■今度の敵はグーデリアン
こうして装甲集団の独立性を維持する事に成功したのが15日の日没に掛けての状況なのですが、実は同時進行でクライスト本人が快進撃にブレーキを掛けていました。14日のゴタゴタを利用して一気に20q近く橋頭堡を拡大し、さらにストンヌに攻め込むんぬ、までやってしまったグデーリアンの独走に対し、15日の夜になってその前進停止を命じるのです(「電撃戦という幻」だと14日夜に発生となっているが、状況的にグデーリアン本人が書いている15日夜が正しいと思われる。そもそも同書のこの辺りの記述はやや時系列がメチャクチャになっている)。
この点、グデーリアンは渡河成功直後の13日夜から当面の進撃目標地点を南西約45q先に位置する街、ルテル(Rethel)としており、クライスト装甲集団の司令部も一度は承認したようです。ですが15日の段階でセダンとルテルの中間地点、ブーヴェルモン(Bouvellemont)とポワ・テフォン(Poix-Terron)を結ぶ線にグデーリアン軍団が到達したのを知ると、いくら何でも速過ぎだと介入、停止命令を出します。
この点グーデリアンはグデーリアンですから、こちらも激怒、電話を通じての激論となりました。当初は軍集団の参謀、ツァイスラー(後にハルダーの跡を継いで参謀総長になり、その次に参謀総長になったのがグデーリアン)に抗議の電話を掛けたのですが、収拾が付かず、お前じゃ話にならんとグデーリアンはクライスト本人を電話に呼び出します。当然、両者は大激論になるのですが、最終的にグデーリアンは24時間の猶予を勝ち取ってしまいました。すなわち16日の日没までは進撃が認められたのです。ただし後で見るようにグデーリアンは24時間で止まる気は無く、両者の対立は決定的となります。最終的にはグーデリアンの解任騒動にまで発展するのですが、この点はまた後で。
参考までに15日の日没前後までの第19装甲軍団の状況をここで見て置きましょう。まずストンヌでは第10装甲師団&大ドイツ歩兵連隊が激戦継続中でした。西に進撃中の二個師団の内、北を進む第2装甲師団はポワ・テフォン地区に、南を進む第1装甲師団はラオーニュ(La
Horgne)〜ブーヴェルモン線にそれぞれ到達しておりました。
この一帯でグデーリアン軍団はフランス軍の最後の組織的抵抗に遭遇する事になります。ちなみに一帯は先に見たフランス第6軍と第9軍の入れ替えの最中で、フランス側としてはそこを襲撃された形になりました。このため北のポワ・テフォン周辺でドイツ第2装甲師団と戦う事になったのは、例の朝令暮改の移動命令で一帯をさまよう事になり組織としては完全に崩壊していた第53歩兵師団でした。当然、そんな状況でまともな戦闘になるハズが無く、こちらは速攻で一蹴されて終わったようです。このため、グデーリアンの回顧録には戦闘の記録さえ出て来ません。
対して南のブーヴェルモン〜ラオーニュ線に到達した第1装甲師団は極めて激しい抵抗に会うのです。ラオーニュ周辺で戦闘が始まり、ブーヴェルモンを攻略するまで約8時間、第1装甲師団は激戦に巻き込まれます。多くのドイツ側の将校がこれが電撃戦中、最大最悪の戦闘だったと証言していますが、西に向かった部隊はストンヌの死闘を知らないため、この辺りは話半分に聞く必要があるでしょう。それでも激戦だったのは確かで、戦車に向かない地形だった事もあり、ドイツ側は歩兵部隊を中心にかなりの損失を出す事になりました。
ここを守っていたフランス軍は植民地軍である第3モロッコ騎兵旅団でした。第9軍に属するこの部隊は12日のベルギー領内ブイヨンの戦闘で勝手に撤退し、戦線の崩壊に重大な影響を及ぼした部隊でした。フランス領内に移動後、ラオーニュ付近に配備されたのですが、この時は一歩も引かずにドイツ軍相手に死闘を繰り広げます。さらに第6軍に配属された精鋭部隊、第14歩兵師団の第152歩兵連隊がブーヴェルモンに入っておりここでも一定の抵抗がありました。さらに16日の早朝まで一帯は濃霧となってしまいます。このためオモンにあった第1装甲師団司令部では戦況がよく判らなくなり、一時はかなり混乱した状況になったようです。それでも直ぐ北の戦線で第2装甲師団がポワ・テフォンを突破した事などから16日の朝までに一帯はドイツ側が支配するに至ります。
結局、フランス側が例の第6軍の移動で混乱していたこともあり、セダンの西、本来ならフランス第9軍が守るはずだった一帯に置ける組織的な抵抗はこの15日夕刻から16日早朝にかけてのものが最初で最後でした。翌16日、グデーリアンの第19装甲軍団はラインハルト配下の第41装甲軍団と合流、以後は一気に連合軍主力のケツを締め上げるべく、海岸線に向けて疾走して行く事になりました。
■5月15日の伝説
このようにグーデリアン軍団が最後の抵抗線を突破し、さらにラインハルト配下の第41装甲軍団も一気に50qを越える快進撃をやってのけた5月15日をもってして電撃戦は事実上決着、連合軍の敗北は決定的になります。このため、多くの歴史書などでは15日をフランス軍が事実上敗北したことに気付いた、すなわちその敗北を覚悟した最初の日と述べてます(適当な史料だと15日にマース川渡河が行われたような記述にすらなっている)。
ただし、この辺りの話はかなり怪しく情勢が決定的になったのは15日の夕刻から日没の時間帯以降なのです。そもそも展開を完全に決定づけたドイツ第19装甲軍団と第41装甲軍団の合流は16日になってからでした。実際、フランス軍の総司令官、ガムラン将軍が国防相のダラディエ(Édouard
Daladier)に状況が絶望的であると報告したのは15日の20時30分、日没直前の時間でした(アメリカ大使ブリット/William
Christian Bullitt Jr.
がダラティエを訪問していて一部始終を聞いて居た)。ダラティエは何度も首相を経験していた大物政治家で個人的にガムランとも親しい人物でした。そのダラディエが、この段階まで全く戦況を知らされておらず、ショックでイスに倒れ込んでしまった、とされます。すなわちフランス政府がその決定的な敗北を知ったのは速くても午後8時30分過ぎであり、情報が周知されたのは実質的には翌16日になってからでしょう。
では何で15日の段階でフランスが敗北を悟った、という話が世に流布しているのか、というと恐らくノーベル文学賞(大笑)を受賞したチャーチルによる回顧録「第二次大戦」の記述が犯人だと思われます。チャーチルによると、15日の朝7時30分ごろ、フランスの首相、レイノー(Paul
Reynaud)から突然電話がかかって来た、受話器を取ると、英語で「我々は負けた」といきなり言われて驚いたと述べています。チャーチルも衝撃を受けてしばし無言でいると同じ事を再度繰り返したと。これが世の中に伝わるフランスは5月15日に敗戦を覚悟した説の出どころでしょう。ですが個人的には極めて怪しい記述だと思われ、既に見たような理由から、恐らく日付か時間、どちらかを取り違えている可能性が高いと思われます。
ポール・レイノー。ダラディエ内閣が第二次大戦開始直後の不手際の責任を取って総辞職した跡を継ぎ、1940年3月、電撃戦直前に貧乏くじを引く形で首相に就任させられた人。この時、ダラディエは最重要役職である国防相として入閣しています。レイノーはダラディエ内閣で財務、外務、陸軍大臣を務めていたため、元上司が戦争中の国防相という、これ以上やりにくい状況は無いだろう、という首相でした。実際、レイノーは電撃戦直前の段階でガムランの更迭を望んでいたのですが、ダラディエの反対で失敗しています。
そもそも15日朝の段階ではまだ第21軍団の反攻作戦が有効と考えられており、第9軍と第6軍による反撃も可能とフランス軍司令部は考えていました。軍の上層部ですらこの状況なので、5月15日の朝の段階でフランスの敗北を確信していた人物がフランス政府内には居たとは考え難く、おそらくチャーチルが電話を受けたのは15日の深夜か16日の朝だったハズです。なので個人的にはフランス政府がその敗北を覚悟したのは16日になってからだと考えております。
ちなみにフランス軍北東方面司令部に勤務していた人物が戦後に出した回顧録の中で、14日の朝、セダンでマース川を渡河されたと報告を受けたジョルジュ将軍がショックで涙を流し、フランスは負けたと言い出した、と述べている記述が出て来ます。ただしこれも怪しく、14日の朝の段階だとまだまだフランス軍は必要以上に自信満々で、第10軍の反撃だけでなんとかなる、と思っていたはずです。
いずれにせよ、15日の日没の段階でフランスの、そして連合軍の敗北は決定的となりました。その主力は海と高地に挟まれて逃げ場の無い平野部でドイツB軍集団に拘束されており、その退路を塞いで挟撃すべく無敵ドイツ装甲部隊が無人の野と言っていい一帯で北上を開始したのです。このため、ここからの戦いは連合軍の主力が完全に包囲殲滅される前にいかに脱出させるか、に移って行きます。
そして連合軍主力部隊の崩壊を持って事実上、対フランス戦は集結します。以後も一月近く戦争は続きますが、兵力の無い国家など何の意味も無く抵抗らしい抵抗も無いまま、フランス全土はあっと言う間に蹂躙されてしまうのです。戦争の目的は敵戦力の殲滅であり、それが出来れば後は何でもやり放題、という訳ですね。
といった感じで、今回はここまで。
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