前回に「分析と統合」を見たことで、OODAループの実際の運用に必要な知識は全て揃ったことになりました。なので今回からは、より実戦的なOODAループの回し方を考えましょう。
ここで再度、OODAループの基本形を確認しておきます。
さて、何度か述べてるように「勝つためのOODAループ」では競争相手より速く「正解行動」に辿り着かねば敗北します。この点において両者に最も差がつくのが二段階目の「監察結果への適応」であり、ここで行われる正解行動の推測作業なのです。正しく、速く、正解行動を推測できるかは、この段階にかかっています。繰り返しますが、間違った推測行動で速く動いても、結局負けるだけですから無意味で、正しく、速くの両立が重要となります。
前回「分析と統合」を理解したことで「監察結果への適応」段階のやり方は一通り説明し終わりました。よって今回は具体的な例を上げながら、この段階の重要性、ここで間違いをやってしまうとどれだけ致命的な事になるかを見て行きましょう。例として取り上げるのは日本の合戦における最高峰、信長による戦争芸術と呼んでいい長篠の戦いです。
■長篠の戦いの前提条件
長篠の戦いは1575年(天正三年)旧暦5月に戦われました。すなわち現在の太陽暦だと6月末の梅雨真っただ中です。
これは信玄の死後、徳川家の所領を脅かし始めた武田勝頼と、織田信長の支援を受けた徳川家康が激突し、武田家の命運を閉ざした合戦となります。詳しくは こちらの記事に以前まとめたので、興味のある人は読んでみてください。

画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/
長篠合戦図はなぜか屏風絵の題材として好まれ、19世紀に入っても、まだ新たにその作品が描かれたりしてました。
写真はそんな幕末期の長篠合戦図。ただし既に300年も昔の風景なわけで、これは赤穂浪士の討ち入りを、21世紀になって絵に描いたのと同じくらいの時間差が存在します。
よって、ここまでくると想像で描いた、以前の絵を参考にして描いたとしか考えようがないわけです。資料性は無いと思ってよく、なんの裏付けもない鉄砲の三段撃ち伝説なども含めて、いろいろ怪しいのが長篠の合戦のお話だったりします。そこら辺りを含めて考証したのが前述の記事なので、一度くらいは読んでみていただければ幸いです。
さて、信玄が没した後、実質的に跡を継いだ武田勝頼はその遺言を無視して領地の拡張政策を取り、徳川家もその対象となりました。徳川の二つの根拠地、浜松と岡崎には武田領である塩尻、諏訪方面から伸びる二つの街道が直結していたため、侵攻対象として狙いやすかった、という面もあるでしょう。また、この時期には西の本願寺と合わせ、織田家包囲網が結成されており、その同盟者であった徳川は狙われやすかった、という面もあります。
この辺りの事情を地図で確認しておきましょう。薄い色の部分が平野部、濃い色の部分で山間部です。この道なき山間部を大軍が通り抜けるには基本的には街道を使うしかなく、これがこの合戦を引き起こすことになるのです。
武田と徳川の争いに大きな役割を果たした二本の街道の内、東を南下するのが秋葉街道です。これは武田家のお膝元、諏訪から真っすぐ南下して徳川家の本拠地、浜松に至る両家の心臓部を直結する街道でした。
信玄が途中で病没する事になる、京を目指した西への進軍の時に通過したのもこの街道です。この時は徳川領の強行突破を行ったため、その入り口となる二俣城をまず攻め、これを奪っています。城の救援に失敗した家康率いる徳川軍は、その直後に起きた三方ヶ原の戦いでさらにケチョンケチョンにされてしまったため、以後も武田家が二俣城を抑え続けます(後に長篠で圧勝した徳川が奪回)。
そして、もう一本の主要な街道がその西を通る伊那街道です。これは武田家の塩尻から徳川家の第二の根拠地である岡崎城に至る街道でした。その徳川領への入り口となる要衝を抑えているのが長篠城だったのです。
このため長篠城は徳川、武田の両家による激しい争奪戦の地となり、信玄の上京戦の時には武田家が抑えてました。ところが信玄が病気となり武田軍団が撤収した直後に徳川家がこれを攻め、落城させています。
よってこの段階では秋葉街道を武田家が、伊那街道を徳川家が抑えていた、と考えていいでしょう。
ちなみに信玄が最後に攻め落としたのが長篠城のすぐ西にある野田城でした。これにより長篠から野田まで武田家の伊那街道沿いの自由は完全に確保されたのですが、ここで信玄の病気により武田軍は撤収に追い込まれます。撤退路に関しては明確な記録が無いのですが、普通に考えれば、そのまま長篠城を通って伊那街道沿いに北上した、と考えるべきでしょう。ついでながら野田城もまた、長篠の戦いの前に徳川側が奪回していました。
この辺り、戦国の戦いを理解するにはまず街道を理解せよ、という話なんですが、あまり理解されて無い部分でもあります。万の単位の人数の戦闘になると、その移動だけでも大騒ぎなのです。
■勝頼の徳川領侵入
さて、信玄死亡後まだ二年少しの1574年(天正2年)初夏、勝頼は軍団を率いて秋葉街道沿いを南下、二俣城を経由して天竜川の東岸地域に広がる徳川領に攻め入り、これを奪ってしまいました。この時に難攻不落として名高かった高天神城を落としており、この経験が勝頼が城攻めに自信を持ってしまい、長篠の悲劇の遠因となった可能性があります。
この1574年(天正2年)の時は織田・徳川連合との決戦を避け、勝頼は甲斐に戻ってしまうのですが、徳川領への野心はまだ収まってませんでした。その後も、織田、徳川と小競り合いを続けたのですが、その後、勝頼が目を付けたのが徳川家の西の拠点、岡崎城でした。ここは徳川家の第二の拠点であり、織田家との連絡を受け持つ最前線だったため、その嫡子である徳川信康(ただしこの時はまだ15歳で実権は無かったはず。後に信長から切腹を命じられ死去)が守っている要衝だったのです。
「三河物語」によると岡田城に居た大賀弥四郎が武田家に内通、これを頼りに勝頼は岡崎城を攻め落とすつもりでした。このため、翌年1575年(天正三年)に武田勝頼は兵を率いて再度、徳川領を目指します。
ところが武田軍団の到着前に、内通が露見し大賀は処刑され、勝頼の目論見は外れてしまいます。
そこで勝頼は守りの固い岡崎城を避け、浜松と岡崎の間にあった仁連木(二連木)城を攻めるのですが、これも落とせないで終わります。結局、武田軍団は徳川領内をウロウロした後、特に戦果らしい戦果もなく長篠から伊那街道を北上して諏訪方面に帰還する事になったのです。
ただし、以上の記述は徳川方の「三河物語」のみにあり、負けた側の記録である「甲陽軍鑑」では勝頼がいきなり長篠城を囲んだように取れる内容になっています。「三河物語」は記憶違いと思われる部分も多いものの、この辺りの記述は具体的であり、少なくとも似たような事情はあったと考えるべきでしょう。とりあえず長篠城を当初の目標に勝頼は徳川領に侵入したのでは無いはずです。
さて、話を戻しましょう。
同時期、徳川の同盟者であり、すでに日本最大の軍勢になりつつあった織田家は大阪(厳密には当時は大坂)の石山本願寺と河内(大阪南部)の三好康長が兵を起こしたため同年旧暦4月6日に京都を出陣(この時期は主に京都に居た)、この鎮圧に向かっていました。すなわちこっちはこっちで手一杯だったのです。おそらく東西で共謀して織田・徳川連合を揺さぶったのでしょう。
このため勝頼率いる武田家の軍団は徳川領内で暴れるだけ暴れ、後は長篠経由で信州に帰ってお終い、織田家の救援は間に合わず、と見られていたのです。ところが最後の最後に手ぶらでは帰らんぞ、とばかりに勝頼は伊那街道入り口にあった長篠城を攻めにかかってしまいます。長篠城は小さな城ですから、鎧袖一触、というつもりだったのでしょうが、この城は意外なことに頑強なまでに抵抗を続け、武田軍団を長期戦に引き込んでしまいました。これは武田の軍団がここに足止めされる事を意味します。
この時は1万5千と言われる武田軍が千人以下の守備しか居なかったはずの城を囲んだのですが、少なくとも20日近く長篠城は持ちこたえてしまうのです。
長篠資料館に展示されていた長篠城周辺の地形模型。
白矢印の先が長篠城。二つの川が合流する地点に突き出た丘陵の上にあり、天然の要害である事が見て取れます。その川も見ての通り深い渓谷になっており、これを渡河して城に入るのは容易ではありません。よって北側の狭い平地から攻めるしかなく、守るには固い城となっていました。
さらに、そのすぐ脇を伊那街道が通っているのですが、渓谷に加えて南北から山が迫っており、長篠城を抑えられてしまうと、街道の通行は極めて困難になります。この点、すなわち「十分な兵力で城を抑えると街道の通行を遮断できる」という点は重要ですから覚えて置いてください。これはもしここを抑えてしまえば、武田領への脱出路が無くなることを意味するからです。
この武田の動きを見た家康は、すぐには長篠城の救援には向かわず、織田家に援護を求めました。
東の武田家と呼応して西で兵をあげた三好康長が旧暦(以下全て同)4月20日に降伏、残る本願寺勢力には抑えの兵だけを置き、本拠地である岐阜城に4月28日に信長は帰還していたからです。
この辺り、筆者は徳川の支援要請を受け急ぎ大阪から帰還したと考えていますが、勝頼が間抜けで、たまたま信長が間に合ってしまった可能性も否定はしません。
そして岐阜に帰還後、信長は徳川救援の兵を起こすのですが、直前まで大阪で戦っていたこともあり、実際に軍団が岐阜城を出たのはほぼ二週間後の5月13日でした。2万を超える軍団だったはずですから、自分の本拠地に一度もどった各軍団長と軍団の最呼集、補給物資の準備、進軍の段取りを考えれば、この程度の準備は必須だったのでしょう。
この辺り、武田側の記録、甲陽軍鑑が主張する、信長はビビッてなかなか出てこなかった、という指摘はあまりにも戦を知りません。甲陽軍鑑が後世の偽書とされるのも無理からぬ所です(江戸期の馬鹿どもが甲陽軍鑑に大幅に手を入れたのは疑う余地が無いが、その土台となった資料には一定の信憑性があるのがこの本)。実際、徳川側の記録「三河物語」にもそういった記述は見られませぬ。そもそも信長はこの段階で武田家を完全粉砕する覚悟を決めていたはずです。
とりあえず信長は出陣後の翌14日に岡崎城に到着、そして17日には長篠に近い野田城に入り、いよいよ武田軍団と織田軍団の全力対決の準備が整います(小競り合い、三方ヶ原の合戦の救援などはあったが両者の主力どうしがぶつかるのはこれが初めて)。
ではOODAループの運用、特に「監察結果への適応」段階から見たこの合戦はどういったモノなのかを、以後、見てゆきましょう。
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