ロンメルのメルは攻メルのメル

さて、今回からは電撃戦のもう一人の主役、ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel)について見て行きましょう。

ヒトラーに拾われて突然と言っていい出世街道の邁進を開始し、機甲戦の天才として敵であるイギリスからも賞賛され(ただしイギリス人が人を褒めるのは負けた言い訳か、自分がどれだけ手強い相手を倒したかの自慢話かの二択だが。ロンメルはその両者に当てはまる)、最後はヒトラー暗殺に関わったとして「名誉ある自殺」に追い込まれた軍人、というのが一般的な評価かと思われます。

ロンメルは第二次大戦開戦直前、1939年8月に少将の地位に就くと(48歳で決して早い出世では無く、ヒトラーの支援があっての昇進だったと見ていい)、ヒトラーの護衛を担当する総統護衛大隊(Führer-Begleit-Battalion )の責任者に任命され、ここから出世街道の電撃戦を開始します。ホントの電撃戦開始の3カ月前の2月10日、ヒトラーと親密な関係を築いていたロンメルは当時まだ10個師団しか存在しなかった装甲師団の長の地位を手に入れ、フランス&低地諸国戦の開戦を迎える事になるのです。 もともと歩兵部隊が専門で、特に機甲戦に詳しいわけでも無かったロンメルが、なぜ装甲師団の師団長の地位を熱望し、さらにグデーリアンに匹敵する快速進撃をやってのけたのかは、正直言って謎です。この辺り、直感と本能の人なので、何かピンと来る物があったんでしょうかね(誤解無きように述べて置くと、他の将軍に比べて知能面でも高いと思うが)。

対フランス&低地諸国戦が始まるとロンメル率いる第7装甲師団は、グーデリアン軍団と並んで快進撃を展開、より北側に居たため、連合軍主力に取っては最も身近な脅威となりました。このためかつて英語圏では電撃戦といえばロンメル、という印象すら持たれていた時期があります。ただし、この点はイギリス人だけは天才的な軍事理論家だと言う二流の人、リデル・ハートが死人に口なしとばかりに、自分の理論展開とその宣伝に利用したから、という面も少なくないでしょう。実際はグーデリアン軍団に比べると、そこまで決定的な役割は果たして無いんですけどね。対して北アフリカ戦線に置ける「砂漠のキツネ」としてのロンメルの印象がまさっていた日本は、かなり正しい判断をしていたと言えます。

筆者の感想を言えば、天才的な軍人の一人ですが、論理的ではない直感的な行動が多くて安定性に欠け、さらに功名心が強すぎて何でもかんでも自分の手柄にしちゃう人なので史料的な確認に手がかかる厄介な人、ですね。イギリス軍、アメリカ軍に居たなら間違いなく最強の人材になれたと思いますが、多士済済の歴代ドイツ軍の将軍の中では、超一流の人材、マンシュタイン、グデーリアンと比べると一段落ちる、という印象です。その軍人としての才は師団長が限界だったと思います(後に北アフリカで率いたアフリカ軍団でも2個師団、3万人前後の兵力に過ぎない)。ちなみにこのロンメルをさらにキチガイにして矮小化したのがアメリカの暴走将軍パットンと思って間違いないのですが、その辺りはまたいずれ。



■Photo:Federal Archives


よく知られたロンメルの肖像写真。アゴを突き出して、やんのかコラ、とケンカ売ってるような印象を受ける辺りがまさにロンメルという感じの写真です。ちなみに撮影時期は1942年以降とされるので、すでにアフリカから連合軍に追い出される形で脱出、本土に戻った後の撮影なんですが、未だ自信満々な印象を受けるのも実にロンメルらしい部分。

そのロンメルに常に付きまとう問題点としてヒトラーとの関係があります。
ロンメルの場合、母が有力な貴族階級の政治家の家系だったものの、父は貴族階級の出身ではなく、当然、本人もそうではありませんでした。この辺りが貴族万歳主義のドイツ陸軍内での出世の遅れの原因となるのと同時に、貴族階級の軍上層部と折り合いが悪かった平民伍長ことヒトラーに気に入られる理由になったと思われます。

さらに開戦前からロンメルは一定の知名度がある「国民的軍人」の一人でした。これは第一次世界大戦に歩兵部隊指揮官として参加した経験をつづった「歩兵は攻撃する(Infanterie greift an)」という書籍を1937年に出版、ベストセラー本の一つとなっていたからです(出版時の階級は46歳にして未だ中佐。ちなみに軍事理論書と述べられているのを見るがそういった本ではない。戦闘のヒント付回顧録、といった内容)。

ヒトラーの有名軍人スキは衝撃の白いデブ、第一次世界大戦時のエースパイロットにして国家元帥、そして空軍の一番偉い人になっちゃったゲーリングの存在などを見ればよく判るでしょう(ゲーリングの場合、元軍人だが)。ヒトラーはロンメルも同じようにドイツ陸軍に置ける自分の駒として利用するつもりだったと思われます。実際、1939年に少将として将官になって以後、ドイツ軍人最高の地位である元帥に僅か3年後、1942年に昇進しています。これは3年早くに将官の地位にあったマンシュタインをぶち抜いての出世であり、陸軍の最年少元帥でした(ゲーリングとミルヒの方が若いが、彼らの陸軍元帥の肩書は空軍に元帥の地位が無かったゆえに授けられたもの。この点、海軍には大提督階級(Großadmiral)があったので、陸軍元帥の肩書を持つ海軍軍人はいない。ちなみに第二次大戦期に大提督となったのはレーダーとデーニッツの二人だけ)。この点、陸軍参謀長だったハルダー、そしてグデーリアンですら元帥にはなれずに終わって居るので、やはり異常な出世と言っていいでしょう。

ヒトラーが「歩兵は攻撃する」を読んだとは思いかねるのですが、とにかく軍事理論に明るく、貴族階級で無く、そして陸軍内の出世街道から外れていながら国民によく知られた軍人、というのは貴族趣味の軍参謀本部と対立していたヒトラーには魅力的な存在だったと思われます。そしてロンメルもまた功名心が強い、上昇志向の男だったため、両者の利害は完全に一致するのです。ただしロンメルはヒトラーに心酔する様子を見せながらも、最後までナチス党員にはなっていません。

そういった関係ながら1944年、ノルマンディー上陸戦の後からヒトラーとの対立が鮮明になって行き、最後はヒトラー暗殺未遂事件に関わったとされます。このため事件後、名誉ある自殺という選択肢を与えられ、その生涯を終える事になるのです。ちなみに1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件は関係者がロクに資料を残す間もなく皆死刑にされてしまったため、ロンメルの関与がどこまであったのかは未だに謎である部分が大きく残っています。それでも2018年に反政府組織の指導者の一人だったハルトマン(Rudolf Hartmann)が残した資料中から、ロンメルが反政府活動に関わっていた事を示す書類や写真が発見された事、他にも生き残った関係者、さらに生前にロンメルに会った連合軍捕虜の証言などから、その関与はほぼ間違い無いと思われます。ただしロンメルは暗殺ではなく逮捕して裁判にかける事を望んでいた、という話もあります。

いずれにせよ暗殺計画直前、7月17日に敵機からの機銃掃射で重傷を負って入院してしまったため、直接暗殺には関与しないまま、10月14日に自殺を強要され、その生涯を終えるのです。

ちなみに日本語で読めるロンメルの史料としては唯一の本人よる著作でベストセラーの「歩兵は攻撃する」、生前の記述を戦後にリデル・ハートがまとめた「ロンメル戦記(The rommel papers/「戦車は攻撃する」というタイトルで前著の続編として本人が執筆するつもりだったらしい覚書などからなる)」、アフリカ軍団で幕僚の一人だったシュミット少尉が戦後にまとめた「ロンメル将軍(With Rommel in the Desert/ドイツ語版が見つけられず。シュミットは南アフリカ出身だがドイツ人。最初から英語で書いたとは思えないが…)」などがあります。


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