■渡河二日目、5月14日の午後
渡河の翌朝14日朝、フランス第10軍団による反撃を撃破した第19装甲軍団の指揮官、グデーリアン閣下は直ぐに次の進撃に向けて命令を下して行きます。この時既にグデーリアンは三蔵法師に匹敵する決意の強さで西に向かう気だったのです。言うまでも無くクライスト装甲集団司令部からそんな指令は来ていません。まあそこを動くなとも言われて無いのですが、マース川渡河後は後続の歩兵部隊を待つ、がドイツ軍司令部の暗黙の了解でした。すなわち現場部隊指令官の完全な独断専行です。このため、以後、グデーリアンにとって最大の敵はフランス軍よりもむしろドイツ軍上層部(ヒトラー含む)になって行きます。
一帯からの西進で最初の障害となったのがマース川から分岐して南に向かうアルデンヌ運河でした。マース川ほどでは無いにしろ、船が航行できる深さと幅がある運河ですから、装甲車両に取ってその渡河は楽では無かったのです。このため橋を爆破されずに確保するのが最重要目的になって来ます。幸い、完全にパニックになっていたフランス軍は主要な橋の多くを無傷で残してしまっていました。ただしこの点では既に述べたようにドイツ軍は南西のパリ方向に向かう、という先入観があった結果、西側の進路妨害は不要と考えられていたからかもしれません。自国内の交通設備を無駄に破壊する必要はないですから。
ではその辺りの状況を地図で確認して置きます。
フランス第10軍団との接敵前、朝7:30の段階で既に第1装甲師団はシェエリー南東のオミクーで歩兵の渡河に成功していました。ただしこれが橋を確保した結果なのか、ボートで渡ったのかはよく判らず、いずれにせよ直ぐに戦闘が始まってしまった事、この段階ではまだグデーリアンも即座に西進するかを決断していなかった事で、それ以上の進展は無かったようです。余談ですが、戦後、コナージュからオミク―地区に向かう道路は13日から14日にかけて負けまくった第55師団長ラフォンテーヌの名を取ってラフォンテーヌ通りと名づけられています。…フランス人らしい皮肉?
その後10:45頃、フランス側の撤退で第10軍団との戦闘が終わった事、正午ごろA軍集団のボス、ルントシュテットをグーリエの舟橋の上に向かえて戦況報告を行った事は既に見た通り。そしてこの時、グデーリアンはルントシュテットから後続の歩兵部隊を待たずに進撃を許可する言質を取ったのではないか、と筆者は推測しています(ただし後で見るように装甲集団のボス、クライストは反対で15日になってから進撃禁止命令を出し、ルントシュテットも指揮系統への介入を避けてこれを黙認。これによってグデーリアンの進撃は最初の妨害を受ける事になる)。
朝の戦闘終了後、再び第1装甲師団の司令部に向かったグデーリアンは即座の西進が可能であることを確かめ、第1、第2装甲師団の西に向けての進撃開始を決意したようです。その後、昼過ぎの12:30分ごろ、まずは第1装甲師団がシェメリー(Chémery)の西で戦車が通れる橋を無傷で確保しました。そしてようやくマース川の渡河が終わった第2装甲師団も川沿いに西進し、14:30ごろアルデンヌ運河の分岐点、ポン・アバー(Pont
à
Bar)でこれも装甲部隊が渡河可能な橋を確保します。そしてほぼ同時刻、14:00前後にグデーリアンは第1装甲師団と第2装甲師団に西に向けての進撃方向転換を正式に命じています。このため北上して来るであろうフランス軍に対して脆弱な横腹をさらす事になるのですが、その南面を守るために第10装甲師団と大ドイツ歩兵連隊が現地に残されたわけです。両部隊に対しては一帯の交通の要衝であり、高台に位置する戦術的な要衝、南のストンヌに向かうように命じました。
ちなみにグデーリアンが西進を決心したのは連合軍側のゴーリエ橋空襲の真っ最中の時点で、すなわち全軍渡河が終わる前でした。これがグデーリアンのテンポ、戦闘速度なのです。
そして14日日没、21時ごろまでの各師団の進出位置。最精鋭の第1装甲師団はセダンから20q近く先にあるオモン(Omont)周辺まで、第2装甲師団は渡河に成功したドンシェリーから約7qほど西のフリーズ(Flize)まで進出していました。順調と言っていいでしょう。例外的に第10装甲師団は朝の段階で第1装甲師団が突破したビュルソン周辺に居ますが、これは以前にチラッと触れたように、撤退命令が無かったので現地に取り残されてしまったフランス第71師団の残党の激しい抵抗に巻き込まれてしまったため。それでも翌朝までには進出予定地点、ストンヌまで南下して電撃戦中最大の死闘に突入します。ちなみに大ドイツ歩兵連隊は別経路を先行してストンヌに向かっていたと思われますが、この段階での位置は不明。
ただし、この段階で既にヴィータースハイム率いる第14自動車化歩兵軍団は既にマース川北岸に到達していました。よって第10師団&大ドイツ歩兵連隊の任務は軍団配下の自動車化歩兵師団が渡河し一帯の陣地確保を行うまでの予定でした。先頭を進む第29自動車化歩兵師団は15日中に渡河開始予定だったので、最長でも二日間の任務でしたがその間、グデーリアン配下の部隊は二個装甲師団のみとなってしまいます。ついでにこれ以降、第10装甲師団は第19軍団の主力を追いかける形になるのですが、後続の機械化歩兵が随伴して理想的な形での進撃となっていました。
一見すると極めて順調に見えますが、実はこの段階でフランス側の反撃第二段、恐らく電撃戦の中で最大最強の作戦が進めてられていました。ただしグデーリアンはその作戦の存在すら知らずに終わったと思われます。実際、その回顧録にそういった記述は見られません。なんで、と言えば作戦に参加した部隊は、またもほぼ戦わずして全て蒸発してしまったからです(笑)。もうホントにどんどん消えて行くんですよ、フランス軍。その代わりストンヌに向かった第10装甲師団と大ドイツ歩兵連隊が電撃戦中、最大規模の死闘に巻き込まれる事になります。これが唯一の抵抗でしたが、グデーリアン軍団の主力が西に向かった後、こんな場所でどれほど善戦しても全く無意味なのでした。戦術的に善戦しても作戦的、さらには戦略的に無意味では何の役にも立たぬのです。
その辺りの状況を見て行く前に、一点だけ確認をして置きまする。フランス軍の戦車部隊の弱点についてです。
■消えるフランス装甲師団
ここまでの記事を読んでいただければ、電撃戦の主役は強力な火力を持ちながら高速で移動できる装甲師団(機甲師団)だとお判りいただけたと思います。勝利の鍵は速度なのです。ですがフランス側も戦車は持っており、その数も装甲と火力もドイツ側より優位でした。ではドイツ側のような活躍を見せられなかったのはなぜか。その理由は大きく二つに分かれます。運用と性能です。
〇運用の問題
1. 戦車を主力兵器として考えていなかった
既に指摘したようにフランス軍はあくまで歩兵が主力であり、戦車はこれを支援する兵器という位置づけでした。このため戦車を一定数集めた強力な装甲師団は全フランス軍で四個師団しか無く、後は大隊単位でまとめられた部隊が幾つかあるだけでした。しかもこれらの多くは予備戦力に回され、前線には配備されていなかったのです。前回見たフランス第10軍団の反撃に用いられた第4、第7戦車大隊のように、危機的な状況に送り込まれる予備兵力として運用されていました。これが最初から前線に居れば状況は大きく変わっていたでしょう。
〇性能・装備の問題
2. 歩兵支援が主任務ゆえの性能的欠陥
これも既に指摘したように装甲、火力ではフランス軍の戦車の方がドイツ軍より優秀でした。ですがそれ以外の面、速度で大きく劣っていました。ドイツ側の戦車が整地された道路で40km/h前後は出たのにフランス側主力戦車の一つ、シャールB1
bisは28q/hと10q/h以上低速でした。ただでさえ予備戦力として後方に配置された状態でこの低速性は致命的な欠点となります。先に優位な地点を占めるために全力で走っても勝ち目がないわけですから。実際、次回に見る5月15日、フランス第2軍最後の反撃作戦ではこの欠点が致命的な役割を果たす事になります(例外的にフランス戦車でもソミュアS35だけは40q/h出たとされるが)。
ちなみに余談ですが「電撃戦という幻」ではフランス戦車は航続距離でも劣った、とされますがこれは筆者フリーザー氏の誤認です。航続性能はドイツ戦車と大差ありません。それにしてはフランス戦車は肝心な時に燃料切れを起こしている印象が強いのですが、これ燃料補給にやたら時間を食う構造だったため(フランス軍には燃料補給に便利なジュリカン(Jerrycan)は無かった)、恐らく常に満タンまで給油ていなかったからだと思われます。
3.無線が無い
常に歩兵部隊と共に行動し、単独で歩兵支援戦闘を行う任務を行うフランス戦車には基本的に無線がありませんでした(指揮官用車両など一部にはあったらしいが)。このため「全軍、予定の配置に展開せよ」となった後、「オヤビン、西から敵機甲部隊が接近中でヤンス」「なんだと、全軍、呼び戻せ」「…え、どうやって?」みたいな、冗談のような状況が続発、これがフランス戦車部隊の悲劇に繋がって行くことになるのです。
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