■セダン攻防戦の総括

電撃戦の行方を決定づけたのが、ここまで見て来たセダンの攻防戦だったと言っていいでしょう。戦わずして勝つという理想的な戦いをグーデリアン率いる第19装甲軍団が次々に展開した攻防戦でもありました。13日夕刻のマーズ川渡河から始まり、16日夜に第10装甲師団がストンヌを去るまで、その展開を再度確認して置きましょう。

 5月13日   
 夕刻よりグデーリアン率いる第19装甲軍団がセダン周辺でマース川渡河を開始。
 深夜までに同軍団の三師団と大ドイツ歩兵連隊は渡河に成功。
 河岸部に展開したフランス第2軍 第10軍団の第55師団は頑強に抵抗したが、
 背後に展開していた同師団の砲兵、予備戦力はパニックから戦わずして潰走。
 東隣に展開してた第71師団もこれを見て戦わずして潰走。
 (ただし第71師団主力の撤退に取り残された部隊が翌日ドイツ第10装甲師団相手に奮戦)

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 前日12日、フランス軍は機甲部隊を主力とする予備戦力を第21軍団に編入、
 これを第2軍に配属した上でセダン周辺までの進出を命じていた。

 同軍団は13日を通じ緩慢な移動中。
 5月14日   
 フランス第2軍予備戦力を現地の第10軍団に編入、朝から反撃作戦を開始。
 ただし半数近い戦力が作戦開始に間に合わず戦わずして潰走。
 戦闘に参加した部隊も午前中までには押し返され潰走。

 14時の段階でグデーリアンは第1、第2装甲師団を西の海岸線に向けて転進させ、
 21時ごろの日没時までにはセダンの一帯から離脱する。
 第10師団は現地に残され南部の要衝ストンヌに向かう。

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 朝6時ごろからフランス第21軍団の各部隊がセダン南部地区に到着し始めるが、
 その行動は極めて緩慢で最終的に戦闘準備が整ったのは17時30分だった。
 その間の混乱から第21軍団指揮官のフラヴィニー将軍は作戦を中止、
 さらに全部隊を防御態勢に入れて一帯に分散配置してしまう。

 フラヴィニーの作戦中止を知ったフランス北東方面司令部が介入、
 何としても反攻作戦を続行せよと命じる。
 
 5月15日
 朝からストンヌに対して第10装甲師団と大ドイツ歩兵連隊が攻撃を開始。
 以後、夕刻までに何度も両軍が入れ替わり同地を支配する激戦となる。

 8時30分 フラヴィニーは再度、攻撃命令を知らされ、分散してしまった部隊を再召集、
 ただし無線機を満足に持たない部隊が多く、最終的に準備が整ったのは18時30分。
 この間、ストンヌに居た戦車部隊まで呼び戻してしまったため、
 17時頃に、同地をドイツ軍が奪回。
 
 ストンヌが再度奪還されたとの報を受けたフラヴィニーは再度作戦中止を決断
 その戦力をストンヌに向ける。この決断が謎だらけなのは前回見た通り。

 以上、最大の戦力を結集したフランス第21軍団はまともな反撃を行わないまま、
 ストンヌ戦で一定の善戦を見せた後、消滅してしまう。
 5月16日  
 投入された戦力により朝の段位でフランス軍がストンヌを奪還
 夕刻までこれを維持するが再度ドイツに奪われる。

 第10装甲師団、ドイツ第6軍に任務を引継ぎ現地を離脱。
 大ドイツ歩兵連隊は多大な損失により一時的に予備部隊へ。


こうして見ると、とにかく戦わずに消えてしまった部隊の多さに改めて驚かされます。結局、まともに戦ったのはマース川沿岸部に居た第55歩兵師団の主力、取り残されてしまった第71師団の一部、第10軍団の半分、そしてストンヌに居た部隊のみです。数の上では全戦力の半分以下でしょう。

フランス軍のヘタレぶりが目立つのも事実ですが、これこそが高速機動戦、高速OODAループ戦の本当の恐ろしさでもあります。圧倒的に高速な「テンポ」で相手のOODAループを麻痺させ、何もさせないままに蹂躙してしまうのです。戦闘の究極系である「戦わずして勝つ」、すなわち孫子の理想がここにある、と言っていいでしょう。実際、ドイツ軍の高速進撃からパニックとなり、砂漠の水のように消えてしまった部隊はセダン一帯だけではなく、フランス軍全体で数多く見られました。その辺りをを少し詳しく見て置きましょう。

とにかく消えるフランス軍 軍単位で無意味だった第6軍

セダンにおける第2軍のグダグダだけでなく、フランス軍は全体に置いて美しいまでにグダグダでヘタレでした。主にジョルジュ将軍率いるフランス軍北東方面司令部の優柔不断さによるものですが、その上に位置するガムラン将軍率いる総司令部も結局、何ら有意な対策を打ち出せてません。単純に無能だからという部分が大きいのも事実ですが、やはりドイツの高速集団OODAループ戦、無数のOODAループが戦場で同時並行回転する戦いの「テンポ」に全くついて行けなかった、という面が大きかったと思います。

それでもフランス軍はグデーリアン軍団の渡河成功が明白になりつつあった14日朝の段階で、いくつかの対策を取ってはいました。既に見た将軍のフラヴィニー将軍率いる第21軍団に次いで、予備戦力として総司令部の手元に置いてあった部隊を搔き集め第6軍として編成したのです。北東方面司令部のジョルジュ将軍はこれを急ぎセダン一帯を守っていた第2軍と、その西隣の第9軍の間に増援として送り込むことを決定します。地図で見るとこんな感じですね。



ただし21世紀に生きる軍事の素人の筆者から見てもこの決定は問題だらけでした。ざっと考えただけでも

■既に戦闘中にある地区に軍単位(通常は数個師団で万単位の兵員がある)の部隊を割り込ませるのは無理がある。現地部隊は戦闘中で配置換えどころでは無いし、後から来た第6軍の各師団はまともな準備期間も無く戦闘に巻き込まれる事になる。

■フランス第9軍は戦闘準備を開始し、兵を戦闘配置につけつつあった。ここに第6軍が配置されると指揮系統の整理から全てやり直しとなる。その配置代えの最中を襲われたら一方的に殲滅させられるし、その間に出来るであろう兵力の空白地帯を突破される可能性も高い。そして実際、そうなった。

■そもそも第6軍は書類上だけの軍で兵力は無いに等しかった(前回見た第21軍団と同じ)。予備戦力の師団を編入した急造軍であり、指揮系統もグダグダだった。その指揮系統の混乱を考えるなら、軍団単位の編成として第9軍の配下に入れるべきだっただろう(その主力は僅か3個師団で軍団に近い)。わざわざ新しい軍を編成して送り込む意味は無いに等しい。実際、指揮系統の誤ゴタゴタから、まともに展開する前にグデーリアンは西に走り去ってしまった。さらにラインハルト率いる第41装甲軍団による奇襲を食らう事にもなってしまう(詳細は後述)。

この辺りを見るにジョルジュ将軍は未だ第一次世界大戦の時間感覚、すなわち低速戦のテンポで戦争を捕らえており、ドイツ軍はセダンの橋頭保から数日賭けてジワジワと進出して来ると考えていた可能性が高いと思われます。ところが圧倒的な高速OODAループをブン回して進撃するグデーリアン軍団はそんな呑気な相手ではなく、結果的にこの第6軍の割り込みは何の役にも立たないどころか、フランス軍に要らぬ混乱を引き起こすだけで終わります。全く新しい高速戦争をやっていたグデーリアンと未だ第一次大戦の塹壕戦の中に居たジョルジュ将軍の絶望的なまでの「テンポ」差がこの結果を産んだと言っていいでしょう。

ちなみに第6軍に配属された主力部隊は以下の三個師団でした。

〇第2装甲師団
〇第14歩兵師団
〇第36歩兵師団

これにベルギーから撤収して来た兵力の一部、さらに第9軍の管轄から第41軍団が加わります。この内、第2装甲師団と第14歩兵師団は精鋭と言っていい部隊で、本来ならこれらによってドイツ軍を一定期間、足止めは出来たはずでした。ですが実際は第14歩兵師団の一部が15日に始まったブーヴェルモン(Bouvellemont)防衛戦(次回、後述)に参加しただけで、後はほとんど何もしないままで終わります。ブーヴェルモン周辺の攻防戦は電撃戦の中では激しいものの一つでしたが、最大の活躍を見せたのは第9軍に属する第3モロッコ騎兵旅団でしたし、翌16日の午前中にはドイツ第1装甲師団による突破を許してしまうため、第14歩兵師団がどの程度の活躍を見せたかは微妙です。

残る戦力の内、第36師団とベルギーから撤収してて来た部隊は、どこで何をやっていたのかよく判らず、そして精鋭中の精鋭だったはずの第2装甲師団は、司令部からの命令の迷走によって戦わずして蒸発してしまいます。すなわちこの軍団の半分以上もまた戦わず消えてしまうのです(ただし第14師団のみは以後も善戦しフランス軍の象徴的な存在になって行く)。次にこの点をちょっと詳しく見て置きましょう。


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