■破壊と創造の応用

ボイドの見出した「破壊と創造」で生み出せるものは概念だけに限りません。
既存の物体を破壊(分解)し、そこから創造(再構築)する事も可能であり、ボイドが好んで例に出したのがスノーモービルでした。



言うまでも無くスノーモービルは一人、あるいは二人で乗るための雪上機関です。
雪に閉ざされてしまう地域では必需品ですが、これがいくつかの既存のモノを分解、そして再構築された「新しいモノだ」というのがボイドの主張です。

まずは雪に閉ざされる一帯で使われる移動機関、犬ぞり、雪上車を持ってきます。が、どちらも維持費が高く、運用にも手がかかります。冬場に気軽に一人か二人で出かけるのに適したものではありません。では、そこに気軽に移動できる機関としてオートバイを持ち込み、これら全てを部品単位に分解してしまいましょう。そしてそこから必要な部品だけを拾いだすのです。図にするとこうですね。



このように既存のモノを分解して新しいモノを生み出す、というのは予想外のヒット商品を生むことも多く、古くは小型カセットテーププレイヤーと高性能ヘッドフォンを合体させたウォークマンがそうですし、PDA(携帯情報端末)とデジタル携帯電話を合体させたスマートフォンなども同じ系列にあります。

意外とこれが多いのが飲食品で、クリームソーダ、アボガドの寿司、納豆スパゲッティ、てんむす、など、最初にやった人はノーベル食品賞であろう、というものがずらりと並びます。皆さんも自分の得意なレシピを上の図のように分解し、そこから新たな組み立てを考えられれば、明日の夕食は必要以上に素敵になるかもしれません。

そしてさらに意外な応用先があります。それが虚構作品、フィクションの世界です。

■虚構の分解と再構築

小説、漫画、映画、テレビドラマなどの虚構作品における「破壊と創造」とは何か、という点をここから見てゆきましょう。これは既にある作品から新たな作品を生み出す過程、と思ってください。ここでは理解しやすいように、ある程度具体的な作品名を上げて解説しますが、以下はあくまで個人の推測の範疇を超えるものではない、という点を予め断っておきます。

まず最初の例として西暦1973年に、新しいテレビアニメを造る事になった場合を考えます。
そこで誰もが知っている中国の古典「西遊記」、そして当時第2、第3シーズンが「宇宙大作戦」の名前で日本で放送中だった「スタートレック」を題材にしましょう。日本ではそこまで人気が出なかった「スタートレック」を選んだのは、当時のアニメ業界が海外への輸出を狙っており、アメリカで受けるという点を考慮した結果かもしれません。 さらに隠し味に1963年の特撮映画、一部で根強いファンを持つ「海底軍艦」も用意します。

では、これらの題材を破壊(分解)し、創造(再構築)するとどうなるのか、やってみましょう。



ですね。

西遊記を物語の土台にしたのは当時の関係者が最初から認めてますが、他の二つもほぼ間違いないでしょう。子供心になんで戦艦大和なの、と思ったもんですが、アメリカが空母のエンタープライズならこっちは戦艦で大和ですよね、と 今になってはよく理解できまする。ちなみに細かい事を言えば、スタートレックのワープと宇宙戦艦ヤマトのワープは別の原理によるんですが、やってることは変わらないので気にしなくていいです。

余談ですがイスカンダル(アレクサンダー)は西から天竺(インド)に向かった偉人、三蔵法師は東から天竺に向かった偉人です。まあ、両者の目的はまるで別ですが…

ついでにガミラスのドリルミサイルも、子供心にデスラー馬鹿なの、と思いましたが、あれ、海底軍艦へのオマージュだったんじゃないかなあ、と今では考えております。

ちなみに、分解するのは別に他人の作品で無くても良く、自分の過去の作品と、昔好きだった小説や映画を分解、再構築するというのもよく見られる手法です。具体的にはこんな感じ。



画面構成、演出では黒沢明監督から強い影響を受けている宮崎駿監督ですが、物語的には高畑監督と並び、ジョン・フォードの古き良きアメリカ映画からの影響が強く感じられます。ラピュタに登場する舞台、ウェールズ風の炭鉱の元ネタはほぼ「わが谷は緑なりき」でしょう。

余談ですが、原作ではあっさり歩いちゃうクララが、高畑監督&宮崎さんの「アルプスの少女ハイジ」では、ハイジたちによる特訓が行われた末にようやく歩くように変更されています。この辺りも微妙に「我が谷は緑なりき」の主人公のエピソードの影響じゃないかな、と個人的には思ってます。

そこにキャラクターとして宮崎監督のデビュー作、TVアニメ「未来少年コナン」から主人公とヒロインを連れてきます。おそらく何かやり残した感があったうえでの決断なのだと思われますが、詳細は判りませぬ。ついでにTV版第二期のルパン三世最終回から、ロボット兵を持ってきてますが、こちらはそこまで深い意味はなさそうに見えます。

最後に物語は、戦前戦後期の日本の冒険小説、あるいはフランスの虚構スキーである宮崎監督らしいジュール・ヴェルヌの冒険物語あたりから…と見せかけて、ところがドンスコイ、司馬遼太郎司作品から持ってきてしまうのが凄いところかもしれませぬ。

このように舞台、キャラクター、物語をそれぞれ別の虚構から持ってくる、というバランスの良さも大したものだと思います。

さらにここに砂漠の魔王(1949年から福島鉄次が連載開始した絵物語。飛行石などの小道具の元ネタ)、雪の女王(1957年制作のソ連のアニメ。両手拳銃のお婆ちゃんが登場)、ガリバー旅行記(ラピュタの名を借りただけ)、などが濁流のように集まって「天空の城 ラピュタ」となるわけです。まあ、明らかに最初の狙い、新たな冒険活劇を造る、からすると失敗作なんですけど、嫌いな作品ではありません(カリオストロの城、風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、の初期三部作は全て最後にあったであろう大乱闘アクションがカットされてしまっている。カリオストロについてはスケジュールと予算の関係だが、後の二作は本人が破棄したように見える)。

ちなみに「風の武士」は「竜馬がゆく」「坂の上の雲」などしか読んでない司馬遼太郎さんファンには想像もつかないアクション巨編小説で、初期に忍術お色気小説をバリバリ書いていた、サラリーマン時代の司馬作品となります。1960年3月から約1年、週刊サンケイに連載し、後に講談社から単行本として発売されました。「竜馬がゆく」の連載開始は1962年夏ですから、その2年前の小説となります。

上の抜き書きでは省きましたが、オチはかつてローマに追われたユダヤ人の12氏族の一つが太古の日本に密かに辿り着き、安羅井国という隠里を築いていた、という話です。司馬さん本人も途中でどうでもよくなってしまったのか説明してませんが(笑)、安羅井国でおそらくイスラエル、または安羅井でべブライという事だったのではないかと。

ただしこれ、上のまとめは失礼ながら私がかなり読みやすくまとめさせてもらったので、なんか面白そうな感じになっていますが、実際はまとまりもなければ伏線もない、思い付きであっちに行くかと思えばこっちに来るグダグダな小説でした。どう贔屓目に見てもツマラナイ、というのが正直なところです。
が、その物語の材料だけ見れば、なんでこれがこんなにツマラナくなってしまうの、という惜しさだったわけです。宮崎さんでなくても、もったいないから作り直してみたいと思わせるものがありました。

余談ながら後の1992年、宮崎監督と司馬遼太郎さんは、堀田善衛さんを交えて対談を行っています。この時、司馬さんが「ラピュタ」を見ていれば、何か一言あったような気もするんですが、とりあえず触れられてませんから、紳士的に両者この話題を避けたのか、ホントに気が付いてなかったのか。まあ、それなら堀田さんからモスラと王蟲についても一言ありそうですが…。

ちなみに自分の作品を分解して、部品にしてしまう、という例は他にも多く見られます。石森章太郎さんの「仮面ライダー」における悪の組織による主人公の改造と博士の手引きによる脱走、以後は悪の組織から送り込まれる刺客と戦い続ける展開、これは自作の「サイボーグ009」そのまんまですね。

最後にもう一つ、とても判りやすいのだけど、見事にこの破壊と創造をやってのけた作品を紹介しておきます。



大友克洋さんのAKIRAですね。
これも過去の自分の作品が土台の一つになってますが、「童夢」はさらにシャイニング(小説版+途中から映画版)、エクソシスト、などが複雑怪奇にまじりあってます。ただし、私には分解しきれなかったので、ここでは紹介しません。

当然、分解材料として利用できるのは虚構だけには限らず、歴史上の有名な出来事、あるいは事件などを題材にしても構いません。横溝正史の「八つ墓村」が津山事件を下敷きにしているのが良い例でしょう。

ちなみに虚構の特徴として、ゼロから全く新しいものが生まれることはほとんどない、というのがあります。
意識的にしろ無意識的にしろ、ほぼ全ての作品が、この破壊と創造の過程から生まれるからです。すなわち吸血鬼伝説からドラキュラの物語が生まれ、ドラキュラから「地球最後の男」が生まれ、「地球最後の男」からロメロ監督の映画、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」と「ゾンビ」が生まれ、今や世界中の虚構はゾンビだらけになったわけです(「地球最後」の男は全人類が吸血鬼ウィルスに侵され吸血鬼化した世界で、ただ一人の人間となった主人公が戦い続ける小説。その手の虚構の元祖である)。

すなわちシェークスピアがどれほど天才でも16世紀後半の虚構の範疇を超えることはできず、ロミオとジュリエットがゾンビになってモンタギュー家に復讐する話は書けないのです。

ちなみにこの「破壊と創造」が虚構の世界以上に普通に行われてるのが音楽、作詞、作曲の世界なんですが、そっちは私はあまり詳しくないので、ここでは述べませぬ。

という感じに、いろいろな応用が利くのがボイドの見いだした「破壊と創造」でした。ここからさらに「分析と統合」に発展してゆくのですが、その辺りはまた後で。とりあえず今回はここまで。


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