■長篠の地形の「分析と統合」
まずは再度、この写真で織田・徳川連合が陣取った設楽原から長篠城に至る地形を見てください。白い実線は伊那街道を示します。今回もクリックしてもらえば大きな画像が見れます。
■Google earth
から必要な情報を追加して引用
当然、当時はこんな便利な写真はありませんが、長篠城は何度も徳川と武田の争奪戦が行われているため両軍ともその地形はよく理解できていました。さらに信長の場合、徹底的に自分で見て確認する人ですから周囲の高台に上りその地形、武田軍団の居所を完全に把握したはずです。
そこに徳川から次の写真のような長篠城の立地情報を得て下した結論は、ここで武田軍を完全に殲滅できる、チョーラッキーだみゃー、でした。対して全く同じ地形を観察しながら、武田側は事実上の無策であり、最後の最後までOODAループの回転で後れを取って主導権を握れませんでした。この差が武田軍団の壊滅という悲劇に繋がります。
これはまさに「同じものを観察しているのに“分析と統合”における知性の差で負ける」典型的な例となっていますから、少し詳しく見てゆきます。

徳川軍団の「経験則」から地形情報は信長に入っており、さらに現地で自らも観察に出て「新しい情報」を補完したはずです。その情報から、長篠の「地」の条件は以下のように「分析」されたでしょう。とりあえず、今回は読みやすさを優先し、分析段階で情報の取捨選択を終わらせて、必要と思われる分析の要素のみ箇条書きにします。
■分析
〇ここを逃れて武田の本拠地である甲斐、信濃に向かうには伊那街道を通るしかない。
〇長篠城の一帯では川と山が迫って通行できる場所が極めて限られるから城を解放すれば伊那街道を封鎖できる
〇長篠城から北に向かって深い川が流れ、これが平野部を東で断ち切っている
〇長篠城から西は細長い平地である
〇平地の北側はかなり険しい山が迫っていて軍の通行は不可能。南側にも山がある
〇南の山の手前に深い渓谷が流れていて、これが平野の南側を断ち切る形になっている
〇すなわちこの平野部で解放されてるのは織田・徳川連合の陣取る西側のみである
〇その平野部の一番狭い場所は南北で2qの長さしかない
〇武田が進出した有海原から織田・徳川連合の居る設楽原までは約3qの距離があり、その間に丘陵があって視界は悪い
「分析」は、すでに見たように自分が見たものを箇条書きにするだけであり、しかも織田・徳川連合も武田も、歴戦の強者ばかりですから、その内容はほぼ同じ内容だったはずです。よって両者に致命的なレベルの差がついたのは次の「統合」の段階となります。まあ、本来ここまで分析できれば、結論は間違いようが無いはずで、なんで武田があんな事になったのか理解に苦しむ所ではあるんですが…
■統合
以上の「分析」内容から統合を行いますが、今回は文章ではなく、図にまとめて見ましょう。これによって生まれる「気づき」もあるからです。とりあえず、上の「分析」を「統合」して図にすると、以下のようになります。
果たして武田側がここまで論理的に分析の情報を「統合」できたのは不明ですが、もし出来ていたとしても、結局何も重要な点を読みだせて無かった、知性と勝負勘で完全に劣っていたと思っていいでしょう。
なんで断言できるのと言えば、多少なりとも戦術眼があるなら「長篠城側から川を渡って有海原に布陣した段階で負けだ」と即座に気が付くはずだからです。ところが武田軍団はご丁寧にも織田・徳川連合が着陣する前から自ら川を渡っていました。これは信じられない凡ミス、といっていい戦術なのです。
なぜか。
既に見たように平地を区切る川は深い谷間の渓谷であり、北の山岳部も急斜面でとても人が通れない場所でした。すなわち織田・徳川連合から見た場合、
長篠城に増援を送り街道を封鎖すれば武田軍団に逃げ道はない。その上でせいぜい2qの幅に渡って本隊が陣取れば武田軍団を逃げ場のない狭い平野部に完全に閉じ込められる。後は圧倒的な兵力で前後から挟撃してすり潰せばいい。
からです。恐らく信長は現地の地形を知り、武田軍がすでに有海原に出て来てると知った瞬間に勝利を確信したでしょう。
この地形と両軍の布陣はそのまま挟撃戦術の理想的な完成型であり、見た瞬間に信長が勝ったと悟ったのは彼の戦術眼の確かさの証明とも言えます。さらに南北も山と川で逃げ場はありませんから、

こういった包囲殲滅戦術の亜種と見なす事もできるのです。相手には全く逃げ場が無く、こちらは倍近い兵力をもってるのですから完全に近い殲滅戦が可能であり、実際、そういった凄惨な戦闘になりました。
よって織田・徳川連合にとっては、どうやって長篠城に増援を送りこれを解放、その上で伊那街道を封鎖するか、だけが問題になってきます。

長篠城跡から横を流れる深い川を見る。周囲が山に囲まれた峻険な地形なのにも注意してください。
川は渓谷と言っていい深さがあり簡単には渡れません。よって、ここを背後にしてしまう布陣は逃げ場を無くした文字通り背水の陣となりました。それが武田家に最悪の結果を招くことになるのです。
ちなみに手前の線路はJR飯田線。宇連川、豊川流域沿いの伊那街道は、この一帯から北に抜ける唯一の通り道なので信州に抜ける鉄道も同じような経路を取っています。
繰り返しますが、ここまで理想的な包囲殲滅戦の形となっているのは武田軍が長篠城の包囲をといて有海原に進出してしまったのが原因なのに注意してください。「信長公記」が指摘するように、もし武田軍が川を渡らず長篠城周辺の高台に陣を張ったら、その峻険な地形から手の出しようが無かったはずなのに、です。ただしこの場合は武田側も守備的な布陣となるため長期膠着事態になったはずですが、それでも壊滅させられるよりはマシだったでしょう。
これらの敗因が武田側のOODAループにおける「観察結果への適応」の失敗だったのは明らかです。その結果、両者の回すOODAループは全く異質なものとなり、速度でも正解行動の推測でも完全に劣っていた武田は完敗に追い込まれます。この辺りのOODAループの優劣ついて、もう少し詳しく見て置きましょう。
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