さて、これでドイツA軍集団に置ける15日夜までの全ての戦いを見たことになります。当然、これらは同時進行形で行われたわけです。よって通信施設がお粗末な上に全ての情報がパリ近郊の総司令部に届けられ、そこから折り返し命令が発令されるフランス軍の指揮系統では情報の飽和からOODAループの停止が容易に生じるのは想像がつくと思われます。



これですね。次々と情報が殺到してループが先に進まず、進んだところで新しい情報に対応できずに無意味、場合によっては有害な判断に繋がり、最悪の選択を行ってしまう状況です。フランス軍の場合、軍司令部には辛うじて一定の判断が認められていましたが、軍団以下、師団単位の司令部ですら独自判断は認められておらず、指揮系統の中で回転するOODAループの数は限られたものでした。よって当然のようにこの情報飽和からのループの崩壊が引き起こされたのです。その結果、想定外のスピードで突入して来たドイツ機甲部隊にどう対応していいか判らず、退路を断たれて包囲殲滅される恐れからパニック、潰走を引き起こし、それ以外の踏み留まった部隊も状況が判らないまま、気がつけばドイツ軍に囲まれていて降伏する他無い状況に追い込まれて行きます。

この状況がグデーリアン閣下が突入したセダン一帯では14日の段階で発生、さらにラインハルトの第41装甲軍団でも、ロンメルの第7装甲師団が属するホートの第15装甲軍団でも、15日夜までにはそのような状態となっていました。このため以後は戦わずに敵に大混乱を引き起こして勝敗を決する、「戦わずして勝つ」の理想形として電撃戦は進んで行きます。同時にむしろ敵はドイツ軍上層部&ヒトラーの混乱、という状況になり、幾つかの例外的なフランス&イギリス連合軍の反撃はあったものの、基本的に、以後最後までこのような状態で戦闘は進んで行く事になるのです。

ここでその15日夜の段階に置けるドイツA軍集団に属する3個装甲軍団、7個師団の状況を地図で確認して置きましょう。



最南端のセダン周辺で渡河したグデーリアン軍団3個師団の内、第10装甲師団だけは既に見たようにストンヌ攻防戦に回されていましたが、残りの第1、第2の二個師団は既に西側に向かって進撃を開始していました。全体では最も浅い位置に居たのですが、フランス側の反撃のほとんどがここに投入された事を考えれば仕方のない所です。

そして最もフランス国内深くまで突入していたのが第41装甲軍団に属する第6装甲師団で、これは国境から既に50q以上を突破、モンコーメにまで到達していました。この点は既に見たようにフランス側が南のグデーリアン軍団に気を取られ、その北側に居た第41装甲軍団に対して警戒を怠った事、そしてグデーリアンの進撃速度に驚いて、一帯の部隊を後退させてしまった事が原因でした(その後退命令を受けて混乱している最中に撃破されてしまったのがフランス軍第2装甲師団)。後続の第8装甲師団は到着が遅れていましたが、これも16日にはマース川を渡河、急速に追いついて来ます。

そして最北端にあり、南のクライスト装甲集団を守る役割を担っていたロンメル属する第15装甲軍団も、15日に入ってから一気に距離を稼ぎ、マース川から40qほど奥まで進撃しています。一帯のフランス国境は大きく西に歪曲していたので、未だフランス国内には入ってませんでしたが、決して南の二つの軍団から遅れを取っていたわけではありませんでした。ただし既に見たフラヴィヨンの戦車戦で遅れを取った第5装甲師団は以後、置いて行かれてしまい、18日に指揮官ハルトリープの更迭に繋がるル・ケスノワの包囲戦に巻き込まれ電撃戦からは脱落します。

こうして15日夜の段階までに南北50q近い幅に渡って一気にドイツ機甲師団がフランス軍防衛戦を突破して侵入して来ていたのです。(リデル・ハートは幅96qに及ぶ突破口、と述べているが例によって数字は適当。実際は戦線突破していないストンヌまで含めても80q以下)既に述べたようにフランス側がこの致命的な敗北に気がつくのはこの日の深夜から翌16日にかけてなのですが、この段階で既に勝敗は決していた、と考えていいでしょう。もはや北部平原に居る連合軍主力部隊の背後を守る兵力はどこにも無かったのです。以後、英仏側はいかに主力部隊をイギリス本土に撤退させるかという問題に拘束されて行く事になります。

といった感じで今回はここまで。


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