■フランス側のお事情ザンス
5月16日の段階で連合軍の崩壊は決定的になり、それすなわちフランスの敗北を意味したのですが、そのフランス側は政府と軍のトップが電撃戦直前からその最中まで常にゴタゴタしておりました。電撃戦が一方的な戦闘になったのは高速OODAループによる圧倒的な高速機包囲殲滅戦だったから、というのが最大要因ですが、その成功に少なからず影響を及ぼしたのがフランス政府上層部&軍上層部のゴタゴタでした。イギリス人曰く、連中は自分たちの争いに手一杯で、ドイツとの戦争まで手が回らなかったんだ、と言うほどの深刻な対立があったのです。
この辺りの事情は当時のフランスを代表する文筆家であるアンドレ・モーロワ(André
Maurois)が終戦後の1940年夏にアメリカで出版した「Tragedy in France: An Eyewitness
Account/邦訳:フランス破れたり」に詳しい記述があります。モーロワはイギリスとの連絡将校として陸軍中尉(ガムランの意向で後に大尉に昇進)として歴史的な現場に立ち合い、さらに多くの要人に会って話を聞いて居るので、その記述の信憑性は高いと思っていいでしょう。ちなみに同書は戦前、1940(昭和15)年中に日本語訳版が出て、あのドイツにケチョンケチョンにされたフランスの話としてベストセラーになっています(部数は不明だが最終的に第200版まで増刷されたらしい。ちなみに2005年に再出版されている)。
■保守派 ダラディエ
&ガムラン VS
革新派 レイノー&ジョルジュ
既に簡単に触れましたが当時のフランス政界で最も影響力を持ち、電撃戦の直前、1938年4月から1940年3月までフランスの首相だったのがダラディエでした(第三共和政時代なので
閣僚評議会議長/Président du Conseil des
ministresだが実質的に同じものなので本稿では首相として記述する)。
エドゥアール・ダラディエ(Édouard
Daladier)。第二次大戦直前期にはフランスで最も強力な影響力を持つ政治家でしたが、戦後はほとんど目立った活動をすることなく終わりました。この辺りは戦後の政界の中心となったド・ゴール将軍との不仲が原因だったかと思われます。
2年近い首相としての任期は当時のフランスとしてはかなり長期政権と言って良く、ダラディエの政治力を示すものでした(ただしその前に二度、極めて短期に終わった首相時代があったが)。第二次大戦開戦後も首相の座にあったのですが、最終的にソ連軍のフィンランド侵攻の対応を誤り、フィンランド政府を救えなかった事を非難されて辞職に至ります(すなわちドイツとの戦闘が理由ではない)。
モーロワによると落ち着いた雰囲気の紳士的な人物に見えたが、実際は癇癪持ちで怒り易く、人を信用しない猜疑心の強い人物だったとか。
フランス軍のトップ、ガムランと親しく、首相の座をレイノーに譲った後も国防相として内閣に留まって政府内で一定の影響力を維持します。不幸にして首相の座を譲ったレイノーとは戦争への考え方を中心に対立しており、さらに不幸なことに性格的にも馬が合わず犬猿の仲でした。すなわち首相と国防相が相互に憎悪している政府がドイツとの戦争に巻き込まれた事なります。
そして軍部もまた一枚岩ではありませんでした。既に見たように総司令官のガムランと、その副官であり北東方面軍指令官であるジョルジュは不仲と言っていい間柄で、しかもそれぞれがガムラン派、レイノー派に組して争う形になっていました。この辺りは守備的な戦術を信奉するガムランとダラティエ、対して攻撃的、主導権を握るために積極的に動くべきだと考えていたレイノー&ジョルジュという構図になって行きます。
フランス軍の総司令官であり、最大の敗因の一つと言っていいガムラン将軍。モーロワによると寡黙で礼儀正しく、親切な人物だったとか。ただしそれらの美点は軍人としての欠点を補うものではありませんでした。
非情に保守的、かつ守備的な戦略論の持ち主で、新時代の戦争を仕掛けて来たドイツ軍に対し、最後まで第一次世界大戦の思想の中で生き続けた人物でした。間違いなくフランスを殺した犯人の一人と言っていいでしょう。戦前から次の戦争では先に動いた方が負けると主張し、マジノ線を主とする防衛陣地に籠って戦う事を主眼に置いた戦略を採用します。当然、フランス側から攻勢に出る事を拒否、結果的に電撃戦において常にドイツ側に主導権を握られる事になります。さらになぜか無線の採用に消極的で、ドイツ側の空襲で電話線がズタズタにされた後、200q先の前線とのまともな連絡すら取れず総司令部が戦況を把握できてないまま指揮を執る、という悲劇的な事態を生じさせます。それ以外にも多くの要因が重なっての惨敗ではあったのですが、軍の総責任者であるという点と合わせ、この人が最大の敗北の戦犯でしょう。
ダラディエの跡を継いで首相となったレイノー。ダラディエ内閣ではいくつかの大臣職を務め、禅譲される形で電撃戦の約2カ月前、1940年3月に首相の座についた人物。ただし両者は犬猿の仲だったのです。
レイノーは当時のフランスでは数少ない新しい戦争の可能性を感じ取っていた一人でした。第一次世界大戦のような塹壕戦が繰り返される、という点には強い疑問を感じており、むしろフランス軍から攻勢に出るべきだと考えていたフシがあります。この点で、ガムランの敵、ジョルジュ将軍と意見が一致し、両者でダラディエ&ガムラン組に対抗して行く事になるのです。ついでに後で見るように機甲部隊の重要性を唱えるド・ゴールを軍最年少の将軍に抜擢し、第4装甲師団の設立を援助したのもこの人です。不運だったのは首相就任から電撃戦まで2カ月しかなく、ほぼ何も出来ないままドイツに攻め込まれてしまったことでしょう。さらに開戦直前にガムランを解任を試みるのですが、国防相のダラディエに反対され断念する事になったのも痛手でした(おそらくジョルジュ将軍を総司令官にするつもりだった)。
ちなみに戦前にレイノーを初めて見たイギリス軍の将校から「あの日本人みたいな小男は誰です?」と聞かれた、とモーロワが述べています。貴族階級であろうイギリス軍の将校ですから侮蔑的な言葉であり(ヨーロッパの白人ではなく東洋のサルみたいな男だという事)、あまり見かけはパッとしない人物だったようです。ただしモーロワによると貧相な外見に反して強い信念を貫き通す勇気を持った人物であり、選挙で不利になると判っていても自分の政策信条を一切変えなかったし誤魔化す事も無かったとされます。「軍鶏」と呼ばれていた、という話もあり。ただし自信家であり、相手を見下したような論争を仕掛ける事も多く、敵は多かったとモーロワは述べており、敵であるダラディエはレイノーの事を自惚れ屋のキザな男と見なしていたようです。ちなみにレイノーは戦後も一定の活躍をしており、このあたりはド・ゴールとの良好な関係が影響していたのか、と思っていたんですが、ド・ゴールが第五共和制で大統領に就任した後は野党側に回っており、そう単純な話ではないのかも。
余談ながらダラディエ、レイノー、どちらもフランスの政治家らしく愛人が居り(ダラディエは当時独身だったが相手は人妻)、それらがまた互いに不仲で、さらなる両者の対立を煽ったそうな。さらにモーロワによるとレイノーの執務室には愛人直通のホットライン電話があり、頻繁にベルが鳴っていたとか。これ、愛人が政治に口を挟んでいたでしょう。そりゃ負けるよねフランス、という感じではありますね。
ちなみに電撃戦前までフランスには親ソ連派の左派が多く、この層が独ソ不可侵条約を結んだドイツに対して共感し、兵器工場などでサポタージュを引き起こし戦争準備の障害の一つになってました。ただし個人的にはこの辺り、思想的な動機ではなく皆さんソ連のハニートラップの獲物だったのでは、と思っております(笑)。なにせ女に弱い国民性ですから。
この辺り、ソ連国内に呼び込んで政府機関の息のかかった女を近づけて弱みを握る、という手段はロシアになった後も継続するのですが、ソ連崩壊後はお持ち帰り、結婚させて本国まで送り込む、という事もやり始めています。おかげで在留経験(モスクワかサンクトペテルブルクに長期滞在)の有無に加えて奥さんをチェックする事で、各国の「ロシア専門家」にロシア政府の息がどこまで掛かっているかの推定が容易になる、いい時代にはなりました(笑)。
ただしこの点、なぜかアメリカは例外で、あの国でロシア関係に強い影響力を持つ人材は、この条件に当てはまらない事が多いです。何らかの対策をしている可能性あり。ついでながら最も用心が要る相手はこれもソ連時代から変わらずで、大声で親ロシアを唱えている馬鹿より、表面上はロシアに批判的なフリを装う内通者ですな。
フランス軍ではガムランに次ぐ地位にあったジョルジュ将軍。以前にもちょっと触れましたがガムランとは出世を巡ってライバル関係にあり、さらに戦略思想も積極策を信奉していたため両者はこれまた犬猿の仲になって行きます。そして最後はレイノーと手を組んでガムランに対抗する事になるのです。すなわち首相と国防相、軍の最高司令官と副司令官にして現場指揮官が不仲な状態で戦争していたわけです。まあ軍の上層部や政府内での対立不仲はどの国にも一定数あるのですが、ここまで重要な地位にある人物が全部対立関係にあるのはちょっと異常でしょう。
このような陣容でグデーリアン軍団による電撃戦を向かえたフランスでしたが、その敗北が決定的なった16日以降、さらなるグダグダが展開してゆきます。とりあえずその辺りまでは見ておきましょう。
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