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■発電機大作戦
前回見たようにドイツ軍は5月24、25、26日の最も重要な三日間、自ら脚を止めて英仏連合軍の脱出を許してしまいます(犯人はヒトラーとルントシュテットだが、後者の方がより悪質)。そのおかげで26日に開始されたイギリス軍のダイナモ作戦(Operation
dynamo)は成功、33万8千200人がイギリス本土への脱出し(海軍省の記録による。陸軍省の記録だと33万6千400人)、ドイツは決定的な勝利、戦略的な勝利を逃しました。これがいわゆる「ダンケルクの奇跡」ですね。今回は「勝つためのOODAループ」という主題とは全く関係が無い、この撤退作戦をざっと説明するオマケ編となります。これにてこの長かった連載も終了です。
ダイナモ作戦が終了する6月4日早朝までにイギリス兵21万5000人、フランス&ベルギー兵12万3千人がイギリス本土に逃れました。ただしベルギー軍は作戦中の28日に降伏したため最低でも10万人以上がフランス兵だったと思われます(第二次大戦期中のイギリス在留ベルギー人は最大でも1万5千人前後)。すなわちベルギー北部の平野部に閉じ込められたフランス兵の半分近い数が脱出に成功した事になりました(ダイナモ作戦終了までにドイツ軍は約12万人のフランス兵を捕虜としている。戦死者数は不明)。
ただし、これだけの数の兵が脱出できたのは、その装備を置き去ったからで小銃すらも捨てた兵がほとんどでした。このためダンケルク一帯には膨大な量の英仏軍の兵器が取り残され、後にドイツ軍を驚かせます。B軍集団の指令官だったボック将軍は東からこの一帯に入ったのですが「一個軍」を編成できるほどの兵器が破棄されている、なんという贅沢だ、我々より余程良い装備だ、と驚愕しています。実際、この後しばらくイギリス陸軍は装備不足に悩まされる事になるのです(ただし小銃だけはソンム川南のフランス国内に一定数の予備があり、これを後の本土撤退戦中(後述)に回収している)。
出典:Bundesarchiv
ダンケルクの東側に広がる海岸線の砂浜の状況(写真の説明文では5月撮影となっているが6月の誤りだと思われる。5月中の段階でドイツ軍はこの海岸線までは到達していない)。後で見るように撤退戦開始直前と直後に港湾施設がほぼ破壊されてしまったため、この東側の砂浜からも撤収が行われました。奥に見えている船は砂浜の兵員を救出するために海岸線に近づき過ぎて座礁したか、ドイツ軍の砲撃、爆撃で損傷して放棄されたものだと思います。手前のバスはシトロエンなので、恐らくこの一帯からはフランス軍が撤退したようです。無数の装備が散乱していますが、破壊、焼却がなされていないものも多く、慌てて撤退したのが見て取れます。
ちなみにドイツ側によると、各種車両6万3000台、戦車及び装甲車両475両、オートバイ2万台、野砲2400門を確認したとされ。確かに軍団どころか軍単位での編成が可能な数となっています。
既に見たようにチャーチルは常に強気の姿勢を崩さず徹底抗戦に拘り続けました。この辺りもヒトラーによく似てますね。それに輪を掛けて楽観的かつ攻撃的だったのがフランス軍の総司令部でした。ヴィゴン将軍が最高責任者になってからもその傾向は変わらず、むしろより攻撃的になったとも言えます。ただしこれはヴィゴンが無能で時代遅れの長期戦主義者で危機感が無かった事、さらに状況判断に必要な情報すらもはや収集できなくなっていた事が要因であり何の根拠もない徹底抗戦主義でした。このため素敵で無敵な感じの反撃計画が立てられても、そんなものは実行不能であり、後にフランス政府が休戦を申し出る6月17日の段階まで(名称は休戦だが事実上の降伏。22日に正式に休戦協定に調印)、英仏連合軍の組織的な反撃は一度も成功せずに終わるのです。さらに5月28日の段階でベルギーは単独でナチスドイツに降伏、連合軍戦線から脱落してしまいます。
そんな状況の中、チャーチルが万が一の事態に備えて掛けてあった保険が「ダイナモ作戦」でした。その総司令官に任命されたのがラムジー提督です。このラムジーがアメリカ参戦前の連合軍中で唯一、まともな指揮能力を持つ軍人だった事、そこにいくつかの幸運が重なった事により、奇跡的にその脱出作戦は成功する事になるのです。

バートラム・ラムジー提督(Bertram Home
Ramsay)。
日本語表記でラムゼイというのを見かけますが、決してそんな発音では無いので注意。ダイナモ作戦時には中将でした(Vice
admiral)。ちなみに陸軍、空軍の将軍に当たるのが海軍の提督ですが、日本語にはVice
admiral、Rear
admiralに対応する呼称が無いので、それぞれ中将、少将とするしかありませぬ。なんか違和感あるんですが致し方なし。ちなみにラムジーは頭部の生え際後退が極めて激しく、帽子を取ると一瞬、別人かと思ってしまう位に印象が変わります。なので写真などで人物を特定する場合、ちょっと苦労する人です。
1938年の戦間期に55歳で一度海軍を退役したのですが(恐らく少将での退役)、1939年に第二次大戦が始まると海軍大臣だったチャーチルに呼び戻されて中将に昇進、ドーヴァー指令官(Commander-in-Chief,
Dover)として復帰します。ドーヴァー指令官は戦間期にのみ存在した役職で、その名の通りドーヴァーに司令部を置き海峡を守る艦隊を率いる指揮官でした(英仏海峡の最も狭い場所、ドーヴァー〜カレー間がドーヴァー海峡。ただしフランス側はカレー海峡と呼ぶこと多し)。この狭い位置で海峡を封鎖してしてまえば、北海、バルト海(ドイツが面する海)からヨーロッパ大陸を南下する航路は事実上抑えられてしまうのです(後はイギリス艦隊の本拠地、スカパ・フローの眼の前を通ってイギリスとノルウェー間を突破、さらに荒れ狂うアイスランド周辺の北極海を抜け2000km近く迂回航行するしかない)。ただし後にシャルンホルスト、グザイゼナウ、プリンツ・オイゲンのドイツ海軍三姉妹に突破されたりしてますけど、本稿とは関係ないので割愛。
このためラムジーは本来、フランス戦とは関係ない立場だったのですが、ダンケルク撤退戦は最も海峡が狭い位置で行われたため、その作戦全体を指揮する事になったのです。この辺りはチャーチルから信頼されていた、という面もあったでしょう。ちなみに後のノルマンディー上陸戦における海上部隊の作戦、ネプチューンの総司令官にも任命されいています。この段階でほぼイギリス海軍のトップと言っていい人物になるんですが、ドイツ軍降伏まであと四カ月だった1945年1月2日に航空機事故で死亡してしまいます。
ちなみにこの撤退作戦名がダイナモ(Dynamo/発電機)となったのはドーヴァー城砦(ローマ時代からナポレオン戦争まで使われた海峡の崖上にあった城砦。ナポレオン戦争時に掘られた大規模な地下トンネルで知られる)に置かれたラムジー提督の部屋が元々発電室だったからとする説明を見かけます。ですがこの城砦、第二次世界大戦で再利用されるまで放棄された状態であり、発電機なんて持ち込まれた事は無いはず。例によって単にイギリス人らしい適当な命名でしょう(目的を秘匿するという点で有効なのは確かだが)。
そのダイナモ作戦は、ドイツ軍が英仏海峡に到達する前、5月19日から既に準備が始まっていました。この日、ラムジーが撤退作戦の総司令官に任命され、その準備開始を命じられたのです。ラムジーは翌20日には早くも関係者をドーヴァーの司令部に召集、対策会議を持ちました。ここで救出作戦に使えそうな民間船の徴用リストを造る事が決定され、その作戦準備が動き出します。その後、フランスではアラスの戦いが失敗に終わり、さらにドイツ軍の三日間の無意味な停止という大波乱があったわけですが、その間もラムジーは淡々と民間からの船舶の徴用準備を進めていたわけです。
最終的にチャーチルが撤退に舵を切り、ダイナモ作戦を発動させるのは5月26日になってからでした。その前日の25日夜、現地に在ったイギリス遠征軍指令官、ゴート卿がフランス軍との連携を拒否、独断でその部隊を唯一残された港湾都市、ダンケルルクに向けて移動させる事を決定していました。イギリス政府はこれを追認する形でフランスからの撤退を決定、ダイナモ作戦が正式に発動となるのです。
ただしあくまでこれは正規軍、主力戦力の撤退開始でした。21日朝までにはグデーリアンにフランス南部との陸の連絡路を断たれ、22日からはブローニュ・シューメールとカレーもその機甲師団に飲み込まれイギリス本土との連絡を断たれつつあった連合軍は食料や燃料が不足し始めます。このため「無駄飯喰い」と判断された非戦闘員、各種普請の作業員や荷駄運搬のために現地に在った予備役兵(まともな戦闘訓練を受けていない)、負傷兵、さらに民間人として派遣されていた人員の退去は20日の段階から開始されていました(ゴート卿の指令による)。一部はブローニュ・シューメールやカレーからも脱出(既に見たようにイギリス軍司令部の一部は早くからブローニュ・シューメールに撤退していた)、ダイナモ作戦が発動された26日までに約2万8000人(イギリス人約2万6450人、その他約1550人)がイギリス本土に退去していました。逆に言えば一週間近い時間があって三つの港湾都市が使えてもこの人数が限度だったのです。よって作戦開始当初、連合軍主力のほとんどが取り残されると考えられていました。イギリス側の当初の目論みでは作戦は二日間で終了(ダンケルク地区を維持できない)、脱出できるのは4万5000人と見積もられていたのです。
ですが既に見たように26日の夜に至るまでルントシュテットの暴走でドイツ軍は身動きが取れませんでした。さらに雨天によってドイツ空軍が出撃できない日が続き、加えてその雨で一帯の低地が泥濘化、装甲師団の進撃を困難にしてしまいます。その結果、ダンケルク一帯の防衛戦は当初想定された以上に堅固になり、最終的に6月4日朝までの9日間(4日早朝までに脱出可能な全部隊がダンケルクを離れていたので実質9日間となる。ドイツ側の記録では4日午前9時40分に占領)に渡ってダイナモ作戦は展開され、既に見たように連合軍主力の多くがイギリス本土への脱出に成功する事になります。ちなみに電撃戦開始から二週間以上に渡り好天が続いたのがドイツ軍の装甲師団の進撃、そして航空支援に優位性を与えたのは既に指摘しました。この点、神様は意外に公平で、このダイナモ作戦中、天候悪化でドイツ空軍が出撃できない時間があったのに加え、ほとんど風が吹かず、航海の難所として知られるドーヴァー海峡は凪状態が続きました。当時の船員はこんなドーヴァーは初めて見た、と証言しているほど珍しい気象現象です。この幸運の結果、イギリスとフランスから徴用された小型船舶が一気に海峡を渡る事が出来、その撤退戦を支援するのが可能となったのです(ダンケルク周辺の砂浜からも兵の収容が行われ、そこから沖合の大形船まで運搬するカッターボートのような仕事をこれらの小型船が担当した)。
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