■とにかく揉めるクライスト
セダン周辺の戦いと、それが引き起こした戦わずに勝つ多くのOODAループの高速戦闘、その中でドンドン消えて行くフランス軍の状況を見て来ました。全体的に俯瞰すると、ほぼ5月15日の日没段階で戦争の行方は決していたと言っていいでしょう。その後も約10日間、イギリス軍の主力と一部フランス軍&連合軍がダンケルクの海岸から撤退するまで電撃戦は続くのですが、ほぼ無意味な戦いでした。幾つかの例外的な戦闘を別にすると、戦闘らしい戦闘も発生していません。以後のドイツ軍は連合軍主力部隊が低地諸国の平野部に進出してしまった後、まともな兵力は残って居なかった軍事的な真空地帯を快進撃するだけでした。
その電撃戦の主力だったのがクライスト装甲集団だったわけですが、この5月15日以降、主な敵はドイツ軍内部の抵抗に移って行きます。全く新しい機甲戦力の集中運用と言う概念、それを基に開戦直前に編成された強力な部隊がクライスト装甲集団でした。これはA軍集団司令部直属の独立した存在として、マース川渡河までに大戦果を上げていたのですが、他の軍司令部の指揮官たちはその存在を快く思ってはおらず、さらにその強力な打撃力から自軍の指揮下に入れようと画策していました。特にアルデンヌ地区から北側を担当する第12軍はクライスト装甲集団をその指揮下に置こうとあらゆる手を打って来ます。当然、それは自軍の歩兵援護に回し、装甲部隊の速度、火力の集中運用と言う大原則を無視した兵力運用が行われる事を意味します。
このためクライスト装甲集団のボス、クライスト大将は自分の軍集団の独立性を維持するための政治的な闘争に巻き込まれて行くのです。以後、軍司令部、ドイツ参謀本部の両者を相手に政治的な争いが続きます。この辺り、強気な人物でヒトラーと怒鳴り合いの論争をやったと言われるクライストは適任だったとも言え、最後の最後まで装甲集団の独立性を維持する事に成功します。ただしこう書くと、クライストが装甲戦力による高速戦闘の理解者だったように思えてしまいますが、実際の所はその点に関しては完全な素人で全く理解していませんでした。このため、以後、グデーリアンの高速進撃に対する最大の妨害者にもなって行きます。この辺りの矛盾した行動は理解に苦しむ所で、要するに権力闘争には向いていても、最新の軍事理論による戦闘に向いてる人物では無かったのでしょう。
■Photo:Federal
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パウル・フォン・クライスト(Paul Ludwig Ewald
von
Kleist)大将。電撃戦後に上級大将に昇進。
ナチス党に馴染めず、一度は解任に近い形で退役しながら第二次大戦が始まると軍に呼び戻された人物で、この点はA軍集団のボス、ルントシュテットと同じです。最後は独ソ戦末期にヒトラーから罷免されてしまうのですが、戦後に戦犯としてソ連に引き渡され、1954年に獄中死。このため回顧録は無く、残された証言も限られるため、これだけの活躍をしながら詳細がよく判らない人物、という部分が少なからずあります。参考までに筆者の評価は政治屋に近い戦争屋、ですね。軍事的にはそれほどの人物では無いでしょう。
念のため、開戦時のA軍集団の指揮系統をここで確認して置きましょう。
軍集団のボス、クライストは14日から15日にかけ、装甲集団を支配下に置こうとする第12軍司令部との闘争に巻き込まれます。開戦時にはA軍集団の直属として一定の独立性が保たれていたクライスト装甲集団ですが、その段階でも各軍の指揮官から強い抵抗がありました。このため、A軍集団のボス、ルントシュテットはその独立性に一つの条件を与えます。すなわちマース川渡河までは独立性を認める、進軍も最優先とする。ただし渡河後に第12軍の部隊に追いつかれてしまうようなら、もはや意味が無いのでそのまま第12軍司令部の指揮下に入り、以後はその援護に回る、と。すなわち渡河予定日だった13日を区切りとし後続部隊が追いつくならそのまま吸収されて飲み込まれてしまう、という条件です(グデーリアンは回顧録の中で一切この点に触れていないが、恐らく彼が13日渡河にあれほど拘った理由の一つだったろう)。
この点、グデーリアンの第19装甲軍団は既に見たように必要以上に順調で、頼まれて無い距離までぶっちぎりで侵攻していました。ところがもう一つの主力、ラインハルト率いる第41装甲軍団は開戦直後に大渋滞に巻き込まれ、ドイツ国内から出撃するだけでほぼ二日遅れとなっていたのです。それでも先行したグデーリアン軍団がルクセンブルグとベルギー国内の敵を一掃していたため12日以降は一気に距離を稼ぐ事に成功、13日夕刻にマース川の渡河予定地点だったフランス領内のモンテルメ(Monthermé)に先行部隊が到達しました。ところが、ここでの渡河に手こずり、以後しばらく動けなくなります(詳細は次回)。これを見た第12軍司令部は好機到来とばかりにクライスト装甲集団を同軍配下に入れるようA軍集団司令部に求めるのです。驚くべきことにA軍集団司令部はこの訴えを認め、翌14日にクライスト装甲集団が第12軍の指揮下に入る事を命じています。その指定刻限は15日正午12時でした。
14日の段階ならば既にグデーリアンの快進撃は始まっており、どうにも理解に苦しむ所です(そもそもルントシュテットは現地でグーデリアン軍団がマース川の渡河を一気に進めているのを見ているのだ)。これはドイツ軍上層部の装甲部隊への無理解が原因であり、ルントシュテットを含むA軍集団司令部も例外では無かった、という事でしょう。ただA軍集団の目的は敵主力部隊の高速包囲殲滅なのですから、この指令はやはり理解に苦しむ所です。
この点、ドイツ軍内でこの作戦を正しく理解していたのは、グデーリアン、ラインハルト、なぜかロンメル、そして現地には居なかったマンシュタインくらいだったのでしょうね。電撃戦はドイツ軍の戦術思想が優れていた結果ではなく、少数の天才たちがこれを強引に引っ張って行った結果なのです。軍事的にはよくある事態で、アレクサンダー、カエサル、チンギス・ハーン、織田信長(最新の研究によると意外に常識人の普通の人だった的な話を最近よく見るが馬鹿も休み休み言え)らの無敵軍団は集団が優れていたのではなく、その指導者が天才だったのです。その天才が十分に才能を発揮できる環境を得た時、歴史が動くわけです。
この第12軍団への吸収命令を受けたクライストは激怒します。そして配下の部隊に激を飛ばしてとにかく前進せよ、と命じるのです(グデーリアンはこのゴタゴタを利用して14日までは比較的好き勝手やれた)。激を飛ばれたラインハルトも必死となり、この結果、マース川を渡河した一部の部隊を先行させ、15日の午後に一気に50kmを越える奇跡の大進撃を成功させます(その途中で発生したのが前回見たフランス第2装甲師団の壊滅)。この結果、第12軍に配属される決定は覆らなかったものの、その独立した行動は認められ、以後の快進撃に繋がるのでした。まあ、その直後からクライスト本人が快進撃最大の妨害を行うんですけどね。
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