■長篠という土地

ではその決戦地となった長篠の戦場はどんな土地なのか、というと
再びグーグル大地様の画像で見るとこんな感じです。
ただし右上のマークで判るように、この画像では北がややズレており
真上になってないので注意。

この戦場、設楽ヶ原の戦い、という名前からも、
広い原っぱのようなとこで戦ったんだとずっと思ってたのですが、
実際はこういった山際の谷間、盆地のようなわずかな平地で戦われたものでした。
これは現地に行って初めて知って、驚いた点でもあります。



画像の右端の白い矢印の先が長篠城、そして左端が決戦会場となった平地、
設楽(志多羅)ヶ原で、それぞれの間は約4qあり
普通に歩いて1時間前後という距離ですから、決して近所とは言い難いのを見て置いてください。
その間は結構な高低差のある丘陵部となっており、
ここが邪魔になって設楽ヶ原から見てやや高台にあるはずの長篠城を望む事も、その逆も、不可能です。
(距離約4qで10m以上の高低差があるので、障害物が無いなら地平線の上に見える)



長篠城と設楽ヶ原の間の丘陵地帯はこんな感じです。
画面の中央奥には工場があるんですが、手前の丘陵に遮られてその屋根位しか見えませぬ。
ちなみにこの写真は地元の資料館、新城市 設楽ヶ原歴史資料館の屋上から撮ったもので、
手前に見えてる谷津の田園地帯が地元認定の設楽ヶ原決戦場、という事になってました。
ちなみに正面の丘陵地の左側が家康本陣とも解説されてます。

…もはや誰も実際の現場を見たことがある人間が居ない以上、断言はできませぬが、
この奥により広い平原があるのに、こんな狭い場所で万単位の人間を展開させて戦争するとは
とりあえず私には思えないのですが…。



この一帯で、もう一つ重要なポイントが川の深さと流量の多さ。
とくに長篠合戦の時は梅雨ど真ん中でしたから、相当な流量になってたと思われます。
写真は長篠城跡からみた乗本川(現在の豊川下流)で、上の一般道の赤い橋と比べても
かなり深い渓谷になってるのが判ると思います。

設楽ヶ原周辺は、基本的に北東方向が山地部で南西方向が平野部となっており
さらに高低差も大きいため、一帯の川は結構急流になってます。
これを対岸から渡るとなったら一苦労であろう、という点はこの戦闘の後半で
重要なポイントになって来ますから、覚えておいてくださいませ。

ちなみに上の巨大な橋脚は新東名高速のもの。
手前の線路は長篠城跡を分断して走ってる(笑)飯田線の線路。
小諸城と言い山県城と言い、城跡を分断するのが好きだな、かつての国鉄…。



長篠城から決戦会場の設楽ヶ原までを略図にするとこんな感じです。
この図ではちゃんと真上が北になってます。
濃い緑が山地、あるいは丘陵で大軍の移動、展開はもちろん、戦場にも向かない地域です。
対して薄い緑が平地と呼べる一帯になります。
まあ、あくまで大筋のものであって、細かい平地とかはまだ他にもあるんですけど。

で、まず気が付くのは長篠城のよく考えられた築城位置です。
山間が南北から迫り、そこに街道が二本、川の両岸沿いに走り、
しかも周囲が川に囲まれてます。
(街道は20世紀に入ってからの地図によるので、当時の位置と多少違う可能性もあるが、
城周辺に関してはここしか通れる場所が無いので、ほぼ変わってないだろう)

ここを抑えられてしまったら、街道沿いに進むことは極めて困難であり、
街道を通れなければ、後はかなりの高低差を持つ山地ですから、
規模の大きい軍の移動は不可能に近いでしょう。
いい場所を抑えたな、という城であり、
さらに深い渓谷になっている川が天然の要害になっており、これは攻め難かったと思われます。
これは徳川としても武田としても、確保したい城塞でしょうね。

同時にこれは西の設楽ヶ原で戦ってる武田の軍勢が信州方面に撤収する場合、
この城を取っておかないと、退路すらままならない、という事を意味します。
ここを抑えられてしまうと、 街道沿いに撤退ができない以上、大軍が組織を維持したままの撤退は不可能です。
この点も合戦で重要な意味を持ってきますので、覚えておいてください。

もう一つ、城に関して注目なのはその南東にある鳶(トビ)ヶ巣山で、
ここは宇連川と別所街道を挟んで長篠城と対峙する位置にあります。
よって、ここから城全体を見下ろすことができる要衝でした。
このため、武田軍もここに陣地を築き、攻城戦を進めるのですが、
後に織田・徳川連合軍にとっても、重要な戦術目標となり、
ここの攻防が、合戦の行方を決める一因となって行きます。

丘陵部のほかに戦場の地域を限定する要因となってるのが、
地図の南を流れる乗本川であり、これが戦場の南部境界線になります。
でもって、ここから設楽ヶ原を挟んで北側にある平地の端までは南北で約3qほど。
これは大型火砲が無い時代の合戦としても、
万単位の人間がぶつかるにはギリギリの地形幅でしょう。
武器を持った状態の兵を一人あたり1m以下の幅に押し込んだとしても、
左右に展開できる人数は3000人前後、3段に構えたとしても、最前線には1万人も並べられないはずです。

これを逆手に取ったのが織田・徳川連合軍で、わずか3q前後の距離ならと、
陣地前にズラッと防護柵を築いてしまいました。
つまりこの狭い地峡に野戦陣地を設営してしまったわけで、簡易要塞化とでもいうべき戦術です。
この点はまた後で見て行くことにしましょう。


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