とりあえず読み物としてはいろいろ興味深い部分がある、ダイナモ作戦による「ダンケルクの奇跡」ですが戦術的、OODAループ的には特に見るべきものは在りません。なのでざっと説明して終わりにしましょう。



出典:Bundesarchiv

6月4日、ドイツ軍がダンケルクを占領した直後の写真。燃えているのは市街部。この段階までに空襲と砲撃でダンケルクの街と港湾施設はほぼ破壊されてしまっていました。

とりあえずここでダンケルクの奇跡に対する伝説の一つを検討して置きましょう。すなわちドイツ空軍最高司令官にして国家元帥、衝撃の白いデブことゲーリングの関与です。この男が空軍だけで何とかするとヒトラーに進言した結果、ダンケルクの奇跡が生じたという「伝説」ですね。ただしこの辺りは「電撃戦という幻」の中で指摘されている通り、それほどの影響は無かったでしょう。23日の段階でゲーリングが我が空軍に任せてくれ、と連絡を入れたのは確かですがヒトラーがこれに影響を受けた様子はなく、実際、空軍に対して特別な命令を出した形跡はありません。例の総統による戦闘指令13号の中で「ドイツ空軍の任務は包囲された敵部隊からの抵抗を撃破し、海峡を渡るイギリス軍の脱出を阻止し、A軍集団の南側面を確保すること」と述べていますが、特にダンケルクには触れてませんし、これらを空軍だけでやれとも述べてません(ついでにイギリス本土への攻撃を命じており、これが後のイギリスの戦い、いわゆるバトル オブ ブリテンに繋がる)。

ちなみにここまでの二週間の戦闘でドイツ空軍は既に大きな損失を受けており、24日夜の段階で爆撃機、戦闘機合わせて約1000機が戦闘不能になり内800機ほどは撃墜され完全に失われています。このためダンケルク戦でイギリス空軍がその虎の子にして必勝必殺の戦闘機、スピットファイアを本土から出撃させると、一時的にその制空権を失います(ただし互角の状況でありイギリス側が一方的に制空権を抑えたわけでは無い)。圧倒的に少ない損失で一方的に蹂躙した地上の装甲師団に比べると、空の電撃戦はかなりの損失を受けていたのです。実際、現場の指揮官からはゲーリングの要望に多くの不満が出ており、そもそも空軍だけで何とか出来るなどとは誰も思っていませんでした。ちなみに詳細な数字は不明ですが、ダンケルク以前の場合、その損失の大半は対空砲によるものだったと思われます。航空機の最大の敵は、敵戦闘機よりも対空砲なのです。



設計者、シドニー・カムの執念が産んだ奇跡の戦闘機、スピットファイア。これ以前から散発的に投入はされていたようですが、英本土からの運用しか許されない秘密兵器であり、その活動の場は極めて限られました。よってその本格的な投入はダイナモ作戦から始まったのです。ただしMk.I世代であり、航続距離的には極めて貧弱だったため(設計の欠陥ではなく、そもそも本土の拠点防御戦闘機、すなわち局地戦闘機なので遠くまで飛んで行く前提では設計されていない)、作戦空域での滞空時間は限られていました。それでもドイツ空軍を苦しめ、作戦成功に大きく貢献したと見ていいと思われます。

ただしそんな中でもドイツ空軍はよく戦いました。特に停止命令が出る前、グデーリアン配下の第1装甲師団の進撃中に行われたダンケルク空襲では燃料満載で接岸していたタンカーを撃沈、大火災を引き起こしその港湾施設に深刻な損害を与えています。これによって波止場の一部が使用不能になってしまいました。さらにドイツ軍が進撃を再開した27日にも徹底的な空襲を行い、港湾施設の多くを使用不可にしてしまいます。このためイギリス軍は港湾の波止場だけでなく、ダンケルク東部に広がる、ベルギー国境線へと繋がる砂浜からの脱出も強いられる事になります(西のカレーに繋がる砂浜はドイツ側の砲撃圏内で使えなかった)。

ついでにイギリス側の問題にも触れて置きましょう。ダンケルク一帯の海岸は浅瀬が多く、入港するにはカレー方面から東西に走る水道(浚渫で人工的に造られたものだと思われる)を経由するしかありませんでした。さらに北面にはフランス海軍が機雷をばら撒いてしまっておりここも通過できませんでした。この結果、以下のような三つの経路がダイナモ作戦では使用される事になります。作戦開始当初は最短航路であるルートZが使用されていました。



ところが作戦開始直後に、カレー一帯をドイツ軍が占領します。この結果、沿岸沿いに航行するルートZはドイツの大口径野砲から砲撃を受ける事になってしまいます。敵機が飛来しない限り安全な空襲とは異なり、常にそこにある野砲は極めて危険な存在です。このため最短航路だったルートZ(商船でも二時間で渡れた)は早い段階で昼間の航行は中断され、一部の船が夜間に利用するだけとなります。その代りに設定された経路がルートXでした。ただし機雷海域をギリギリでかすめる上、ドイツ軍も一帯に航空機雷をばら撒いたため、当初から航行が困難な航路でした(浚渫された細い水道を外れると速攻で座礁。よってドイツ軍としても狙い易かった)。実際、その掃海が終わるまで何度か利用が中止され、これも限られた状況でしか使えませんでした。最終的に極めて遠回りとなる経路、ルートYが設定され(ざっと四時間の航路)、多くの船がこの時間のかかる航路で撤退作戦に参加する事になるのです。当然、時間が掛かる以上、同じ船が往復して兵員を回収できる回数は大きく減少します。さらに何度も途中で航路を変更する必要があり、ジャイロコンパス等の本格的な航行装置を持たぬ民間の小型船などにはかなり難易度の高い航路だったようです。それでも連合軍の船はこの航路から数多くの兵を脱出させたのでした(イギリスの作戦だがフランス側の船舶も多数参加している)。

そしてこの作戦の真っ最中、5月31日にチャーチルは開戦後三度目のパリ訪問を行います。こういった行動力はホントに凄いんですよ、この人。ドイツ側は既にパリへの空襲を開始しており、チャーチルが訪問した時も夜間にドイツ機が飛来しています(この時はパリに一泊、翌6月1日にイギリスへと戻った)。そして驚いた事に、この段階でもフランス軍総司令部は北の平野部の部隊に撤退を命じておらず、このためイギリス軍が勝手にこれを本土に連れ去った形になっている事をチャーチルは知りました(そもそも北部の戦況の情報が全く入って来なくなっていた)。結局、追認の形でその撤退は認められるのですが、この段階ではもう全てが終わりだな、とチャーチルも感じざるを得なかったようです。ちなみにイタリアの参戦が迫っており、その対応も協議されたのですが、本稿とは関係ないので割愛します。

さらにこの時の英仏首脳会談に初めてペタンが出席しました。副首相に任命された第一次大戦の英雄で、フランスのヒンデンブルクとでも言うべき人物でした。後に16日のレイノーの首相辞任後、その職務を引き継ぎ、直後の17日に事実上の降伏である休戦をナチスドイツ側に申し出るのがこのペタンです(すなわち第三共和政最後の首相であり、ドイツの傀儡政権、ヴィシー・フランスの初代首相となる。ちなみにパリを含む北部フランスは降伏後にドイツ領とされ、ヴィシーに首都が移ったのでヴィシー・フランスと呼ばれる)。チャーチルによると、この段階で既にやる気が感じられず、何かを企んでいるようだった(連合軍では各国の単独講和は基本的に禁じられていた)、と述べています。 

こうしてフランス軍も晴れて撤退が認められ、4日の早朝に至るまで(フランス時間)、その撤退作戦は続くのです。その結果、「奇跡」に近い数の兵を脱出させて終わるのですが引き換えに損失も決して少なくはありませんでした。イギリス側の戦記、THE WAR IN FRANCE AND FLANDERS 1939-1940によると撤退戦中の死傷者はイギリス軍8061名、その他連合軍1230名、合計9291名とされますから、9日間の戦闘としてはかなり大きな数字です。さらにイギリスが投入した軍・民間の船舶は765隻、その内228隻を喪失(大多数が民間から徴用、または志願して作戦に参加した小型船)、45隻が大破とされるので、3割以上の凄まじい損失となっています。さらに航空機の損失も177機とかなり大きく(その内40機前後が虎の子のスピットファイア)、決して楽に脱出できたワケではありませんでした。

ちなみにダンケルクからの撤退終了で説明終了となる書籍や資料が多いですが、当然、フランスは未だ降伏していません。戦争は終わって無いのです(17日にフランス政府が休戦を申し出、22日に降伏文書に調印。この間、6月10日にイタリアがフランスに攻め込むが、彼らは彼らだけで楽しくやっていたいので戦況としては無視していい)。実際、ドイツ軍はダンケルクで連合軍主力を逃した後、6月5日から「赤の事例(Fall Rot)」作戦を発動させ、ソンム川を超えて一気にフランス南部に雪崩れ込みます。このためダンケルクから脱出したフランス兵はプリマス港に送られ、そのままフランス南岸に向けて送り返されたのです。ただしこの辺りの正確な記録が見つからず、フランス降伏まで、どれだけの数が送り返されたのかは不明(ベルギー兵は本国が降伏済みで送り返せず、イギリスに残った)。

そもそもフランスに送り込まれていたイギリス遠征軍(BEF)もダンケルクから全てが撤退したワケではありませんでした。ソンム川の南に展開していた部隊は現地に取り残され、その数は18万人近くだったとされます。ほとんどが精鋭とは言い難い部隊であり、もはやこれも撤退させる必要が出てきます。ただし例外的に一定の戦力を持って取り残された部隊として第51歩兵師団がありました(通称ハイランド(Highland)師団。スコットランドの高地地方で編成されたのでこの名がある)。この第51歩兵師団の末路は悲劇的でした。イギリス軍はその救出を目論むのですが、フランス軍司令部が脱出を許可せず防衛戦に投入、最終的に師団の半分近い兵が捕虜となってしまいます(フランス軍と別行動をとった約1万1千の兵だけが6月10日から13日掛けて行われたサイクル作戦(Operation Cycle)でイギリス本土へ脱出する)。

さらに徹底抗戦を主張するイギリス軍とチャーチルの行動は支離滅裂で6月17日、すなわちフランス政府がドイツに休戦を申し出た日に新たな部隊をフランスに派遣しています。第52歩兵師団(通称ローランド(Lowland)師団。スコットランドの低地地方で編成されたのでこの名がある)とカナダから来ていたカナダ陸軍第1師団です。幸い両師団は大きな損害も無く速攻で撤退するのですが、フランスの降伏が時間の問題である事をイギリス政府は知りながらその派遣を中止しませんでした。やはりチャーチルは頭オカシイという印象が拭えませぬ。なんでこの段階で増援を送るんだと言う他無いでしょう。

ちなみにゴート卿はダンケルクからの撤退後もイギリス遠征軍指揮官でしたが、その指揮権は事実上奪われ以後は彼と対立関係にあったブルック将軍がフランスに入って指揮を執りました(Alan Brooke。既に見たように1941年12月からディルの後任として陸軍参謀総長に任命される)。最終的にフランスに取り残されたイギリス軍、及び連合軍部隊は6月15日から25日かけて行われたアエリアル(Aerial)作戦でフランスから撤退します(ただし以後も散発的に脱出作戦は行われたが)。このアエリアル作戦でイギリスに帰った兵は14万4千人前後と見られ、ダイナモ作戦の6割に匹敵する規模でした。ちなみに同時にイギリスに向かった連合軍の人間は(既にドイツに降伏した後なので民間人と軍人の区別がハッキリしない)、ポーランド人が2万4千人、フランス人が1万8千、その他約5000人とされ、全てを合計すると約19万2千人、ダイナモ作戦の56.5%ほどの人数となります。ダイナモ作戦に比べてほとんど知られていないアエリアル作戦ですが、規模の上では極めて大きなものだったのです。こうして1944年6月のノルマンディ上陸戦、Dデイの日までイギリス軍はフランスから完全に離れる事になったのでした。

これにて電撃戦について書いておこう、という内容は終わりです。いやはや続けて居れば終わるもんですね(笑)。ほぼ3年に渡った「OODAループと電撃戦編」の連載もようやくこれで終了です。いろいろ脱線しちゃった、というのもあるんですが、ここまで長期に渡る記事になるとは全く思っておらず、正直、ようやく終わりか、という気持ちです(当初は半年で終わると思っていた)。では、ここまでお付き合い頂いた読者の皆さんに感謝して、これにて終了とさせていただきます。



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