既に見たようにストンヌ一帯に集結していたフランス第21軍団のルコー集団は14日の夜までに分散されてしまっていました。ただし要衝ではあったので、以下の部隊が15日の朝の段階でストンヌ一帯に居たと思われます。

■フランス第3機械化歩兵師団 

第67歩兵連隊 第1大隊
第51歩兵連隊 第10&11中隊

■フランス第3装甲師団

第45戦車大隊 第1中隊(オチキスH-39装備)
第49戦車大隊 第3中隊(シャールB1 bis装備)

■第10軍団予備の生き残り(14日の戦闘には間に合ってない)

第4戦車大隊 第2中隊(FCM-36装備)

ざっとで歩兵1.5大隊、2/3個戦車大隊という感じの兵力です。ただし戦闘開始となった15日朝の段階で集落に入っていたのは第3機械化歩兵師団の部隊のみで、戦車部隊は集落の南側、半径1q前後の一帯に展開していたようです。以後、徐々に増援部隊も送られて来るのですが、日中はまだフラヴィニー将軍が反撃作戦のために部隊を集めていたため、本格的な援軍はやって来ませんでした。それでもフランス軍はかなりの抵抗を見せ、それまでの戦闘では見られなかった戦車部隊を巻き込んでの激戦となって行きます。



対してドイツ側は大ドイツ歩兵連隊の1個歩兵大隊+1個工兵中隊、これを援護する第10装甲師団の1個戦車大隊+1個歩兵大隊で15日早朝、攻撃を開始しました。当初投入された戦力はほぼ互角といった感ですが、当初、フランス側の戦車部隊は戦闘に間に合わなかったようです。

北から攻め込む場合、ストンヌの集落に至る遮蔽物の全く無い直線で600mの登り坂を通過する必要がありました。ドイツ側はここで上から撃たれまくり、7両の戦車を失うものの午前8時までにストンヌの集落を制圧してしまいます(歩兵部隊の多くは道路を通過せず、左右の森を徒歩で突破したと思われる)。ただし、わずか1時間後の9時、フランス軍が反撃に出て集落を奪回してしまいますが、例の地獄の600m道路周辺はドイツ側が死守しており、このため僅か30分後、9時30分の段階で再度ドイツ軍が集落の再占拠に成功するのです。

以後、昼の12時まで、場合によっては15分も経ずに占領軍が入れ替わるという状態が続き、両軍で3回ずつ、集落を奪取しあう死闘が続きます。この混戦が大きく動いたのは無敵の重戦車シャールB1 bisで編成された第49戦車大隊の第3中隊が本格的に戦闘に参加した後です。



■Photo:Federal Archives

当時の戦車としては驚異的な装甲で、まともに戦うには88oFlakを投入するしか無かったフランス戦車、シャールB1 bis。明確な史料が見つからなかったのですが、少なくとも15日の段階での戦闘に88oが投入された様子は無なく、このためドイツ軍は一時的に押されまくる事になります。

ドイツ側が3度目の占拠に成功した10時45分過ぎ、フランス側は一帯にあった3個戦車戦車中隊を集結させ一気に投入して来ます(本来は歩兵部隊との共闘だったが歩兵部隊の集結が遅れ、戦車部隊だけで攻勢に出た)。中でも第49戦車大隊の第3中隊が装備するシャールB1 bisは強力でした。この段階でストンヌの集落に居たのは大ドイツ歩兵連隊の第1大隊のみで、装備するのは例の貧弱な37o対戦車砲12門だけ。当然のごとく、シャール戦車には全く歯が立たず、大隊は壊滅の危機に追い込まれる事になります。対戦車砲部隊も次々に撃破されてしまうのですが、最後の最後の段階でシャール戦車が横に方向転換しました。この時、ドイツ砲兵は戦車の横にある冷却空気取り入れ用のスリット式パネルに気がつきます。上の写真で車体後部横に見えている部分です。スリット構造である以上、装甲は無いに等しいと判断した砲兵はここに37o対戦車砲を撃ち込むことでようやくこれを撃破する事に成功するのです(報告書では車体右となっているが、戦車兵が正面から見て右だろう。実際は車体の左側にのみある)。この発見によって一気に3両のシャール戦車をドイツ軍は撃破、これによってフランス戦車部隊は一度、撤収します。

ただしこの時、一帯には大ドイツ歩兵連隊の一個大隊しかおらず、この攻撃で損失を受けていたため、間もなく歩兵の支援を得たフランス軍によってストンヌは奪回されてしまいます。その後、しばらく小康状態が続きますが、何を考えているのかよく判らないフラヴィニー将軍がストンヌ周辺の戦車部隊もル・モン=デュの反攻開始地点に集結せよ、と呼び出してしまっため、フランス側の戦車はようやく奪取した一帯から撤退してしまいます。これを見たドイツ軍は17時30分ごろ、歩兵部隊しか残っていなかったストンヌを再度奪回してこの日は終わりとなるのです。ちなみにドイツ軍はこれによって4度、この地を奪回した事になります。ちなみにこの4度目の陥落を知ったフラヴィニー将軍は、再攻勢を中止、ストンヌ奪回を作戦目標に切り替えてしまうのです。今更なんで、というのと同時に、お前が戦車部隊を引き抜いた結果だろうが、という話であり、なんでフランス軍はこんな人物に重要な反攻作戦の指揮を執らせたのか理解に苦しむ部分です。

ちなみに「電撃戦という幻」によると、この日確認された戦車の損失はフランス側33両、ドイツ側20両でフランス側の方が上だったのですが、翌16日にあのドイツ戦車13両撃破事件が起きるので、最終的な損失はほぼ同数だったのではないかと思われます。

余談ながらこの日、午前中の段階でグデーリアンが第10軍団司令部の視察に訪れていました。それによるとあまりの激戦に大ドイツ歩兵連隊の司令部とまともに連絡すら取れなかったとの事なので(ストンヌのすぐ北に連隊司令部があった)、相当な激戦だったと思われます。ちなみにこの時、グデーリアンは反撃準備中のフランス第21軍団の直ぐ北を移動しているはずですが、その存在にすら気がついて居ません。そして第21軍団は既に見たように勝手に自滅してしまうため、グデーリアンの回顧録にはフランス側の抵抗はストンヌだけだったと書かれてしまう事になります。戦後になってもグデーリアンはその作戦の存在すら知らなかった可能性が高いです。

翌16日はフラヴィニー将軍率いる第21軍団の主力も参加するストンヌへの大攻勢が開始され、朝7時の段階でフランス軍がこれを奪回、夕刻17時ごろにドイツ軍が再度奪回するまで死守していました。この時の攻勢中、フランスでは未だに伝説級の話となっている戦闘が起きています。すなわちたった一両のシャールB1 bisがドイツ戦車13両、しかも第10装甲師団の虎の子といっていいIV(4)号とIII号両戦車を一気に撃破してしまったのです。ドイツ側の損失はIV号戦車2両、III号戦車11両。すなわち精鋭戦車部隊が一方的に壊滅させられた事になり、さらに2門の対戦車砲も撃破されてしまいました。ほとんどガンダムの辻斬りに会った不運なジオン軍部隊状態であり、ドイツ軍としては惨劇としか言いようが無い損失でした。

このように戦車の性能だけを見ればフランス軍、ストンヌどころかセダン一帯の戦闘でも一方的な優位に立てたはずなのです。それが出来なかったのはひとえに作戦のマズさ、指揮系統のお粗末さでした。それらのほとんどは作戦のテンポ、OODAループの回転速度の遅さに由来する、と言うのは既に指摘した通りです。



■Photo:Federal Archives

ストンヌで撃破されたドイツIV号戦車。奥に見えているのがストンヌの集落で、この手前、約100mの位置にヘアピンカーブがあり、その先が例の600m直線登り坂。有名な写真であり、「電撃戦と言う幻」の筆者フリーザー氏は、このIV号は先に見た13両切りされた中の一両では無いか、と述べてます。ただしその根拠は不明(撃破された位置的には確かにこの辺りではある)。ちなみに現在、この道路は1940年5月15日通りと名づけられてます。

こうして16日の戦闘が終わった後、追いついて来た第14自動車化歩兵軍団に戦闘を引き継ぐ形で第10装甲師団は現地を離脱、先行する第19装甲軍団の主力を追いかける事になりました。ただし共に戦った大ドイツ歩兵連隊はあまりに損失が大きく、一時的に予備部隊となってしまいます。そして既に見たようにストンヌでの戦闘は以後も続き、最終的にフラン軍が撤退したのは戦闘開始から十日以上経った25日になってからでした。まあ全て無意味だったんですけどね。そして、この第10装甲師団の離脱をもってグデーリアン軍団のセダンの戦いは終了する事になります。結果的には大勝利だったのですが、それがさらなる大勝利に繋がって行くのが超高速戦闘、電撃戦の恐ろしさなのです。

とりあえず、今回はここまでとします。


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