では対フランス&低地諸国電撃戦の時に投入され、かつ実戦で役に立った各国機体を見て行きましょう。繰り返しますが、通常の爆撃機はほぼ戦況に影響を与えなかったのでこれは無視します。他に偵察、連絡、輸送と言った機体も投入されてますが、あくまで電撃戦期間中の戦闘に直接貢献した機体のみとします。
■イギリスの戦闘機
もっとも単純だったのがイギリスで、最後の最後、イギリスの命運を賭けたダンケルク撤退戦にそれまで温存していた超必殺兵器、スピットファイアを投入するまで、ひたすらホーカー ハリケーン戦闘機だけで戦い続けました。先の表で見た大陸に送り込まれた160機の戦闘機は全てハリケーンであり、投入されたのは全て最初期型のMk.Iとなります。
ちなみにイギリス航空省作戦室日誌によると爆撃機、偵察機などを含む全342機がフランスにあり、これは当時のイギリス空軍(RAF)の持つ全航空機の1/4近い数でした。最新型戦闘機スピットファイアの派遣を拒否したイギリス空軍ですが、それなりの戦力を送り込んではいたのです。
1935年初飛行、37年部隊配備開始ですからそこまで旧型では無かったものの、胴体後部は鋼管羽布貼り(鉄パイプで組んだ骨組みに上から防水加工した布を張った構造。すなわち全金属構造ですらない。軽量金属であるジュラルミンがまともに使えなかった時代の構造で鋼を使った結果、機体は重い上にパイプ組みのためモノコック構造に比べて強度で劣る)。まあ第二次大戦でまともに戦える機体ではありませんでした。
イギリス人は変態なので例によって傑作戦闘機と言いますが、ある程度まともに活躍できたのはエンジンにマーリンを使えた結果であり、純粋に機体設計の点で見ればダメでしょう。もしイギリスが戦争に負けてたら速攻でダメ戦闘機の烙印を押されていたと思います。
イギリス空軍駐フランス司令部(British Air
Forces in
France/BAFF)はハリケーン3個飛行隊、160機を持って電撃戦を向かえるのですが既に述べたように最初の10日間で145機、9割近い損失を受けて壊滅状態に陥ります(ただし開戦直後から増援は送り出されており、最終的に4個飛行隊+32機が追加派遣された)。同時に送り込まれた爆撃機部隊はさらに悲惨で、制空権どころか護衛戦闘機と言う発想すら無かったイギリス空軍はこれを丸裸で送り出し、壊滅的な損失を被ります。当初の五日間で5割を超える損失を受けた部隊もあり、最終的に電撃戦期間中にイギリス空軍は1000機を超える損失を受けて撤退する事になるのです。ただし良く知られるように戦闘機部隊の司令官ダウディング(Hugh
Caswall Tremenheere
Dowding)が本土にまだ戦闘機部隊を温存していた事、その中にスピットファイアという強力な機体があった事で後のドイツの航空侵攻作戦、バトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍と戦う事が出来たのでした(ただしこの点は戦闘機と同時に対空レーダー網の整備の貢献が大きい。ちなみにフランス軍は大日本帝国に匹敵するレーダーなんて持っていない軍隊で、戦後にイギリス側からこの点を批判されている)。
そして当時のイギリスが持つ最新鋭の戦闘機にして切り札だったスーパーマリン スピットファイア。ただしイギリス本土防空を最優先としたダウディングにより一度もフランス本土には派遣されず、最後の最後、ダンケルク撤退戦、すなわちダイナモ作戦の時の航空戦にイギリス本土の基地から投入されました。これによりドイツ側の航空攻撃を阻止し、撤退戦の成功に大きく貢献する事になります。これは電撃戦全期間を通じ、連合国側がドイツと対等に渡り合った数少ない例となったのです。ちなみにこれも最初期型であるMk.Iの投入でした。
イギリス側が投入した戦闘機はこの2機種のみであり、極めて判りやすい構成だったと言えます。
■フランスの戦闘機
対して同じ連合軍ながら複雑怪奇だったのがフランス空軍です。ちなみにフランス、イギリス、ドイツ全てが独立した空軍を持っており、この点は空軍なんて知らぬ通じぬで開戦して最後までそのままだった日米の太平洋戦線とは大きく異なる点となっています。
フランス空軍はとにかく機種が多く、しかも既にそのほとんどが役に立たなかったため、事実上これを無視していいかと思います。開戦時に持っていた戦闘機だけでもドゥヴァチン(Dewoitine)D510、D.520(連番だが全く別の機体)、 ブロック(Bloch)MB.151&152、クゥドン(Caudron/コードロンは英語読み)C.714、そして事実上の主力機だったモーハン・ソーニエ(Morane-Saulnier/日本語ではモラーヌ・ソルニエと表記されることが多いがさすがに違い過ぎるだろう)M.S.406がありました。さらにはアメリカから急遽輸入したカーチスH-75(P-36)も加わり、そこに旧式の複葉機なども一部がまだ残っていたようです。当然、機体ごとに必要な部品は異なりますから維持整備は膨大な作業になり、パイロット、そして整備員の訓練も機種ごとに異なるのでこちらも無意味なまでに大変な作業になっていたはずです。そしてこれだけの機種を持っていながら結局、500機以下しかまともに実戦投入されなかったわけですから、本当にワケが判らんとしか言いようがありませぬ。まあ頭悪かったんだろうな、という他無し。繰り返しますが軍が馬鹿だと国が亡ぶんですよ。
■Photo:Federal
Archives
開戦時に最も数が揃っていたのはモーハン・ソーニエM.S.406でした。おそらく1000機近くが生産済みだったと思われます。ただし開戦直後、ドイツ空軍の奇襲爆撃で100機以上が地上で破壊され、さらに150機近くが高速進撃して来るドイツ軍の手に落ちるのを恐れた自軍によって爆破処分されてしまったようです(戦闘損失以外の損失が少なくとも300機近くある)。よって戦闘に投入された機体は限られ、さらに性能的もお粗末としか言いようがない機体なので、まあ忘れていいでしょう。
写真はフランス降伏後、ドイツ空軍が接収して使用していた機体。ドイツ側も何に使うか困ったらしく、主に練習機にされたようです。さらに一部の機体をフィンランド空軍に売り飛ばしています(フィンランドはそれ以前にフランスから直接購入しており、その補充として購入したらしい)。
数あるフランス国産の戦闘機の中では最新型であり20o機関砲と言う強力な武器を持っていたD.520は最も活躍が期待されていたのですが、事実上、どこで何をやってたのかよく判らんまま終わっています。既に246機が完成しながらも、空軍が配備していたのは79機だけだったようです。ただし以後、戦争中にも配備が進み、電撃戦の後、ドイツの尻馬に乗って参戦して来たイタリア軍相手には一定の戦果を上げています。
フランス降伏後も生産が続けられ、ドイツ空軍が使用した他、戦後まで一部の機体がフランス空軍で現役でした。このためフランス人はスピットファイアに匹敵する機体みたいな事を言いますが、エンジンが最大950馬力と非力ですから、問題外でしょう(笑)。ついでに言うなら操縦も難しい機体で、戦中にこれを鹵獲したイギリス空軍のレポートでは見てくれはいいけど飛ばすどころか地上滑走も困難だったと酷評されています。
写真はアメリカ向けのカーチス
P-36Aですが、これの輸出版がH-75で、フランス向けの機体はH-75C1でした。アジアでも中国軍やタイ空軍が使っており世界中にばら撒かれた機体と言っていいですが(ただしアジアなどに送られた機体は固定脚の旧式装備が多かったが)、1940年5月の段階なら十分な戦闘力を持った最新の戦闘機でした。開戦時まで既に306機がフランスに到着しており、前年の1939年9月にドイツのBf-109と初めての空戦を行っています(フランス側は撃墜を主張してるが確認できず)。実際、電撃戦期間中にまともに戦える性能を持ち、かつ十分な数が揃っていたのはこの機体だけでした。初期の電撃戦の撃墜戦果のほとんど(ただしあくまでフランス側が主張する数だが)、そして電撃戦後、フランスが降伏するまでの全戦果の内1/3はこの機体によるとされています。事実上、電撃戦時のフランス空軍主力機と考えていいでしょう。
■ドイツ空軍
最後にドイツ空軍ですが、主要三軍の中では唯一、戦闘機だけでなく精密な地上攻撃ができる近接航空支援(CAS)機である急降下爆撃部隊を持っていました。これによって、
●戦闘機で制空権を確保→安全に急降下爆撃で地上部隊を支援
という流れを確保し、前回見たドイツ軍の野砲不足を解決してしまうのです。砲が無い故の代替案だったのですが、高速侵攻する機甲部隊はイチイチ現地で砲兵陣地なんて造ってる暇ないですから、むしろ好都合となり、この航空支援が電撃戦成功の大きな鍵の一つになりました。
まずは戦闘機から見て行きましょう。ドイツが電撃戦中に投入した戦闘機は二種類。単発で主力戦闘機だったBf-109、そして双発の大型戦闘機Bf-110でした。双発のBf-110は後に軽快な単発戦闘機相手では勝ち目がなくなり、夜間戦闘機や地上攻撃などに転用されて行きますが、この段階では普通に戦闘機として投入されています。
ドイツ空軍の顔であり、開戦から終戦まで改良を重ねながら使われ続けた主力戦闘機、メッサーシュミットBf-109。1935年初飛行、1937年運用開始ですから当時の航空機の進化速度を考えると最新鋭とは言い難いですが、ドイツはこの機体を次々に改良、A型から始まり電撃戦の段階ではE型まで進んでいました(ただしA&C型は少数生産で終わってるので事実上三番目の量産型)。写真はさらに進化したG-2型ですが凡その形状を見るのには十分かと思いまする。
開戦時にドイツ軍は1279機を保有、戦闘可能状態にある機体は923機でした(工場から引き渡された直後で部隊に配属されてない&E型以前の旧式機で戦闘に投入できない等だと思われる)。電撃戦中に配備された機体もあるようなので、最終的には1000機以上が投入されたと思われます。フランス空軍の主力であるH-75が約300機、イギリス側の主力のハリケーンが500機前後だったことを考えると、制空権を取るには性能的にも数の上でも十分だったと言っていいでしょう。実際、この機体の活躍でドイツは一帯の航空優勢を維持し、最後まで地上戦を優位に進めて行きます。
■Photo:Federal
Archives
当時、各国は十分な戦力になると思われていた双発エンジンの大型戦闘機を開発、装備していました。BF-110もそういった機体の一つだったのですが、機動性に劣るため単発戦闘機に襲われたら全く歯が立たないことが判明、追加装備が積める機体の大きさを活かし、夜間戦闘機や攻撃機に転用されて行く事になります。電撃戦の開始時点ではまだその欠点が明らかになっておらず、純粋に戦闘機として投入されたのですが、どこでどう活躍したのかは正直、よく判りませぬ。
この機体もドイツ空軍が保有する311機の内、開戦時に戦闘可能だったのは222機だけでした。こちらの理由は不明ですが、いずれにせよほとんど活躍しないで終わるので気にしなくていいでしょう。
そして三軍の内、ドイツだけが投入して来たのがこのJu-87に代表される急降下爆撃機、地上部隊と密接に連携して地上攻撃を行う近接航空支援(CAS)機でした。敵歩兵部隊や戦車に対して強力な打撃力を持つのですが、鈍足かつ機動性は低いので敵戦闘を駆逐して制空権を確保する、あるいは護衛戦闘機を付けると言った対策は必須でした。電撃戦時には制空権を取った上で大活躍するのですが、なぜか後のバトル・オブ・ブリテン時のドイツ空軍は制空権無し、護衛戦闘機も無しのままイギリス上空に送り出し、壊滅的な損失を被る事になります。
それでも電撃戦時に置ける活躍は重用で、戦車部隊の高速進撃、この機体による大砲代わりの急降下爆撃による支援、そして8.8cmFlakの存在が電撃戦成功のキモだったと思っていいでしょう。開戦時には376機をドイツ軍は保有しており、その内の8割以上、316機が作戦投入可能な状態にありました。写真は長距離対応のR型ですが、形状は電撃戦に投入されたB型とほぼ変わりません
ちなみにドイツは旧式の複葉機、Hs-123急降下爆撃機も40機前後、電撃戦に投入してるのですが、これがどこまで活躍できたのかはよく判りませぬ。
といった辺りが両陣営の航空戦力事情となります。とりあえず今回はここまで。
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