■とにかく消えるフランス軍 第2装甲師団

戦わずして消えたフランス軍で最大の存在だったのが、第6軍に配属となった予備戦力、虎の子の機甲部隊である第2装甲師団でした。

セダンに投入された第3装甲師団もほぼ戦わずしての消滅ですが、こちらは戦場には到着してましたし、無意味だったとは言え、ストンヌの死闘で一部が一定の活躍をしています。対して第2装甲師団は本当に何もしないまま、戦場に登場する事も無く忽然と消えてしまいます。

それはドイツ側のあまりの高速展開に追いつけなかったフランス軍司令部の混乱が引き起こした悲劇でした。これも高速OODAループの犠牲者だったと言っていいでしょう。パニックとなったフランス軍上層部が同師団に対する命令を朝令暮改で変更しまくり、100km前後の移動を繰り返し命じ、その混乱から同師団はバラバラになってしまいました。そこにマース川を渡河した後、グデーリアン軍団を越える快進撃に入ったラインハルト率いる第41装甲軍団が突然突入して来て、あっという間に壊滅させられてしまいます。一部の戦車は移動用の貨車の上にある状態で、まともな戦闘にならないまま第2装甲師団は壊滅してしまうのです。この辺りの事情を地図で見るとこんな感じですね。



ジョルジュ将軍率いるフランス軍北東方面司令部は当初、同師団を北部平野で戦う連合軍主力部隊の予備として配備するつもりでした。このため同師団は開戦翌日5月11日、フランス軍第1軍の背後に位置するドゥナン(Denain)への移動を命じられています。ところが12日に入ってグデーリアン軍団がセダンでマース川渡河を計画しているようだと気がついたジョルジュ将軍は第9軍の配下に入るよう命令を変更、シニー ラヴィ(Signy-l'Abbaye)までの移動を命じます。

ところが同師団は既に戦車部隊を列車輸送で北のドゥナンに送り出してしまった後でした。このため直線距離で100qもあるシニー ラヴィまで再度移動の手配をする事になります。この時、戦車部隊以外のバイクや燃料補給車などの補助車両部隊は自走で移動していたため、こちらは最初からシニー ラヴィに向けて移動を開始します。すなわち部隊は完全に二分されてしまっていました。

その状態でようやくシニー ラヴィに部隊が集結しつつあったのが14日ごろだったと思われます。ただし戦車部隊と他部隊は完全に別移動、しかもご存じのようにフランス軍はまともな無線機装備を持っていなかったので、師団司令部は配下の部隊がどこに居るのかを確認するだけで大混乱となりました。東西80km、南北60qに渡って部隊は分散していたとされ、無線機も無しにこれを集めるのはほぼ不可能に近い作業でした。実際、一部の部隊は最後まで行方不明だったとされます。さらにフランス第6軍が一帯に配置される事が14日に決定され、同師団は急遽、その指揮下に入るように命じられます。

この段階でグデーリアン軍団が西に向けて快進撃を開始した事を知ったジョルジュ将軍は同師団にソーマ・ルーアーズ運河(Canal de la Sambre à l'Oise) の線まで急ぎ退避するように命じます。これはシニー ラヴィから約70q北西の位置でした。先に見たようにセダンに向かった第3装甲師団が80qの移動に38時間掛かった事を考えると、かなり無茶な命令だと思っていいでしょう。

この指令を受けた同師団司令部は大混乱になるのですが、そのゴタゴタの最中、15日の夕刻に突如としてラインハルト率いるドイツ第41装甲軍団の第6装甲師団が続々と突入して来てパニック状態になってしまいます。グーデリアン軍団の動きに気を取られていて、こちらの動きに全く注意していなかったのです。後で詳しく見ますが、15日の午後の段階から第6装甲師団は快進撃状態に入っていました。フランス軍がセダン周辺のグデーリアン軍団に気を取られ一帯は兵力の真空地帯になっていたからです。このためドイツ第6装甲師団の先行部隊はこの日の午後、僅か5時間で55qもの距離を一気に突破していました。

それに続いた同師団の主力は南部に展開していたフランス第2装甲師団の補給部隊を襲撃、走り去って行きます。これによってもはや燃料補給は不可能となったのですが、不幸はこれでは終わりませんでした。さらに翌16日にはラインハルト率いる第41装甲軍団のもう一つの装甲師団、第8装甲師団が一帯に突入、今度は北部に居た同師団の戦車部隊を襲います。燃料もなしではまともな戦闘にはならず、ほとんど一方的に蹂躙される形で同師団は壊滅、以後、一切記録に登場しなくなってしまうのです。こうして5月16日までにフランス軍の虎の子だった第2装甲師団は全く戦う事も無く戦場から消えてしまいました。さらに言えば、ドイツ側は同装甲師団を粉砕したことにすら気がついてなかった可能性があり、筆者が確認できた範囲ではドイツ側がフランス第2装甲師団との戦闘に触れている記録は見つけられませんでした(ただし既に述べたように多くの記録は失われているので、存在した可能性は否定しない)。

とにかく消えるフランス軍 第53歩兵師団の悲劇

同様に悲惨な目に会った師団として、フランス軍第53歩兵師団があります。セダンの西隣、アルデンヌ運河から西側を守っていた第9軍の予備部隊として温存されていたのがこの第53歩兵師団でした。この師団に対する命令は以下のように迷走し、その結果、同師団もまた戦わずして消滅してしまう事になります。

■グデーリアン軍団がマース川渡河を開始した13日夕刻、マース川河岸まで北上し、第2軍との担当地区境界線の位置、すなわち第9軍管轄地区の最右翼、東端部を守るよう命じられる。

■13日22時、さらに東に進み第2軍との境界線を越え、アルデンヌ運河まで進出、防衛戦を敷くように命じられる。
(本来なら完全な越権行為で、なぜ軍司令部がこんな命令を出したのか判らない。パニックによるものか)

■日付が14日に変わった後、やはりマース川河岸の位置に戻れ、と命じられる。

■14日夜明け前に、やはりアルデンヌ運河まで進出せよ、と再度命じられる
(この段階だと先に見た第6軍の割り込みのため第2軍の管轄内まで進んで場所を空けさせようとした可能性あり)

わずか12時間足らずの間に次々と変更される移動命令から師団司令部は大混乱となり、師団配下の各部隊は完全にバラバラな状態で一帯に散らばってしまい、そんな状態の中、15日にドイツ第2装甲師団がこれを襲撃、瞬殺されて終わります(実際に戦闘に参加したのは師団の一部のみだと思われる)。

以上、フランス軍が戦闘よりも自軍の指揮系統の混乱からどれだけ損失を出したか、というのがお判り頂けたかと思います。それらはほぼ全て、ドイツ側の高速OODAループ、脅威の「テンポ」で展開される戦闘が引き起こしたパニックが引き金になっているのです。これが電撃戦、高速OODAループの戦いの真髄であり、孫子の理想をドイツ人が完成させてしまった戦いでもありました。

という感じで今回はここまで。
 


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