長篠の戦いに至るまで

長篠の戦いは織田・徳川連合軍と、武田軍の全力決戦であり、
武田家の没落を決定付け、同時に織田信長包囲網の最有力軍団が脱落する事で
信長の覇権にむけて歴史が大きく動くことになった戦いでした。

とりあえず、なんでそんな戦いが起こったかを理解するために
当時の状況の確認をして置きましょう。
ちなみに日付は特に注記が無い限り旧暦で、現在の暦だと
+1カ月したぐらいの日付になります。
(大よそだが4月なら現在の5月といった感じになる)
なので長篠の合戦があった5月21日は梅雨の真っただ中だった事になります。

最初にざっとした年表を。

 1572年(元亀3年)  12月 京都に向かって西進中の武田信玄、三方ヶ原で徳川・織田連合軍を破る
 1573年(元亀4年/天正元年)  
 4月ごろ 陣中で信玄死去。

  織田信長、足利義昭を追放、元号を天正に変更
    徳川家康、武田側の長篠城を攻略
  信長、浅井、朝倉家を一気に攻め滅ぼす
 1574年(天正二年)
 2月 武田勝頼、織田領の明智城を攻略
 6月 武田勝頼 徳川領の高天神城を攻略
 1575年(天正三年)  
 3月 徳川領 足助に武田軍 出兵。
 4月 6日、信長、石山本願寺と三好康長の挙兵に対し出陣。28日に岐阜に帰る
    武田勝頼、岡崎城に向けて南下。その後、仁連木城へ向かうが撤収
 5月 1日ごろ 勝頼、長篠城を攻める。
    21日 長篠の合戦起こる


長篠の戦いの2.年前、元亀四年(1573年)の初夏、徳川家、織田家を粉砕して
京都方面に向かおうと西進中だった武田信玄が陣中で病死していますが
信玄亡き後も、まだまだ武田軍無敵伝説は現役であり、
日本中から恐れられる存在のままでした。

その後、勝頼が武田家を継いでいましたが、
信玄の死については秘せられおり、
勝頼に跡をまかせて隠退して暮らしている事になってました。
よってこの段階で、織田、徳川側が信玄の死を知っていたかはわかりません。
恐らく死んだはず、と考えていたと思いますが、確証は無かったでしょう。

勝頼率いる武田家は信玄の遺志を汲み、京都に居る室町幕府の将軍 足利義昭、
そして大阪にある石山本願寺と共謀して信長包囲網を維持するため、
南西方面の徳川家と織田家に圧力をかけ続けることになります。

その武田家との戦いの矢面に立たされ、
最も激しくやり合っていたのが家康率いる徳川家でした。
元亀3年(1572年)の年末に信玄率いる武田軍により真冬の三方ヶ原で
完敗を喫したものの、有力な武将の損失は無く、このため以後も果敢に戦い続けるのです。

とりあえず信玄の死後、武田軍団が甲斐に引き上げると、すぐに徳川側から反撃にでます。
まだ信玄の死に確証を持てなかったこの時期に、武田家を平気で刺激してるわけで、
家康もただのタヌキではありませぬ。

同時期の元亀4年(1573年)の夏に信長は将軍 足利義昭を追放し、
その実権を奪って事実上、室町幕府を滅ぼしてしまいます。
これによって反信長同盟を主宰していた義昭がその力を失った事になり、
その記念に(笑)信長は年号を改元、夏からは天正元年としました。

この天正元年(1573年)の夏に家康は、浜松の北西にあり、
三河から信州に向かう伊那街道を抑える要衝、長篠城を武田側から奪っています。
さらに武田側を裏切って徳川についた奥平貞能とその息子を城主として入れました。
この城が、今回の記事の対象である長篠の戦いの原因となって行くのです。
ただし翌年の天正二年(1574年)四月、今度は浜松の北東に位置する犬居城を家康は攻めたものの、
武田側に撃退されたと三河物語にはあるので、常に攻勢が上手く行っていたわけではないのですが。
(そもそも意外に短期決戦型な性格の家康は城攻めが苦手だ)

この時期の抗争の舞台になった地名をざっと地図に入れ見るとこんな感じになります。
武田家の本拠地は甲府、織田家はこの時期だと岐阜ですが、
信長は京都にもよく長期逗留しており、必ずしも常に岐阜に居たわけではありません。
徳川家の本拠地は浜松ですね。



長篠城が徳川側に落ちた直後、天正元年(1573年)の秋に、織田信長は長年の宿敵だった
浅井、朝倉の両家を同時に滅ぼしてしまってます。
これで将軍 義昭に続いて、信長は北からの圧力からも解放され、
以後は西の大阪の石山本願寺と毛利家、東は武田家をその仮想敵国としてゆく事になります。

対して武田側はその翌年、天正二年(1574年)の2月に織田側の明智城を、
さらに6月に入ってからは浜松からわずか30q東の位置にある
徳川側の高天神城を落として、織田・徳川連合に対してやり返してます。

ちなみにこの高天神城攻めの時、徳川側は単独で後詰め(救援)するのは無理だと判断し、
織田信長に援軍を依頼していました。
1年半前の三方ヶ原の戦いでは、救援をやや渋った印象がある織田家ですが、
既に足利家の将軍は追放済み、浅井、朝倉の脅威も除かれていた
この段階では気前よく信長自らが出陣してます。
この救援に関しては信長公記、三河物語両者に出てくるので、
間違いなく行われたと見ていいでしょう。

ただし、ここでちょっと問題が。
信長公記によると、6月5日に徳川側から高天神城への救援要請があり、
その後、信長は6月14日になってから本拠地である岐阜から出陣したとされます。
すなわち救援要請から出陣まで9日かかったわけで、素早い行動には見えません。
後の長篠の戦でも、援助の要請を受けてから出陣まで10日以上かかっており、
これを信長が徳川の救援にあまり乗り気でなかったから、と見れなくもないのです。
この点は、さて、どうなのか。

信長公記で他に陣触れを出してから実際の出陣までの時間が記載されてるものでは
先にも触れた天正二年(1574年)1月、武田勝頼が織田領内の明智城へ攻めて来た例があります。
この時は1月27日に明智城へ武田勢が押し寄せた、との一報があり、
その後、信長が出陣したのは2月5日となっており約1週間ほどの日数がかかってます。
(旧暦なので1月は29日、あるいは30日までしかない)

他には天正四年(1576年)石山本願寺攻めの時、荒木村重、明智光秀などの軍勢が
逆に本願寺勢に破られ、ピンチを迎えた時の事があります。
この時は敗報が届いたのが5月3日、
救援のための信長の出陣が5月5日で、その間わずか2日です。

ただし指揮官としての信長が先行し、本隊は後から来る、という形だったため、
その軍勢はわずか百騎の手勢のみであったとされ、
その2日後になっても3000騎しか揃わなかった、と書かれています。
となると万単位の軍勢を動かすには準備期間4日ではとても足りない、という事です。

糧食の手配、部署割、進撃路の割り振り(数万の軍勢が細い街道に殺到するのだ)
などを段取りしていると、準備に1週間以上はかかってしまう、と考えて良さそうで、
徳川からの救援要請に応じた信長の行動は
機敏では無かったかもしれないけど、遅いとも言えない、といったところでしょうか。

ただしこの時の高天神城救援大作戦は浜松の直前、
浜名湖の手切りの渡しまで信長が進んだところで
城内で寝返りがあって落城してしまい、間に合いませんでした。

ついでにこの時、これを迎えに来た家康に、軍資金として持って来たものか、
信長は革袋二つ分の金塊を馬ごと送ったと信長公記にはありますから、
信長も家康にはある程度、気を使っていたようです。



といった感じで、長篠の戦い直前の時、織田・徳川連合と、武田家の勢力圏内の線引きは
上の地図で見るような、緑の点線の辺りとなっていました。
浜松に本拠を置く家康としては、あまり気が休まらない前線の展開ですね。

ただし同時期、勝頼の野心的な活動により、武田家は北の上杉家も
完全に敵に回してしまったため、
南の徳川家、北の上杉家を同時に警戒する必要がありました。
これによって、後の長篠の戦いでは全軍の出撃ができず、
勝頼は高坂弾正に上杉への抑えの軍を預けて、
それ以外の陣容で南に向かう事になってしまいます。

一方、織田信長はこの長篠の合戦の前の時期には、主に京都に居り、
公家問題の対策などに奔走してました。
そして信長公記によると長篠の戦いの2カ月前、天正3年(1575年)の3月ごろ
武田軍団が今度は浜松の北西にある徳川領、足助方面に軍を進めてきます。
この時、京都に居た信長は、急遽、その嫡男である信忠に尾張の兵を与え、
徳川側の応援に向かわせました。
ただしこの時も救援が間に合わなかったのか合戦の記録はありません。
(前後の状況からして武田側に城は落ちたらしい)

ところが間もなく、天正3年(1575年)の春に西の大阪の石山本願寺と
河内(大阪南部)に居る三好康長が兵を起こしたため、
信長は4月6日に京都を出陣、その鎮圧に向かい、以後はその戦いで手一杯となってしまいます。
この辺り、大阪の本願寺が武田側と連絡を取り合って織田、徳川の分断を図っていた
可能性が高いのですが、私が知る限り、この点に関して明確な資料は無いようで、断言はできません。

とりあえず、この信長の多忙をついて動いたのが武田勝頼でした。
三河物語によると、当初、徳川側で奥郡(現在の渥美半島の辺り)で土地の代官をしていた
大賀弥四郎という人物が謀反を試み、勝頼に内通します。
岡崎城には家康の長男、信康が入っていたのですが、大賀は自らの手引きで
城内に武田の軍勢を引き入れようと勝頼に申し出、これを受けて武田軍は南下を開始するのです。

ところが大賀と共に謀反に参加していた山田八蔵が徳川側にこれを密告、
すぐさま大賀は捕まり、さらに別の一人が武田側の二股城に逃げ込んだため、
この謀反は失敗に終わってしまいます。
(ちなみにその後、大賀は足の筋を切ったうえで首から上を出して地面に埋められ、
周囲の人が自由にノコギリで首を切れる、ノコギリひきの刑にされたとされる)

これを知った勝頼ですが、なぜかその南下を止めず、岡崎城の東、
浜松と岡崎の中間あたりにあった仁連木(二連木)城を攻めて来るのです。
最終的にこれを徳川側は撃退して北に追い返すのですが、
北東へ向かった武田軍は、そのままでは帰れぬ、とばかりに途中にあった
長篠城を攻めに掛かったのでした。

ここに長篠の戦いが始まる事になるわけです。
この時、追撃中の徳川軍は長篠城から10q前後南西の野田城まで入ったあと、
応援を要請していた織田軍の到着を待つことになります。
すでに一戦を交えて、これを撃退していた徳川軍がなぜここで織田軍を待ち、
長篠城をすぐに救いに行かなかったのかは、どうもよくわからない部分ですが…。

ついでに例の三つの資料にはこの前後の日時の記述が無く、よく判らないのですが、
四戦紀聞には長篠城攻め開始が5月1日となってます。
信長公記によると、4月20日ごろ三好康長の降伏の申し出を受け入れるまで、
信長は2週間近くにわたって10万近い軍を率いて大阪周辺で連戦していました。
最終的に、本願寺勢は捨て置く形で4月28日にようやく岐阜城に帰還してます。
おそらく信長が先に帰還、軍勢はその後から帰還してるはずですから、
まさに河内の戦いからようやく帰ってきたばかりのところに、徳川からの応援要請が来たと思われます。

あるいは、河内における信長は、三好康長の降伏をあっさり認めたり、
石山本願寺に手を出さずに岐阜に帰ったりしてるので、
仁連木城前後の戦いから、既に徳川からの救援要請があり、
このため、大阪方面の戦いを急遽片づけて帰還したのかもしれません。

ちなみに武田側の記録である甲陽軍鑑には、徳川の度重なる救援要請にも信長は動かず、
このため、家康はこのままだと武田側に寝返るぞ、と脅し、
ようやく信長は出陣した、という事になってます。
この辺りはよく引用される部分ですが、ウソでしょう(笑)。

すでに見たように、織田家は高天神城、足助城と、すでに二回も徳川からの
救援要請には応じており、この時だけ渋る理由がありません。
そもそも信長としては、その軍団は帰還したばかりであり、
そう簡単に次の出陣ができるわけでは無いのです。

家康はこの間の事情を知ってるはずですし、
そういった安っぽい脅迫をやる男ではありませぬ。
救援が遅れたように見えるので、こういった話が出て来たのでしょうが、
信長としては最善を尽くしていた、と見ていいと思います。

ちなみに岐阜から岡崎経由で長篠に向かうこの遠征で、
信長は岐阜を出た5月13日に名古屋の熱田神宮で1泊してます。
(遠回りしてるように見えるが山地を避け、大軍が街道沿いに移動するため
最短ルートを取っていない結果だろう)

織田家の内紛に近い尾張国内の統一を果たした後、
合戦前に信長が熱田神宮に寄ったのは、信長公記で確認できる限り
今川軍団を急襲して奇跡のような勝利をあげた桶狭間の時と、この長篠の戦いの時だけです。
(ちなみにどっちも寄ったと書かれてるだけで、参拝したかは不明。
さらに桶狭間の時は本殿ではなく、外宮の上知我麻(かみちかま)神社の名が出てくる。
ついでに尾張の国内内紛中にも、一回寄った事はあった)

信長本人は神仏なんて微塵も信じない男でしたが、
その軍団の兵は一般人であり、あの無敵の武田軍と戦うのだ、という恐怖を抑えるため、
織田家にとって縁起のいい熱田神宮に立ち寄って景気づけをやったのかもしれません。
この段階では信玄が死んでいる、という確証もなかったはずですし。
(二年半前の三方が原の戦いには織田軍の援軍も居て、やはり散々な目にあわされてるのだ)

とりあえず信長は翌5月14日には岡崎城に入り、その後、17日には野田城に到着、
ここに長篠の城を攻める武田軍、それをやや離れてけん制する徳川軍、
そして救援に駆け付けた信長軍団、という状況となり、長篠の合戦の準備は整う事になるのです。

といった感じで、今回はここまで。


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