■破壊と創造から始まる世界
OODAループの理論的な説明が終わったので、ボイドの戦闘理論の大黒柱、OODAループが生み出される母体となった「破壊と創造(DESTRUCTION
AND
CREATION)」のレポートについて少し触れて置きたいと思います。1976年9月にボイドと親しい人間だけに配られたこれは、非常に難解なものでした。前回も触れたように今ではネットで原文を読めますから興味のある人は御覧ください。
関数の微積分から始まり、数学の理論体系に永遠の疑問符を焼き付けたゲーテルの不完全性定理、熱力学の第二法測などが登場してくるのがこのレポートです。が、実際は人間心理の話であり、正直、なんでそんな話を引っ張り出す必要があるんだろうという胡散臭い印象もぬぐえません。
ただしボイドは自分の無知を隠蔽し、知的に飾り立てるために意味もなく難しそうな用語を並べた文章を書く人ではないので、そういった目的では無いのは確かです。それでも残念ながら第三者の視点から見るといろいろ厳しいものがあります。
この辺りはフロイトやユングがどれほど精密に人間心理を分析したと主張しても、それを数値化して定量的に追試することはできない以上、精神分析学が宗教の夢占いと実質同じなのと同じような印象を受けます(心理学もそうだが)。むしろ、これはエセ科学なんじゃないの、とすら思えます。
同時に、この点は近代経済学の始祖、マルクスの経済学を連想させる部分でもあります。
俺のやってるのは科学なんだよ、だからほら、こんなに科学的な数式とかバンバン入れちゃうよ、とやっていたマルクスによく似た印象を受けるのがこの「破壊と創造」のレポートでもあり、そういった意味でもまたハッタリぽく、そしてやはり胡散臭いのです(進化を宗教から科学に生まれ変わらせた同時代人のダーウィンに、俺たちが新しい科学を生み出すんだよ、俺たちは新時代の仲間だよ、とマルクスは手紙を出したが完全に無視されたらしい)。
ただし、そういった欠点にも関わらずマルクスが経済学の基本的な着想の多くを見出していたように(それでも未だに経済学は未来予測ができないという点で科学の手前で留まっているが)、このボイドの「破壊と創造」もその主張する所は大変興味深いものがあるのです。ただし、そのままでは訳が分からないと思うので、ここでは筆者なりの解釈を加えながら解説してゆきます。
■概念化
「破壊と創造」においてボイドが明らかにしようとしたのは、本来、人間の集団における闘争原理だったのですが、途中から「人間はいかにして外界の情報を自分のものとして取り込むのか」「その既存の存在からどうやって新しい存在を生み出すのか」という点にどんどん論点がズレてゆきます(笑)。その理論の入り口として、彼が見出したのが「概念化(CREATING
CONCEPTS)」でした。
人間は「概念化」によって初めて世界を理解できる、というものです。
ここで言う「概念化」とは対象を認識するために「名称」と「定義」を与える事です。例えば欧米から予備知識もなく初めて日本に来た人が次の光景を最初に見た場合、全く理解できないででょう。
これを理解して自分の中に取り込むためには、まず「名称」を確認し、それからどういったものなのかという「定義」を調べる事になります。
すなわち、この名称は「鳥居」であり「日本の宗教、神道の施設、神社の門」である、という定義が判れば「概念化」は終わりです。以後、この「名称」と「定義」の二つを知っていれば、見た瞬間に「ああ神社の鳥居だ」と認識される事になります。これが「概念化」です。
そして人間が世界を理解するために行う「概念化」の対象はこういった物体だけではありません。
まず「行動」の概念化があります。人間が行う「歩く」「走る」「食べる」といった行動は具体的な形を持ちませんが、これらを「概念化」して理解しないと日常生活は成り立ちません。よって形のないこれらも「概念」として精神の中に取り込まれて初めて理解できるのです。
さらに「概念化」は現実世界への対応だけでは無く精神面、人間の内面に対しても行われます。
「このドキドキは…これが…恋…」というようなラブコメ王道の「概念化」は日本文化に不可欠のものですし、同じドキドキでもゴキブリを見たときのモノは「戦慄」であるとキチンと別の「概念化」して置かないと、以後の人生がエライことに成りかねません。
こうして「名称」と「定義」を与える「概念化」は、人間がこの世に生まれて生き続ける中で、常に行い続けるものとなります。
あれは「ドア」で「部屋に出入りするもの」、あれは「電池」で「リモコンとかを動かすもので食べちゃダメ」といった感じにあらゆるものを「概念化」し取り込む事で自分がいる世界に適応してゆきます。人間の成長過程は「概念化」の過程であるとも言えるのです。
逆に概念化されてないものは、人間には理解できません。
例えば日本語にあって英語にはない概念の「恋」。以前、これをオーストラリア人に「好きな異性に対する感情」と説明したら、「sexual
desire」、すなわち性欲と何が違うのだ、と聞かれて非常に困りました。
もう一つ重要な点として、こうした概念化における「名称」と「定義」は他の人と共通のものでなくてはいけません。
「ドアを開けて」という何気ない会話でも両者が正しく「ドア」と「開ける」を概念化してるから成立するのであり、どちらかが「ドア」とは自爆装置と書かれたボタンの事で「開けて」はそれを押す事、と間違った「概念化」をしていたら、これまたエライ事になるわけです。
ここまでが「概念化」の基本となります。以上を踏まえた上で、ボイドが見出した「破壊と創造」の展開を見てゆきましょう。
■破壊と創造とフランク・シナトラとアイドル
「概念化」から、ボイドが最初に気が付いたのは「概念」は分解、再構築できるという点でした。
例えば「概念」自体が「名称」と「定義」から成り立っている以上、必ずこの二つに分解できます。その過程は可逆的で、「概念」を破壊して「名称」と「定義」を得ることも出来れば、「名称」と「定義」を合体させて、「概念」を創造する事もできるのです。
この辺りを少し詳しく説明するために、英語圏に置けるアイドル(idol)の「概念」について見て置きましょう。アイドルは直訳すると「偶像崇拝宗教の神像」ですが、やがて若くて人気の歌手を指す概念になってしまいました。この変化がどうして起こったのか、はボイドの言う「破壊と創造」の過程の良い実例になっています。よってこの点を見て置きましょう。
仏教圏の仏像、あるいは中華圏の道教廟やインドのヒンズー教寺院に見られる神像などを英語ではidol、偶像と呼びます。
偶像の偶の字は人型をまねたもの、の意味ですが英語のidol
もそれに近い意味を持ちます。この点、唯一絶対神しか認めないキリスト教とイスラム教では、恐れ多くも神を人型にすんなや、と神様自らが人に命じたことになっており、こういった偶像化を厳しく制限しています。キリスト教がキリスト像ではなく十字架をシンボルとするのはこのためです。
そして選民意識の強いユダヤ教をルーツとするキリスト教、同じくイスラム教では宗教的な寛容性がほぼゼロなので、こういった偶像崇拝の宗教を一段低く見る傾向があり、場合によっては敵対視に近いものもありました。
まあ、正教とか一部のカソリックとかはその十字架にジーザース本人を貼り付けちゃったり、イコンを作ったりして事実上の偶像崇拝になっちゃってるんですが、これは本来の姿ではないのです。そしてアメリカの支配者階級は潔癖性の塊のキリスト教徒、清教徒の流れをくむのを誇りとしてましたから、当然、彼らがアイドル(idol)と言うとき、侮蔑的な意味が常に潜んでいました。
さて、以上の前提の下に1940年代アメリカにおけるメディア革命が置きます。ラジオとレコードプレイヤーの普及がそれです。
この新しい時代の波に乗って新たな人気歌手が登場します。それがフランク・シナトラを筆頭とする新人たちで、彼らの歌はラジオで繰り返し流され、レコードは飛ぶように売れ、コンサート会場には信者と言っていいレベルの若い女性が殺到しました。
そして時代の常として、分別のある年齢になっていた大人たちはこれを好意的には見てませんでした。その結果、この新しい世代の歌手を皮肉をこめて呼ぶ呼称が必要になってきます。
当然、彼らが愛してやまない古き良き映画の人気者の「名称」、スターをそれに当てはめる気にはなりません。そこで出てきたのが「アイドル(idol)」だったのですが、これは以下のような「破壊と創造」の過程を経たモノでした。
ここでカギとなったのは「崇拝」という共通点であり、そしてこの「破壊と創造」を行った人物は明らかに両者を好意的に見ていないという点でした。
最初に、そういった面で共通点を持った「アイドル(idol)」と「シナトラ世代の人気歌手」の二つの概念を破壊(分離)してしまいます。
この「名前」と「定義」がバラバラにされた集団をボイドは「混沌の海(Sea
of
anarchy)」と呼んでいました。生命の源となった母なる海に引っかけた命名かもしれません。
その海の中から必要な要素だけを取り上げて全く新しい概念を創造(再構築)することができる、というのがボイドの主張であり、今回の場合は新しい「概念」としての若者の「アイドル」が登場することになったのでした。
ここで重要なのは破壊された要素の中から必要なものだけを選び取り、後は捨ててしまっている点です。二つの概念を破壊、あらたな創造に結びつけても、また二つになるとは限らないのです。むしろ通常の「破壊と創造」では、複数の対象を分離しながら、一つだけ新しいモノが生まれて来るのが普通です。
ついでに概念は常に進化するので、後に若い女性だけで無く男性も加わり、場合によっては若いという条件すら無くなります。
この辺りが、ボイドの言う「破壊と創造」の基本的な考え方となるわけです。
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