ストンヌの死闘

今回は電撃戦中、最大規模の戦闘が繰り広げられ、ドイツ軍も少なからぬ出血を強いられたストンヌの戦闘について見てゆきます。

ただしストンヌで激戦が展開されたのは15日朝から17日にかけて、すなわちグーデリアン軍団こと第19装甲軍団の主力はとっくの昔に西に向けて走り去った後。さらに言うなら、それに加えてラインハルトの第41装甲軍団、そしてロンメル将軍の第7装甲師団も既にマース川とフランス国境を突破、連合軍主力包囲網を締め上げるために英仏海峡に向けて全力疾走中の段階でした。すなわちここでフランスが勝利を収めても何の意味も無く、その善戦は完全に無意味でした。

とりあえずフランス側は頑強に抵抗し、このため後から来て戦闘を引き継いだドイツ第12軍の部隊は18日の段階で一帯を迂回して南下する事を決定しています。結局、その戦闘は以後も続き最終的に25日まで掛かってようやくフランス軍の抵抗は終わるのです。それでも戦争の行方には何の影響も無いままでした。フランス人的には見よ、フランス軍が本気になったらこんなに強いのだ、と解説され、現地には記念碑が建てられ、シャールB1 bis戦車が展示されていますが、完全に無意味な戦いだったという事実は動きませぬ。この点、戦術級の成功では、作戦、戦略級の失敗を取り繕う事は出来ない、といういい例かも知れません。そもそも作戦的、戦略的によほど重要な土地でない限り、陣地の占領、防御は敵兵力の破壊に比べ戦況への貢献度は低いのです(太平洋戦争で日本軍がどれだけ島を南洋の島を占領しても、ミッドウェイ海戦における戦力損失を補う事はできなかった)。

まずはストンヌの位置と、15日午後までの状況を以下の地図で確認して下さい。この段階でグーデリアン軍団の主力、第1、第2装甲師団は一帯を離脱、西に向けて快進撃中でした。対して現地に残された第10装甲師団と大ドイツ歩兵連隊が向かったのが、セダン一帯から約17q南に位置する小さな集落(当時は全部で12戸しか無かったとされる)ストンヌです。ここから南の一帯は高台となっており、ちょうどその高台の淵の上、崖上に位置する集落となります。そして高台に出た後、南と西(ルシェンヌ方面)に向かって進むが二本あり交通の要衝にもなっていました。

 

セダン方面のフランス軍拠点だった、ルシェンヌ(撤退した第55師団が司令部を置き、この段階では第21軍団司令部が置かれていた)を経由してランス、パリ方面に抜ける道を抑える要衝だったのがストンヌで、両軍ともに戦術上の要所として認識していました。実際、ドイツ側、グデーリアンは14日夜に発令した命令で大ドイツ歩兵連隊を第10装甲師団の配下に戻し、共にストンヌ一帯の高地を攻め落とせ、そしてそのまま一帯を守りぬけ、との指示しています。この結果、15日の朝から両部隊による攻勢が始まるのです。

ただしこのグデーリアンの指令はドイツ軍上層部の意向を無視したものでした。マース川渡河後のグデーリアン軍団の行動に関しては、12日にクライスト装甲集団のボス、クライストがグーデリアンを司令部に呼び出して話し合ったと言うか紛糾していたのを既に見ました。まず渡河地点を巡って両者の意見が食い違ったものの、結局グーデリアンが予定通りの地点で渡河、既成事実を突き付けて事後承諾としてしまいます。

同時に橋頭保の深さをどの程度にするかも両者の意見は対立しており、せいぜい8q、南のシェエリーまでを確保すればいいとするクライストに対し、グデーリアンはその倍以上の距離にあるストンヌまでの確保を主張しました。グデーリアンの主張は三装甲個師団+一個歩兵連隊が展開するには8qでは狭すぎる事、セダン周辺が敵の砲兵の射程内に置かれる事を嫌った事によりました(大口径野砲は20q前後の射程距離を持つが見えない先への照準は出来ないから地平線、だいたい6qの距離を置いてしまえばそれほど怖くない。ドイツ軍が航空優勢を抑えている以上、視界が効く空からの着弾観測も照準誘導も不可能だからだ。逆に言えば遠くまで見通せる高台にあるストンヌ周辺はセダン地区のドイツ軍にとって唯一かつ最大の脅威になる)。公平に見ればどう考えてもグデーリアンの意見が正しく、クライストがなぜこんな馬鹿な事を言いだしたのかよく判りません。この点、クライストは何かと自分に意見して来るグデーリアンを鬱陶しく感じて居た様子もあり、個人的な感情によるものじゃないか、という気もします。

結局、この点も両者は意見の一致を見ず、上官であるクライストの命により、グデーリアンは本来、シェエリーより南に対する進撃は禁じられていました。このため、14日にセダンの視察に来たさらに上位にあるボス、A軍集団の指揮官であるルントシュテットにさらなる南下をグデーリアンは直訴したようなのですが、最終的に指揮系統の混乱を嫌ったルントシュテットがクライストの命令を取り消す事を拒否、グデーリアンはその作戦の自由を奪われてしまったままでした。

どうするか?当然、命令なんざ無視して突き進むのです(笑)。結局、このスダン戦によって一帯のフランス軍をここに呼び寄せてしまうのに成功、砲兵の展開も阻止できたので結果オーライではあったのですが、同時に上官であるクライストとの対立が決定的になります。よって以後、両者の対立からグーデリアンの最大の敵はフランス軍よりもクライスト、という状態になって行くのです。このためこの15日、両者は作戦を巡って大激突するのですが、この点はまた後で見ましょう。

対するフランス軍もここをセダン方面への反攻拠点として認識していました。このためフランス第21軍団による最初の攻勢計画、14日の作戦では右翼側、東から北上して来たルコー集団がストンヌを攻勢開始点としたのです。ただし14日夕刻にフランス第21軍団のボス、フラヴィニー将軍が攻勢を中止、防御布陣に移行する事を決定後、集結していた部隊を広く分散させてしまっていましたが。

ここでよく判らないのは、フランス第21軍団長、フラヴィニー将軍の行動です。前回見たように15日に強制再開させられた攻勢作戦を18時15分に再度放棄するのですが、その理由がストンヌの防衛戦でした。ですが一帯の戦闘は12時間近く前から始まっていましたし、この日の昼前後から既に死闘と言っていい戦いになっていました。第21軍団が15日の再攻勢のために部隊を集結させていたル・モン=デュからストンヌまでは直線で約5q。ギリギリですが地平線のこちら側で、途中に大きな遮蔽物無いため、その激しい砲声はここでも聞こえていたはずです。さらに現地部隊からの報告も入っていたはずで、フラヴィニー将軍はこれを散々無視した後、18時15分になってから、突然その救援に向かう事を決したことになります。まあ凡将といっていい人物なので馬鹿だから、の一言で片づけていいのですが、とりあえず、この事実から以下のような推測が成立します。

■恐らくフラヴィニー将軍はストンヌからの砲声を聞いておらず、戦闘の開始、激化を現地からの報告のみで知っていたと思われる。すなわち攻勢拠点のル・モン=デュではなく、一日の大半を第21軍団司令部がある後方のルシェンヌに居た可能性が高い。グデーリアンなら間違ってもそんなマヌケな行動を取らず、真っ先に現地に入っただろう。

■ル・モン=デュからストンヌ周辺まで、直線距離なら5q前後だが、高地と低地が入り混じる地形のため、移動には倍近い距離が必要。すなわちストンヌへ救援に向かうには極めて不利な地形で、18時15分から行動しても日没までにその戦力を投入できる可能性は無に等しい。実際、それらが投入されるのは翌朝からとなった。すなわちこの段階で戦力を急いで振り向ける合理的な理由は無い。よってフラヴィニーは攻勢がいやで、その中止の言い訳としてだけストンヌを利用しただけの可能性が高い。

この辺りで、フラヴィニー将軍の無能ぶりがよく判るかと。では実際のストンヌに置ける戦闘の流れを見て行きましょう。


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