何度も述べてるようにOODAループは「ボイドが作り出したもの」ではなく「ボイドが発見したもの」です。そんなもの知らない時代の人間でも古代四大文明以前から無意識化にブン回しるのがこのループです。よって
「上様、OODAループの高速回転で武田を圧倒するですみゃあ」「でりゃーでかしだだぎゃー、ハゲネズミ」
みたいなやりとは無くても、あのレベルの皆さんだったら、無意識化にその作業をやっていたはずです。「概念化」されてないだけで、存在はしていたのですから。

なので、ここからは長篠の決戦場で対峙した織田・徳川連合と、武田川がそれぞれ組み上げた「勝つためのOODAループ」を推測、比較して行きましょう。

■孫子の条件

念のため、再度OODAループの基本形を載せておきます。



さて、当然、最初に双方による敵の観察が行われますが、具体的にはどんな情報を得ればいいのか、をまず考えます。この点は武田家の「風林火山」でおなじみ、兵法書の古典、孫子から検討しましょう。当時の人たちも読んでいたでしょうし、読まなくても、最低限のことは聞いてたと思われるからです。

孫子は一番最初の章、「始計」、すなわち「計画を始める章」中で戦争に勝つための五大要素として以下のものを上げています。

1.「道」 兵士の士気を保つ最高指揮官の存在とその指揮能力
2.「天」 天候、季節、そして時期的な要素
3.「地」 戦場の地形。そして自軍と敵軍の陣取った地形の差
4.「将」 指揮官の能力
5.「法」 指揮系統の優劣、規律の有無、組織としての管理能力


これらの条件が敵と互角以上なら初めて戦ってもよく、でなければ戦うな、とされています(孔子と同時代の書物なので、まだ儒教的な胡散臭い「道」、柔道、剣道、のような鬱陶しい「道」とは全く別の概念なのに注意)。その上で戦うのであれば、第三章「謀攻」、攻め勝つための要素の章の中で敵味方の兵力差を確認の上、次のようにせよ、と述べています。

1.兵数が同数なら全力を尽くしてあたれ
2.兵数が倍ならばその一部を分かち、前後から挟撃、または左右から脇を突かせよ
3.兵数5倍ならただ一方的に蹂躙するだけでいい
4.兵数が10倍あるなら、敵を包囲するだけで降伏して来るし、来なければそのまま包囲殲滅せよ

5.敵より少数なら戦ってはならぬ、逃げ、絶対に戦闘は避けよ

孫子の戦術理論は、このように絶対に勝てるときだけ戦え、勝てる見込みがないなら戦うな、という極めて常識的な戦術論なのが特徴となっています。

すなわち、どんな不利な状況に追い込まれても「こんな事もあろうかと」と言いながら対策が出てくる魔法のような戦術、あるいは「これは孔明の罠だ」とか敵に言わせながらあっという間に大軍を全滅させてしまう魔法のような戦術は全く出てきません。逆にこういった条件でなら絶対勝てるから、その条件の時のみ戦え、それ以外の時は決して戦うな、という極めて常識的な論理が展開されるのです。

この点を徹底的に守り抜き、絶対勝てるという時まで決して戦わなかったのが織田信長、その正反対に勝利条件すら判らないまま魔法と奇跡に頼って戦争始めて国を滅ぼしたのが昭和の日本の軍部ですね。

さらに、上の要素には作戦、戦術といった要素が全くないのに注意してください。そんなものは「道」と「将」の要素を満たす人材が居れば、黙っていても必要十分な要素を満たしてしまうからでしょう。あらゆる戦いの勝敗は結局、優秀な人材をどれだけ得られるかで決まるのです。実際、織田家も徳川家もナポレオン一味もカエサル率いるローマ革命軍も全盛期のホンダF-1第二期も、指導者の有能さに加えて集まった人材の有能さが際立っていました。

■長篠の現実

では、長篠の戦場において、こられの諸条件はどうだったのか。
織田&徳川家も、武田家も実戦経験は十分であり、例外はあったものの、その戦闘の中で淘汰された有能な指揮官が軍を率いてましたから「将」と「法」はほぼ互角に強力だったでしょう。

問題は「道」で、カリスマ的な指導者であり、飴と鞭で部下たちを率いた信長と、熱血漢で先頭に立って部下を引っ張った血の気の多かた時代の家康に比べると、家臣団からも愛想をつかされつつあった武田勝頼はかなり不利でした。この点、彼は信玄の後継者ではなく武田家の首領でもない、という不利もあったのですが、それでも8割方は本人の責任でしょう(信玄の遺言で後継者に指名されたのは孫であり、勝頼の息子だった信勝だった。勝頼はその元服まで後見人(陣代)とされただけ)。

となると残る比較要素は「天」「地」そして、兵数です。そしてこれらこそ、まさに戦場で観察されるべきもの、すなわちOODAループの最初の段階「観察」によって得るべき情報となります。それらをどうやって「監察結果への適応」に取り込むかが運命の分かれ道となり、実際、そうなったのが長篠の戦いでした。

最初にまずは観察で得られるであろう「天」「兵力差」、そしてこの合戦のカギとなった「地」の情報をざっと並べてみましょう。

 天

 旧暦5月末、太陽暦の6月末にあたる。すなわち梅雨であり、天候は雨かよくて曇り。まだ暑くはない。


 兵数


武田側は1万5千

後に長篠城の抑えに3千人を残して1万2千人で決戦に望む
(信長公記、甲陽軍鑑による。三河物語のみ兵数2万とするが1万5千説を取る。ただし信長公記だと1万5千人は決戦に出た人数で、長篠に残された兵数の記述は無い)

長篠城に籠城したのは恐らく1000人以下
(数字を記録した信頼できる資料はないが城の規模から推測。いずれにせよ戦力とは呼べない)

織田・徳川連合軍は3万〜5万

後に長篠城攻めの別動隊に4千人を分派、2万6千〜4万6千人で決戦に望む。いずれにせよ、最低でも倍近い兵数である。
(最も信憑性が高い信長公記では3万、三河物語、甲陽軍鑑では10万。ただしこの時期、織田家は本願寺と決着がついてないので全軍引き連れて来たとは考え難く10万はあり得ないだろう。おそらく3万が正しいと思うが念のためこの数字とする)

そして、最後に、この合戦の決定的な要素となった「地」の要素を考えましょう。これは言葉で説明しても判らんと思うので、写真で紹介します。

まずは長篠周辺の地形。長篠城から、織田・徳川連合軍が陣を張って決戦の地となった設楽原までの地形はこうなってました。この左右でだいたい6q前後の距離があります。白い線が例の伊那街道です。クリックしてもらえば、もう少し見やすい大きな画像が開きます。



■Google Earth より各種情報を追加して引用

そして長篠城周辺の地形は先にも見たように以下のようになっています。矢印の先が長篠城、川を渡った先が武田軍が最初に陣を張った有海(あるみ)原。この城が決戦場の平野部から武田領への脱出路となる伊那街道の関門になっているのに注意してください。



さて、以上の情報の観察から、両軍団は何を読み取ったのか、そこからの正解行動の推測がどれほど両者で違ったのかが合戦の行方を決定づけました。この辺りを次回は少し詳しく見てゆきます。

という感じで今回はここまで。


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