■長篠の合戦に関する資料の話

最初は今回の記事に使用する資料について。

私の知る限り、長篠の戦いに参加していた、あるいは関係者といえる立場だった
同時代人による記録は三つしかありません。まあ、おなじみの三点ですね。

■信長公記 /太田牛一

■三河物語 /大久保彦左衛門

■甲陽軍鑑 /高坂弾正 他


この内、信長公記の作者は織田家の、三河物語は徳川家の、
甲陽軍鑑は武田家の、それぞれ家臣ですから、
参加した全軍団のそれぞれの記録があるわけです。
今回の記事は主にこの3つの資料を参考にまとめて行きます。

余談ですが、信長公記は本来、信長記と呼ぶべき本ですが、
小瀬 甫庵による通俗小説版の信長記と区別するため、“公”記と表記します。
(厳密言えば信長記も正式な名称ではないのだが)

甲陽軍鑑の信憑性は常に疑われるところですが、合戦部分の記述に関しては
天然ボケ、あるいは勘違いや錯誤が見られるものの、意図的な改ざん、
後世の適当な想像、と思われる部分は少ないように感じますので
ここでは資料として採用して行きます。

ただしこれらの作者の内、ほぼ確実に戦場に居たと思われるのは、
三河物語の大久保彦左衛門だけです。
三河物語によると、この年から国境周辺で戦働きを始めた、と書かれており、
この年の徳川家の主な合戦はこの長篠と年末の二股城攻めだけですから、
おそらく長篠から参加してた、少なくとも戦場には行っていたと思われます。
(翌天正四年の犬居城攻めを初陣とする資料があるが出典が不明だし、
そもそも計算が合わない)

信長公記の太田牛一は元は弓の腕前で鳴らした武将ですが、
長篠の戦いのときはすでに50歳近かったはずで、合戦に参加していたかはわかりませぬ。

ただし長篠の戦いは、信長公記の中では例外的に記述が詳細である事、
ある程度の頭、物頭として足軽を率いての参戦なら、40を越しての合戦参加も
珍しくないので、戦場に出ていた可能性は高いと思われます。
織田家でも既に滝川一益、柴田勝家あたりは既に50歳を超えてたはずですし。

一方、武田側からの資料である甲陽軍鑑の著者とされる高坂弾正は
この時、上杉家への抑えの軍団を率いて
本国に残ってましたから、間違えなく合戦には参加していません。
それでも参加者から直接、話を聞けた立場の人ですから、
もっとも重要な資料がこの三つ、と言えるでしょう。

さらに後世の資料となると、いくつかあるのですか、特にこの戦いを詳しく記述してるのは
合戦後、130年近くたった18世紀初頭に書かれた四戦紀聞の三州長篠戦記です。

幕臣の根岸直利が宝永二年(1705年)ごろに完成させたという本ですが、
これは1904年の日露戦争に関する記述を西暦2034年にまとめました、
といったくらいの時間差ですから、とても一次資料と呼べる本ではありませぬ。
なので信用性は微妙なので、あくまで補助資料として、参考する程度とします。

ただし、なぜか世の中に出回ってる長篠合戦の話は
この後世の作、四戦紀聞の三州長篠戦記をそのまま採用したものが多いです。
戦前に書かれた歴史読み物の古典ともいえる、
菊池寛の日本合戦譚などでも、ほぼそのままの内容が書かれてます。
(日本合戦譚は菊池寛本人は半分も書いてない、という話が昔からあるが…)
そしてその日本合戦譚を元ネタとした多くの亜流作品もほぼ同じ内容になってしまってます。

他にも寛永年間の1642年ごろ完成した
寛永諸家系図伝(寛永譜)などにもいくつかの証言が載ってるようですが、
戦闘の状況を述べたものではない事、こちらも戦後70年近くたったからのものなこと
などから、今回はこの資料には当たってません。
というか、この資料は素人に手が出るようなもんじゃないですしね。

ついでに、明治期に陸軍参謀本部がまとめた長篠の役という本があり、
これまた後の長篠の戦に関する記述に大きな影響を与えてる本となってます。
よって後ほど、多少、その内容に触れるかもしれません。

ちなみに書籍以外の資料としては有名な長篠合戦図の絵があります。



画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/


長篠合戦図はなぜか屏風絵の題材としてよく好まれたもので、19世紀に入っても、
まだ新たにその作品が描かれたりしてました。
写真はそんな幕末期の長篠合戦図。ここまでくると既に300年も昔の風景なわけで、
想像で描いた、以前の絵を参考にして描いたとしか考えようがないわけです。

もっと古い作品もあるのですが、それでも合戦から50年以上は経ってから描かれており、
当然、現場に居た、あるいは関係者に話を聞けた人物が描いたとは思い難いものがあります。
よって今回の記事では、これらの絵に関しては資料として採用しません。完全に無視します。

同様に、幕末期から明治期にかけて、長篠合戦古戦場図なる
戦場の各武将の配備位置を記した図が出回ってますが、これも根拠が全くわからないので
ここでは参考程度にするにとどめます。

最後にちょっと脱線して、こういった歴史関係の調べものと報告に関して、
個人的に「ゾウとネズミ」「アインシュタインの災難」と命名してる現象について説明させてください。
今後、こういった機会もないと思うので。

まずは「ゾウとネズミ」現象から。
人の歴史は当然、人が造ったモノであり、人物の価値判断と評価が避けて通れませぬ。
ここで問題になるのが、評価する側とされる側の能力差です。
例えば商店街の草野球チームで打率1割の豆腐屋のオヤジさんが、
プロ野球の3割打者の打撃技術を評価しても、なんら説得力はありません。

これはゾウを見て来たネズミに、どのくらいの大きさだった?と聞いた時、
この位だったよ、とネズミが脚を目いっぱい広げてたところで、
実際のゾウの1/10の大きさにもならぬ、という話に似ています。

ゾウの大きさを評価する側がネズミ程度の存在の場合、
どんなに頑張ってもゾウの大きさを再現する事はできない、という事です。
すなわち評価対象の人物より矮小な人物が、これを正しく評価する事はできません。
彼らが示した評価はしょせん、ネズミの両脚サイズまでのものであり、
本来のゾウの大きさとはまるで異なるものとなります。

よって歴史書の場合、書き手の人間性の見極めが極めて重要で、
コイツはネズミのくせにゾウの大きさを説明する気なんじゃないか、
という疑問を常に持っておく必要があるのです。

この点、判断が楽なのが司馬遼太郎さんで、その価値判断はほぼ全幅の信頼が寄せれます。
ただし「坂の上の雲」で膨大な戦場記録を処理ながら作品を仕上げる、
という作業を体験する前に書かれた、初期の作品戦国期の小説などは、
ほとんど資料を調べておらず(笑)、代表作の一つともいえる信長の「国盗り物語」なんて
信長公記すらまともに読んでないと思われるフシがありますが…。

それでも歴史的な意味の判断、人物への的確な評価は見事で、
些末な事実関係なんてどうでもよく、その点においてとても重要な人なのです。
ちなにに「覇王の家」あたり以降からは、戦国小説でも
相当に資料を調べてから書かれてますので、その点は誤解無きよう。

当然、この記事の読者の皆さんも、書き手であるアナーキャの器の大きさを
常に疑いながら読む必要があるわけで(笑)。
これを個人的に「ゾウとネズミ現象」と呼んでおります。

お次は「アインシュタインの災難」現象。

これは何らかの調査結果を単純に公表するのではなく、
すでに評価が確立してる定説を否定する形にして人目を引こうとする愚行を指します。
一種の有名税のような形で、この手の愚行を一手に引き受ける事になってる
アインシュタインに同情して、個人的に「アインシュタインの災難」と呼んでます。

この結果、世界中のトンチキな自称天才科学者たちによって、
オレの考えたステキ物理学が、相対性理論は間違っていた、
というタイトルの元に次々と100年近くに渡って発表され続けてるわけです。

これは既に評価が固まってる人物と定説を否定することで、
自分がそれらより優秀であると示そうとする、という安っぽい自己顕示欲なんですが、
歴史、戦史の著述でも結構よく見られます。

歴史分野の場合、よく標的にされるのが司馬遼太郎さんで、
司馬さんは間違っている、オレがここに正しい新説を発表してやる、
といった書籍が未だにチラホラ見かけられます。

まあ、歴史の評価なんてのは個人の価値観次第ですから、
いろんな意見がありましょうが、それなら自分の考えはこうだ、と書けばいいだけです。
とにかく有名人の名前を引っ張り出して、それを否定することで
自らの優秀性を誇示しよう、という皆様方の話は9割がた間違いなくカスですね。

同様に自分の意見を最初から定説の否定で展開するような場合、
結局、何が言いたいのがよくわからず、
単なる自己顕示欲の発露に過ぎない事が多いので要注意です。

この2点を考えながらさまざまな資料を当たるだけで、
無駄なものを読まなくて済む確率が大幅に跳ね上がりますから、
頭の片隅に置いておいて、損はないと思います。

さて、といったところで、本題に行きましょうか。



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