■消える第21軍団
さて、ではそのフラヴィニー将軍率いる第21軍団のグダグダな展開を見て行きましょう。
その主力となる部隊、第3装甲師団は脅威の38時間移動後、14日朝6:00の段階でルシェンヌに到着しました。この時、第21軍団は二手に分かれて移動しており、西から北上したのが第3装甲師団と第3機械化歩兵師団(ただし後者の師団に関する記録は見つけられず推測)、東から北上した残りの部隊はルコー集団と名づけられ、両者はストンヌ 〜 ル・モン=デュ(Le
Mont-Dieu) の線で合流し北上を開始する手はずだったようです。この辺りをざっと地図にまとめて置きます。
そのまま北上していれば、この朝の第10軍団による反撃作戦に参戦可能で、おそらく事態は一気にフランス軍有利に展開していたと思われます。他の部隊も後から続々と現地に向かっていましたし。当然、第21軍団のボス、フラヴィニー将軍も同じ事を考えていました。即座に北上、午前の内にビュルソン周辺の戦線へ向かえと命じるのですが、これを受けた第3装甲師団長からの返答は予想外のモノでした。まず、給油が必要でそれに5〜6時間は掛かる、さらに軍団の集合地点、約18km先のル・モン=デュまでの移動に2〜3時間(ただしこれは師団長の勘違いで、ル・モン=デュまでは8q前後。16q先は戦闘地区のビュルソン周辺までの距離)、そして戦闘前にもう一度給油が必要でこれに2〜3時間(航続距離的に本来なら不要。よって最初の給油で満タンに出来てないのだろう)、すなわち駆けつけるのに最低でも10時間は掛かる、との返事でした。
これを聞いたフラヴィニー将軍はオレは戦車の専門家だぞ、そんな時間が掛かる訳ないだろうが、激怒するのですが、最終的に昼の14時までにル・モン=デュまで移動せよ、という事で妥協します。この点、師団長が呑気過ぎる印象を受けますが、これまでの例からして恐らくルシェンヌに到着してから丸一日以上の時間があると考えていたのだと思われます。この点は彼の落ち度ではなく、フランス軍全体がこの状況でしたからこれを責めるのは酷でしょう。
ところが例の「フランス軍の文化」により、第3装甲師団にフラヴィニー将軍の命令が届いたのが既に午前9時前後、最終的に師団が移動を開始したのが13時、結局ル・モン=デュに師団が到着、戦闘準備が終了したは17時30分ごろでした。師団長の言う約10時間を超え、11時間半掛かってようやく部隊は戦闘状態に入ったことになります。そしてほぼ同時刻に東のルコー集団もストンヌ周辺で配置に着きました。これで何とか反撃の態勢は整ったのですが、今度は指揮官のフラヴィニー将軍がパニックに巻き込まれてしまっていました。
ここまで時間が掛かった結果、朝の戦闘で敗退した第10軍団の兵の波に第21軍団が飲み込まれてしまったのです。その中で撤退する第213歩兵連隊の指揮官がフラヴィニー将軍と面会、敵は凄まじい数の戦車を持つ恐るべきドイツ軍部隊だと告げます。ウソでは無いように見えますが、第10軍団が敗退した段階でドイツ側の戦車部隊はほとんど戦場に到着していませんでした。すなわち負けたことに対する言い訳&パニックから来る誤認だったのですが、これをフラヴィニー将軍は鵜呑みにしてしまいます。さらに多くの敗残兵からの声が寄せられて、フラヴィニーは情報過多から完全に混乱状態となります。結果的にグデーリアン軍団は誤った情報の飽和で第21軍団のOODAループの回転を止めてしまったわけです。これですね。
こうなるといつまでも適応段階に進めない上に、進んだところで正しい判断が出来なくなります。
厳密にはドイツ軍が狙ってやったモノでは有りませんでしたが、高速戦闘による結果でありOODAループによる情報飽和戦闘の成功例の一つと思っていいでしょう。こうして戦わずして精神的に消耗してしまったフラヴィニーは驚くべきことに攻撃開始命令を突如撤回、さらに防御陣形に切り替える事を決定します。第3装甲師団&ルコー集団の戦闘配置が終わった直後の段階では、まだグデーリアン軍団の主力に追いつける、それどころか横腹を突けた可能性が高く、さらにフランス軍の北上を防ぐために残された第10装甲師団は戦力不足で、その上まだビュルゾン手前で停滞中でした。大ドイツ歩兵連隊だけが一帯に展開していたものの、とてもこの数の機甲部隊を相手にできる戦力ではありませぬ。この最大の好機の中でフランス軍は電撃戦中唯一にして最大の好機を自ら手放す誤断を下してしまったのでした。それは圧倒的なドイツ軍の戦闘速度=OODAループの高速回転、すなわち「テンポ」の高速さがもたらした結果と言っていいでしょう。
この結果、グデーリアン軍団の主力は北西に向かって一気に進撃を開始、連合軍の敗北は決定的なものなります。
■その追い打ち
ちなみにフランス軍、特にフラヴィニーの失態はこれでは終わりませんでした。まず防衛戦に移ると決定した後、第3装甲師団を幅20qに渡り分散配置してしまいます。南下する道路を戦車部隊で封鎖するためでしたが、その報告を受けた第2軍司令部これを容認しました。この辺り、まだパリが狙われている、という考えに縛られていた可能性もあり。
ただしその上位指揮系統であるフランス北東方面司令部は多少は冷静で、第2軍司令部からの報告に驚き、反撃に移れ、そのための装甲部隊だろうが、と叱責します。まあ、その通りですね。ところがその命令を受けだ第2軍司令部がフラヴィニーに改めて進撃を命じたのは翌15日の朝であり、最終的に第21軍団がその指令を受け取ったのは8時30分でした。当然、この段階でグデーリアン軍団の主力は西の彼方であり、第10軍装甲師団も既にビュルゾンを越えて南下、一帯に展開していました。その上、フラヴィニーが配下の指揮官を収集して再度作戦会議を開いたのが10時ごろ、そして反撃開始は14時と決定されました。完全に時期を逸していたのです。
さらに分散配置してしまった戦車の多くには無線が無く、搭載されていた指揮官級の車両にも連絡が取れない事態が多発(普段使わないので充電して無かったらしい)、このため師団の戦車部隊を呼び集める事が出来なくなる、という冗談みたいな状況に第21軍団司令部は追い込まれます(一部の戦車はどこに配置されたかも記録がなく、行方不明になってしまった)。とにかく伝令を飛ばして戦車を集めることにしたのですが、今度も燃料補給の問題が発生、しかも燃料補給車とポンプを20kmの距離に分散する各戦車まで送り込む必要が出て来ました。こうして14時の攻撃開始は延期され、まずは16時、次に18時半まで先送りにされます(日没は21時ごろだからギリギリの時期だ)。さらにこの段階で、東のストンヌを大ドイツ歩兵連隊と第10装甲師団が占拠、守備のフランス軍が退却した事を知ったようです。これで再び情報過多からパニックになったフラヴィニーは再度攻撃命令を撤回、部隊をストンヌ防衛戦に送り込む事に決定するのです(パリが危ないと誤認した可能性高し)。
ただし何しろ指揮系統がグダグダなので、一部の戦車部隊は命令撤回を知りませんでした。このため二個戦車中隊がル・モン=デュ周辺から前進を開始、ドイツ軍と接触後に自分たちが敵陣で孤立している事を発見、あわてて撤退するハメになっています。この無意味な戦闘でフランス側は2両の戦車を失ったとされます。
こうして最大規模で最大の勝機があったフランス軍最後の反攻作戦は、戦闘速度、「テンポ」の遅さから指揮官が次々と情報過多に襲われてパニックとなり、結局、戦うことなく敗北する事になります。さらに言えば主力であった第3装甲師団と第3機械化歩兵部隊の一部だけがストンヌの死闘に投入されるものの、他の部隊は以後、電撃戦終了までどこで何をやっていたのか全く判らないままに終わるのです。
こうして一帯の戦闘の舞台は地獄のストンヌに移って行きますが、グデーリアン軍団が海岸方面に走り去った後、この地でどれだけ頑強に戦っても、それは完全に無意味でした。次回はこのストンヌ戦から見て行きましょう。
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