲師団による奇襲はとにかく速度だと、誰に教えられたわけでもないのにロンメルが本能的に理解していたことを示す証拠でしょう。確かにこの辺りは天才的なんですよね、この人。
さらにフィリップビルを通過する前に一帯に砲兵を展開、以後の戦車部隊の前進に合わせるよう進路の先を砲撃させました。当然、部隊の先頭を疾走するロンメルが随時現在地を知らせたのですが、既に見たように目標地点は全て座標の数字が与えられており、その連絡は暗号化なしの無線で随時指揮が出されていました。この辺りもロンメルの天才性で、敵に聞かれたとしてもどこか判らないので問題にならず、おかげで暗号を組む、そして解読するという手間が省けたため、瞬時に後方からの砲撃支援が受けられたのです。
そしてソゼイユに到達する前にロンメルは戦車部隊による進撃速度が速過ぎ、後方の歩兵部隊が遅れている事に気がつきます。このため戦車部隊一個中隊を指揮下に入れて後方、フィリプヴィルの方向に一度引き返すのです(残りの部隊はそのままソゼイュ経由でセフォンテヌを目指させた)。この辺りからフランス第4北アフリカ歩兵師団の兵を中心としたフランス兵が次々と投降を始めるのです。
念のため、もう一度同じ地図を掲載。

まずフィリプヴィルの西、900mの地点で故障により部隊から落伍していた二両のドイツ戦車を発見します。その戦車と戦車兵に対し、既に数名の投降したフランス兵が集まっていました。さらにロンメルの戦車中隊が到着すると数百名のフランス兵が周囲から投降して集まって来てしまうのです。一部は逃げ出した、との事ですが、ほとんどがその場で捕虜になったようです。さらに捕らえられたフランス軍将校がその地位を尊重するように要求、フィリプヴィル駐在の部隊である事を述べて私物を取って来る事を許可するように求めます。どこまで間抜けなんだという感じですが、これを聞いたロンメルは驚きながらも当然のような顔でその権利を認め、これによってフィリプヴィルのフランス軍が自発的に無力化されてしまった事を知ります。こうなると一帯のフランス軍の退路は南側だけなので、ロンメルは急ぎその方向に連れて来た戦車中隊を送り込むのです。最終的に同中隊は撤退するフランス軍を撃破するのですが、これ以上の時間の浪費を嫌ったロンメルは追撃を中止、当初の目的である歩兵部隊との合流を目指して東に向かいます。
その途中で遅れて来た戦車中隊を発見、これも指揮下に入れて二個戦車中隊を率いる事になったロンメルは直後に15両前後のフランス戦車部隊と接触(恐らくフラヴィヨンの戦車戦から逃れて来たものの可能性が高い)、戦闘の後にこれを降伏させ、そのほとんどの車両を鹵獲してしまいます。ただしロンメルは先を急がねばならないので、後方に送り届ける余裕は無く、かと言って置いて行くわけにもいかずフランス兵に運転させて共に移動する事にしてしまうのです。すなわちドイツ戦車とフランス戦車の混合部隊という状態で移動を続けます。
その後、ロンメルはディナンとフィリップビルを結ぶ街道に戻ると、そこでようやく戦車連隊に遅れを取っていた機関銃大隊と歩兵旅団の先頭部隊に接触しました。これで目的を果たしたロンメルは再度ソゼイュを目指して西進を再開します。同時に時間の浪費を避けるため、両部隊の指揮官を自分の指揮車両に呼び込み走りながら以後の作戦を説明します。ちなみにロンメルは時速75qで移動した、と述べているんですが、さすがにそれはどうかな、と思います。恐らく連れて行ったのはIII号がIV号戦車のはずで、その速度で連続移動は無理でしょう。
そして今度はソゼイュの手前でフランスのオートバイ部隊がロンメルの戦車部隊の中に飛び込んで来ます。恐らくフランス戦車部隊と勘違いしたのだと思われますが、パニックになった彼らは何ら抵抗する事も無く降伏、これも捕虜になってしまいました。こうしてロンメルは遅れていた歩兵部隊と接触するために東進しただけなのに、数百名のフランス兵捕虜と10台を超えるフランス戦車を鹵獲してしまったのです。これがロンメルの電撃戦による、フランス軍の崩壊の始まりでした。ちなみにロンメルはこの段階では状況がよく判っておらず、先行する戦車部隊と遅れた歩兵部隊の間隙を衝いてフランス軍が侵入して来たのだ、反省材料とせねばならぬ、と述べています。実際はパニックと指揮系統の混乱から戦意を失い、さらにロンメルの快進撃から退路を断たれる事を恐れて敗走に入りつつあったフランス兵だったわけです。
そのままロンメルはフランス国境から約20q後、セフォンテヌに日没前に到着、高地がある同地で部隊を集結させ、戦闘態勢を維持させながら遅れている歩兵部隊を待ち、15日の夜は現地で野営に入りました。そしてここからロンメルの電撃戦は本格化して行く事になります。
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