■空の電撃戦
さて、前回は電撃戦で激突した両軍の陸上兵力を比較しましたが、今回は航空戦力について見て置きます。結論から言えば、航空戦力でも連合軍が圧倒的だったのですが、これまたドイツ軍にケチョンケチョンにされてしまう、というかフランス軍に至ってはどこで何をやってたのか誰も知らない内に電撃戦は終わってしまいます。例外は電撃戦の最後の決戦となったダイナモ作戦、すなわちダンケルク撤退戦でイギリスが投入した超必殺技、鋼の遺志を持つ男の大いなる遺産、スピットファイアの活躍のみだったと言っていいでしょう。今回は何でそんな事になったのか、といったあたりも含めて考えてゆきます。それにはまずは両軍の兵力比較から見てゆきませう。
これもまともな史料は残って無いので、出典は「電撃戦とういう幻」となりますが、イギリス空軍の数字のみはイギリス空軍博物館(RAF
Museum)が公開している史料、さらにフランスのトゥールーズ大学が運営する航空技術研究サイト、NACELLESに置いて2021年10月に公開されたHarry
A. N. Raffal氏によるレポート、「The Royal Air Force in the Battle of France: A
Failure to Commit」
参照にしています。
■1940年5月10日における航空戦力
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戦闘機 |
近接航空支援(CAS)機 |
ドイツ軍 |
1590機 |
425機 |
連合軍 |
2402(仏)+160(英)+141(オ・ベ)=2703機 |
0機 |
ただしこの数字もいろいろな条件があります。一番の問題はイギリス空軍で、これはあくまで大陸側、フランスにある基地に開戦時に配備されていた機数です。虎の子の最新戦闘機で温存されていたスピットファイアのように、最後の最後、ダンケルク撤退戦になってイギリス本土の基地から運用された機体は含みません。さらに戦闘期間中に増援を送り込んでるため、電撃戦全期間を通じた場合、この倍以上の機体が投入されているはずです。実際、イギリス航空省作戦室日誌(AIR MINISTRY WAR ROOM DAILY SUMMARY
)によると開戦10日目の段階までに145機のハリケーンを損失、すなわち開戦時に持っていた機体の9割(!)を失っているのですが、その翌日には80機の機体が部隊にあったとされるので、この段階で既に225機のハリケーンが投入されている事になります。以後も増援が続いた上に(当初あった3個飛行隊に4飛行隊+32機が追加された)、最後はイギリス本土のスピットファイアまで投入されたので最低でも倍以上、400機近い機体があったと思われます。
フランス軍の数字も微妙な所があるんですが、こちらは逆に少なくなります。問題は多くの機体が戦闘に投入出来ないまま終わったとされる点です。電撃戦の全期間を通じて戦闘機の稼働機体(すぐに戦闘可能)は僅か637機、保有機数の1/4に過ぎなかったとされるのです。多くの機体がなぜ運用不能だったのかは未だによく判らん部分が多く、これがいわゆる「消えたフランス空軍」として論争の的になって行きます。
この点、後に敗戦の責任を問われ、ヴィシー・フランス政府により1942年のリオンで裁判にかけられたフランス軍の総司令官、ガムラン将軍による興味深い証言があります。この時、ガムランは「開戦時に戦線に投入出来た新型戦闘機は2000機、しかし実際に投入されたのは500機に過ぎないと聞いている。この点には私も驚いたのだ」と述べています。すなわちフランス側の戦闘機は500機前後と思われ、これは総司令官もビックリな事態だったわけです。後に降伏直前、後方基地に四千機の機体(戦闘機以外の機体も含む)が配備されていた、という報告もあるので、「長期戦になると思って温存していた」「とにかくホッタラカシにされていた怠慢があった」等が主な理由だった可能性が高いです。すなわちやはりフランス軍はあまり賢くなかった、という事ですね。ただしこの点に関しては後で見るように、制空権と近接航空支援の重要性をフランス&イギリスの連合軍側が理解して無かった、という点も大きいと思われます。いずれによせよフランス側が電撃戦を通じて戦場に投入した戦闘機はせいぜい500機前後と見られるため上記の数字は大きく動きます。
ちなみにドイツ側も開戦段階では全機が作戦投入可能な状態に無く、工場から引き渡されたばかりの機体等を別にすると2割前後少ない数字になってしまいます。ただし開戦後にはほとんどが戦闘可能状態にされたと思われるので、「電撃戦期間中に投入された」という条件で見て置くと以下のようになるでしょう。近接航空支援機はドイツ側にしかなく、数字は動かないのでこれは省きます。
■電撃戦で戦った戦闘機
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戦闘機 |
ドイツ軍 |
1590機 |
連合軍 |
500機(仏)+推定400機以上(英)+141(オ・ベ)=1041機以上 |
連合軍側の数字には多分に推測が含まれますが、少なくともドイツ側を大きく上回る事は無いでしょう。さらにオランダ、ベルギーの機体は開戦直後の奇襲でほとんどが失われたと見られるので制空権を取る、すなわち航空優勢の確保に必要不可欠な戦闘機の数ではドイツ側が優位にあった、という事になります。そして実際、電撃戦のほぼ全期間を通じ、ドイツ側が航空優勢に守られて優位に戦いを進めて行く事になるのです。例外はイギリス側がスピットファイアを投入して来た終盤のダンケルク撤退戦の時くらいでした。ただしこれはドイツ側が圧倒的な航空戦力を持っていたからではなく、例によってフランス側がマヌケだった結果生じた優位なのだ、という事に注意してください。普通なら連合軍側が圧倒的に優位な状況だったのです。
■空の戦い1940
とりあえず電撃戦における空の戦いを理解するには当時の航空戦力の運用思想、特に第一次世界大戦後、世界の航空部隊に強い影響を与えたイタリアのドゥーエによる戦略爆撃思想を理解する必要があります。「F-22への道」でも簡単に触れましたが、航空戦は要塞も塹壕もひょいと飛び越えて敵の中枢部に至ることが可能だから防ぐことは出来ない、とドゥーエは考えました(迎撃の対空砲火網、レーダー誘導の戦闘機といった存在が全て無視されており、机上の空論だが、当時は強い影響力を持っていた)。よって敵の心臓部を速攻で爆撃すれば、敵国は降伏するしかない、と主張していました。まあ実際はそんな単純な話でないのは後のイギリスの戦い、バトル・オブ・ブリテンで証明されるのですが、この段階では一定の説得力を持つ主張でした。よってこの時期の空軍の主力はあくまで爆撃機だったのです。
このため各国の航空戦力は第二次大戦開戦に至るまで爆撃機重視であり、戦闘機は自国に飛んで来る爆撃機を迎撃するだけのもの、と考えられていました(空母による艦隊航空戦はちょっと異なるが今回は脱線しない)。このため大量の爆弾を積める爆撃機を敵地に送り込む事だけに主眼が置かれ(護衛戦闘機という概念すらない)、それ以外の機体を軽視する傾向があったのです。実際、わざわざフランスに送り込まれたイギリス空軍機の内、爆撃機(224機)の方が戦闘機(160機)より多数を占めていました。この点、ドイツはもう少しバランスが取れていましたが、それでも戦闘機(1590機)とほぼ同数、1563機の爆撃機を配備していました。
ところがいざ開戦して見るとこれらの爆撃機はほとんど役に立ちませんでした。開戦直後、ドイツ側が行った奇襲爆撃が数少ない例外であり、後は敵戦闘機と対空砲火にバカスカ撃墜されて損失だけが重なって行きます。その上、はるか上空から爆弾を落として行くだけの水平爆撃では命中精度が悪すぎて、自軍の陸上部隊に対し、なんら支援が出来なかったのです。特に敵の戦闘機が制空権を握って居ると自軍の爆撃機は徹底的にケチョンケチョンにされてしまう事がこの戦いの中で明らかになって行きます。
制空権を取って航空優勢を確保する重要性が認識されたのは、恐らく1936年からのスペイン内戦でした。これに参加していたドイツ空軍は戦闘機によって制空権を抑え、その状態で急降下爆撃機を送り込んで地上部隊を支援する、という戦術を知っていました。対して連合軍側は未だにドゥーエの夢から覚めないまま、この戦争を向かえてしまった、という面があったはずです。この結果が先に見た、フランスの中途半端な戦闘機運用に繋がった可能性は高いでしょう。そしてこの点は極めて高くつき、ドイツが電撃戦に成功する大きな要因の一つとなります。
よってこの表では両軍が持っていた水平爆撃機は全て弾きました。ちなみに単発機で一応急降下爆撃もできた、とされるイギリスのフェアリー バトル、双発機だったのに急降下爆撃も可能だったドイツのJu-88と言った機体もありましたが、ほぼ戦果を上げられない上に盛大な損失を受けて終わったので、これも省きました。ここで言う近接航空支援機というのはドイツのJu-87のように精密な急降下爆撃が可能で、前線の兵が呼べば飛んで来て砲兵代わりに敵部隊を叩く、といった任務が可能な機体を指します。よってこの表に含まれているのはドイツ側のHe-123、Ju-87のみです。
初期のドイツ空軍は急降下爆撃バカ一代、ウーデット閣下(本人の人生も急降下爆撃だった)がドイツ帝国航空省(RLM)で航空機開発の責任者を務めていたため、あらゆる機体に急降下爆撃能力を要求してました。その結果、この大型な双発爆撃機Ju-88も急降下爆撃が可能とされ、実際、電撃戦中にやってもいるんですが、さしたる戦果無しに終わっています(写真はアメリカ空軍博物館に展示されている偵察型のD型だが元々は電撃世代の爆撃型、A型からの改造)。
では次に、実際に両軍が投入した航空戦力を見て行きましょう。
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