■連合軍側のぬか喜び
さて、では5月10日の朝5時35分(ドイツ時間)の開戦後、フランスのアレ、ガムラン将軍が率いる連合軍側はどう反応したのかを地図で見て置きましょう。
ガムランの司令部にはオランダとベルギーの国境をドイツ軍が超えた、との一報が直ぐに入ったようです。ただし最南端、グデーリアン軍団こと第19装甲軍を含むクライスト装甲集団によるルクセンブルグ国境突破の報が入っていたのかはどうもハッキリしません。さすがに情報が無かった、という事は無いでしょうが、いずれにせよ、ガムランの注意は北のB軍集団の動きだけに向けられていました。このためその主力部隊、第1軍、第7軍、そしてイギリス遠征軍にダイル線に向けての進撃を命じています。この点に関してベルギー側の同意があったのかはよく判らんのですが、とにかくベルギー国境を越えて東に向かい始めるのです(一部のイギリス軍部隊はベルギー国境の検問をトラックで強行突破している。さすがに戦闘にはならなかったが)。
ちなみに既に述べたように総司令官ガムランの頭の中は第一次世界大戦でほぼ停止していたので、以後はダイル線を防衛陣地とした長期戦になると決めてかかって居たようです。このため、ドイツ軍に比べると全体の行動はワンテンポ落ちる印象がありました。
イギリス側の公刊戦史「THE WAR IN
FRANCE AND
FLANDERS」によるとフランスのアラスにあった遠征軍司令部は、自軍の航空基地が爆撃を受けたことで開戦を知ったのですが、被害は思ったほどでも無かったと述べています(ただしイギリス軍の基地の話であり、オランダ、ベルギー、そしてフランスの一部の航空基地の損害は大きかった。さらにこの後、ドイツ空軍は鉄道網に対する爆撃に移行し、これが後に軍の補給、移動にとって大きな障害となる。鉄道を狙ったのはモルトケ以来、その高速大量輸送力の脅威を良く知るドイツ軍ゆえだろう)。
その後、フランスの司令部から開戦の報告があったのは6時15分、ドイツ進撃から40分後であり、さらに最初の作戦命令が来たのは6時45分、開戦から1時間10分も経った後でした。素早いとは言い難い対応でしょう。その内容はD作戦が発動となった、ダイル線まで進出せよ、といったものでした(Dyle川沿いに沿ったのがDyle
Lineだが、フランス語、ドイツ語、オランダ語で発音が異なる。ここでは英語圏の資料に基づく事から面倒なのでダイル川、ダイル線と表記する。ちなみに先に述べたように南はマース川、さらにアントワープ周辺ではエスコ―川に合流している)。
イギリス軍は13時を持って作戦を開始、ダイル線目指して移動を開始する、との指令を発令していますが、この時間だと既に見たようにB軍集団はアムステルダムの東、ズウォレの街を無血占領した後でした。すなわちすでに国境線から70q近くドイツ軍の侵入を許した段階で、連合軍は未だ作戦行動を開始していなかったのです。この辺りの時間感覚はまさに第一次世界大戦のままであり、速攻を持って最優先としたドイツ軍と決定的に違った部分だったと言えるでしょう。そして、この時間に対する感覚の差が、最終的にこの戦争の行方を決める事になります。
この時、緊急事態ゆえ昼間にベルギーの道路を利用して進行したのですが、その間、ドイツ軍の航空偵察すら受けませんでした。これは当然で、ドイツ側としてはどんどん東の逃げ場が無い一帯に来てほしいのですから妨害するハズはありませぬ。対して連合軍側としては、怪しいと思うべきだったのですが、この点は特に注目されず、空軍が上空を哨戒していたからだ、と判断してしまったようです。こうして遠征軍はマンシュタインの罠にハマるべく、順調に進撃してしまうのでした。この辺は資料が無いフランス側もほぼ同じような状況だったと思われます。
■ダイル線の連合軍の戦い
ベルギーの中心部、アントワープとブリュッセルの南部までを結ぶ約80q程の一帯にドイツ軍の主力は来ると、フランス軍司令部は予測していました。恐らく北部の平地でも最も起伏が無い、大軍の進行に向いた一帯だからでしょう。このため、ダイル線の中でもその一帯に兵力が集中される事になりました。南はフランス第1軍が約40qに渡り担当、中央はイギリス遠征軍が27qを担当、そして北側、アントワープに至るまでの一帯はベルギー軍が担当していました。ちなみに主力部隊の内、もっとも北側に居たフランス第7軍は、ベルギー軍の背後約30qの位置に展開しています。
イギリス軍の装甲偵察部隊は10日の夜にダイル線に到達、部隊の展開を始め、翌11日には主力部隊も到達、周辺の陣地化を開始しています。一帯の戦闘は13日から始まり(この段階では恐らく第6軍の先行部隊のみ)、連合軍はダイル川を渡り、その東岸でドイツ軍を迎え撃ちました。戦闘が始まってしまった以上、その位置で釘付けにされる事も意味します。そしてその13日の段階でグデーリアン軍団は南のセダンにおいてマーズ川に到達していたのです。ここさえ渡ってしまえば、一気に連合軍の背後に回れる、という位置ですね。この段階で連合軍の敗北はほぼ決まっていたと見ていいでしょう。
ここまでほとんど戦闘らしい戦闘が無いまま進撃して来たドイツ第6軍の主力は翌14日に早くもマース川を渡河、すぐさまダイル線の直近まで侵出、激しい戦闘が始まります。本来囮であったはずのB軍集団ですが、激しい攻勢に出たようです。間もなく連合軍は押され始め、ダイル川を渡って西岸に撤退、橋を破壊してドイツ軍を迎え撃つ事になります。その後、15日には早くもダイル線の一部が突破され、以後は連合軍側が一方的に守勢に回るのです。そしてこの15日の段階でオランダは降伏、マース川を渡河したグデーリアン部隊は英仏海峡に向けた快進撃を開始しておりました。前日、14日の夕方になってからフランス軍の司令部はグデーリアン軍団の強力な打撃力に気が付き、自分たちが罠にハマった事を初めて知りましたが、これを迎え撃つべき予備戦力は無く、この段階で敗北は決定したのです。よって以後は、ドイツ側による一方的な進撃となって行きます。
■ベルギー軍の作戦
ここで同じ地図を再度掲載して、ドイツ侵攻の主要な被害者であるベルギー軍の作戦計画を見て置きましょう。オランダと違って確実にドイツ軍がやって来ると知っていたベルギー軍は一定の臨戦態勢を敷いていました。
何度か述べたようにベルギーは限られた兵を集中的に運用するため、首都ブリュッセル周辺にその戦力を集中させる作戦でした。そのために利用される予定だったのが国内を南北に流れる大河、マース川です。これが最大の要衝だったことはグデーリアンが配下の部隊にとにかく素早くここを渡河するのだ、と命じていた事でも判るでしょう。
ベルギー軍の作戦はそのマース川が北部で大きく蛇行するリエージュを拠点とし、川沿いに防衛線を展開してブリュッセルを守る、というものでした。このため、南部の部隊は開戦直後から北部目指して撤退してしまい、これがベルギー南部を進むグデーリアン軍団の進撃を助ける事になります(ただし手違いで撤収が遅れ、予想外の抵抗を見せた部隊なども居たのだが)。ただし単独でドイツ軍を抑えられるとは考えておらず、とにかく時間を稼ぎながら、ジワジワと連合軍の展開するダイル線まで後退するつもりだったようです。ところが前回見たようにドイツ第6軍が速攻でオランダ南部を突破、空挺作戦でエバン・エマール要塞も開戦直後に陥落してしまったため、この作戦は大きく揺らぎます。このためベルギー軍はリエージュ周辺におけるマース川での防衛は早くに放棄、13日にはブリュッセル周辺に向けて撤退に入っていました。
これらの予想外の急展開に、12日、ベルギーとフランスの国境に近いカストーで連合軍側の会議が開かれたのですが、ベルギー軍を正式に連合軍の指揮系統に取り込む、といった今更か、という決定が行われたのみで具体的な対策は何ら決まらずに終わったようです。
後はグデーリアンと愉快な仲間たち(含むロンメル)による海岸線への高速進撃で連合軍は完全にパニックとなり、ほとんどまともな戦闘は無くなって、その焦点はドイツ包囲網からの脱出、すなわちダイナモ作戦によるダンケルクからの脱出に移って行く事になります。
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