■登場!そして即退場!フランス軍 第21軍団の巻
今回はグデーリアン軍団がマース川渡河に成功して2日目、その進行方向が北西の連合軍主力の背後に向かっている事にフランス軍が気がつき、己の敗北を悟った5月15日の状況を見ていきましょう。ちなみに全てがキチンと動いていれば、この日フランス軍はそこまで絶望的な状況に追い込まれる事は無かったと断言できます。逆に言えばほぼ全てがキチンと動いておらず、悲劇的な結末を向かえる事になるのです。それにはさまざまな要因がありましたが、最終的には戦闘速度、ボイドの言う「テンポ」、すなわちOODAループの回転速度の差による問題にほぼ集約されます。そこに加えて自爆に近い「情報飽和」が発生し、フランス軍は戦わず崩壊する事になります。
まずは第2軍管轄地区にドイツ軍が進出して来た場合に備えたフランス軍の防衛計画を再度確認して置きましょう。ちなみに既に見たように14日午前中の時点で、第二段階までの計画は全て敗退に終わっています。
本来ならホップ、ステップ、ジャンプといった感じに徐々に高い反撃段階に進む予定だったわけですが、最後の反撃作戦開始前に既に大きくケチが付いていたのでした。
それでも第三段階の反攻作戦に用意された戦力はグーデリアン軍団こと第19装甲軍団の快進撃を止めるのに十分なものでした。さらに言うなら、これらの部隊が現地で配置に着いた時、グデーリアン軍団は西に向けて大旋回中であり、しかも主力の第1装甲師団は燃料と弾薬の補給に入ってました。神様と仏さまと世界中の猫が全力で与えてくれた好機だったと言っていいのですが、これをフランス軍は活かせませんでした。それどころかまともに戦闘する事もなくこの戦力は崩壊してしまいます。後にその一部がストンヌの死闘に投入され一定の活躍を見せますが、既に作戦的には無価値な土地での戦闘であり、ほぼ無意味でした。
フランス軍総司令部は虎の子の予備機甲戦力、第3装甲師団と第3機械化歩兵師団、そして第3戦車大隊に対しセダン方面への移動を命じた上で全てを第21軍団配下に置きます。この第21軍団はガムラン将軍率いる最高司令部直属の予備部隊でしたが、そもそも所属部隊は無いに等しいほぼ書類上だけの軍団でした。その指揮官のフラヴィニー将軍(Jean
Flavigny)はフランス軍内では機甲戦の専門家と見なされていたのが、これほどの機甲戦力部隊の指揮官に任命された理由かもしれません。ただし急造の軍団であり、指揮系統は混乱しがち、さらに言うなら後にボロクソに言われるフラヴィニー将軍の指揮能力の欠如もあってエライ事になるのです。ちなみに最終的にはベルギー国内から逃げ帰った二個師団、さらに前日にケチョンケチョンにされた第10軍団の残存部隊もその配下に入れられるのですが、これらもまた、ほぼ何の役にも立たず終わっています(そもそも本当に戦線に投入されたのかもはっきりしない)。数の上では結構な戦力だったんですけどね。
■第21軍団の始動
この第21軍団の指揮権を現地の第2軍司令部に移譲して、最終反撃作戦は開始となるのですが、あまりに多くの部隊が臨時に配属されたため、詳細はよく判らなくなってしまっています。ただしその主力となる部隊、第3装甲師団については比較的詳しく判っているので、その動きを軸に見て行きましょう。ちなみに第3装甲師団は139両の戦車を持ち、その半分は8.8cmFLAK以外のドイツ軍装備では、まともに撃破するのが不可能な当時の最強戦車、シャールB-1
bisでした。
■Photo:Federal
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装甲、武装の面でドイツ軍戦車&対戦車砲では太刀打ちできなかった恐怖の戦車、シャールB1
bis。8.8cmFLAKが無いとまともに戦うのは不可能な相手で、ドイツ側は側面にあるラジエター吸気口を狙い撃ちにしてようやく動きを止めた、とされています。ちなみにドイツ側の一部の記録だと車体の右側面を狙ったとしてますが、写真のように実際は左側面にあり。
これを迎え撃つ事になったドイツ側の第10戦車師団は全100両前後の戦車を持っていましたが、最新の(それでもシャールB-1bisと互角に戦う事は出来なかったが)IV(4)号戦車は30両のみで、後はI号、II号の軽戦車のみでした。共に戦う事になった大ドイツ歩兵連隊も対戦車砲は例の3.7p対戦車砲程度しかなく、本来なら全く勝ち目のない戦いだったのです。
そのフランス軍第3戦車師団は当初、パリとセダン地区の中間地点、どちらからも約100kmの距離にあるランスの近郊に展開していました。これは何度も書いているようにパリへの進撃路を断つ布陣でしょう。この師団に出撃命令が下ったのも意外に早く、12日の16時、グデーリアン軍団の渡河開始より1日も早い段階でした。すなわちドイツ軍がマース川対岸に姿を見せた直後に現地へ向かうように命じられていたのです。
ところがこの移動が予想外のステキな大旅行になります。セダン地区の南端部のルシェンヌまで約80qの距離の移動を命じられた部隊がそこに到着したのは14日の朝6時、すなわち第10軍団の予備戦力がビュルゾン南方で終結後、北上を開始した直後でした(既に見たようにルシェンヌには第7戦車大隊が駐屯していた。本来は両者の合流、同時投入を考えていた可能性がある)。実に38時間の行程で、時速にすると2.1q/h、成人男性の歩行速度の約半分となります。フランス戦車の速度は遅い上に最高速度で走ったら燃費も悪いし脚回りに故障も生じる恐れがあるのは確かです。それでも20q/hは出たはずで、最速なら4時間の行程でしょう。ところがそのフランス第3戦車師団の指揮官によると移動時の巡航速度はせいぜい6q/h、人が速足で歩く程度の速度でした。なんでそんな速度で走っていたのかよく判らんのですが、歩兵との共同が基本だったフランス軍の戦車部隊にはその速度で十分と言う規則があったのかもしれません。
さらにもう一つの事情がありました。フランス戦車は給油に時間が掛かる事です。フランス軍にはドイツ軍のようなジュリカンが無かったので、給油には燃料補給車とポンプが必須でした。第3戦車師団長によると師団全体に給油すると最大6時間(!)必要と述べていますから、1台平均2分30秒。ただし師団に1台しか燃料補給車が無いとは思えないので、実際は1台あたり10分前後かかっていると思われます。しかも以後の状況からして、恐らく満タンにしておらず、必要最低限の給油で済ましていたはずです。
ドイツ側の装甲部隊も給油のための停止はありましたが、そこまで時間が掛からず、特に問題視されていた様子はありません。その差を産んだのがおそらく写真のジュリカンの存在でした。ドイツの秘密兵器とも言えるこれは各車両が自分の予備燃料を持ち運べるのと同時に、給油を容易にする効果がありました。缶から注げばいいのでポンプ車は不要で、さらに各車が同時に一斉給油できるため、恐らく数十分で師団単位の給油は終わったと思われます。それほど注目されていませんが、これは電撃戦成功に大きく貢献した装備でした。このため、後に連合軍もパクる事になるんですが、当時のフランス軍にはこれが無かったのです。
ただしそれでも時間が掛かり過ぎです。距離的に給油は1回で十分だったはずで、これが6時間。そして6km/hの速度で14時間の距離ですから、合計でも20時間。ところがこれに睡眠時間8×2=16時間を加えるとほぼ38時間になるのです(笑)。寝てたでしょ、しかも途中で2泊。ドイツ国境から不眠不休に近い強行軍で、しかも戦闘を突破しながら100kmを越える距離を三日で突破して来たグデーリアン軍団との決定的な違いがこれでした。戦闘速度、テンポに対する理解と実践が違い過ぎたのです。そりゃ勝てるわけないよね、という話なんですがフランス第3装甲師団はこの後、さらにグダグダな行動を行い、そこに第21軍団長、フラヴィニー将軍の無能が加わり悲劇は加速される事になります。
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