■大量生産の外で

で、第二次世界大戦に自分から参加した国はこれまで見てきた以外にも当然、ある。
ヨーロッパ南部のお洒落なアイツことイタリアと、
世界中が忘れがちな彼こと日本閣下ですね。

なぜこれらの国に触れていないか、というとその答えは簡単。
「大量生産をやってない」からでその理由は「ヘンリーが教えなかったから」だ。
よって、この二つの国は、事実上、生産という面で戦争に参加してなかった、と思ってよい。



イタリアを代表する戦闘機の一つであるMc.202だが、総生産数は1500機前後と言われる。
ほかの国の主力機は1万機、2万機なんてのがザラであることを考えると、かなりショボイ。
つーか、性能云々以前の問題として、戦力になってないだろう。
が、イタリアでは全金属製ボディの単発戦闘機だと、だいたいここら辺の数が限界なのでした。



イタリアに関しては、フォード、輸出はしたが、現地生産は一切していなかったらしい。
その結果、イタリアの伊達男たちは、フォード式大量生産なんぞ全く知らなかった。
フィアットだ末期だ、否、マッキだといった戦闘機がどんなに量産されても、
せいぜい1500機前後まで、という辺りから、だいたいその生産力は想像がつくだろう。

日本の場合は先にも書いたように、1924年(大正13年)末にフォードが進出、
1925年から早くも最終組み立て工場を稼動させた。
これはあくまでほとんどの部品をアメリカから持ち込むノックダウン式だから、
大量生産のノウハウ、という面からみれば、ほとんど学ぶ所はない。
(ちなみに横浜市子安のフォード工場跡地は現在マツダのR&Dセンターになっている)

だが、1935年(昭和10年)ごろ、フォードは国内産業保護に動き出した日本に対し、
部品まで日本製とした完全生産工場の建設を申し出る。
フォード式大量生産システムが日本にもたらされるチャンスが訪れたのだ。

が、これを日本政府は、陸軍の主導下で握り潰す。
1936年5月に成立した「自動車製造事業法」。
これによって、国内資本以外の自動車メーカーの活動を、事実上停止に追い込むのである。

国内の自動車メーカを保護し、軍部への供給を確保しようとしたのだが、
保護するもなにも、当時の日本に産業と呼べるレベルの「自動車工業」はなかった(笑)。
結果、これから育てなければならない産業の芽を自ら刈り取った事となり、
その結果…まあ、戦争でケチョンケチョンにされます。


 

まあ、日本もがんばった。
ゼロ戦なんか10000機近くも造ったんだぜ!癒えー!否、イエー!

でもね。
ほぼ同世代機で、ゼロ戦よりちょっと生産期の短い
Fw190なんてゼロ戦の倍近い20000機造ってるんでゲルマン。
ついでにゼロ戦より2年近く生産期間の短いF6Fも12000機オーヴァーで
ゼロファイターの2割増しの生産量でヤンキー。

まあ、ドイツ、イギリス、アメリカあたりと比べると、
仮にも主力戦闘機の生産数が1万機ちょっと、
というのはかなり寂しい。その数、ハリケーン以下なのである。

しかもドイツのMe109、Fw190、イギリスのスピット、ハリケーン、
アメリカのP40、P47、P51、F6FにF4Uとどれもこれも1万機なんて軽くクリア。
対して日本の戦闘機で1万機を越えたのは、ほんとうにかろうじてゼロ戦がクリアしたのみ。
あとは一式戦 隼の5000機チョイ、ついでに四式戦 疾風の3500機前後で
ベスト3ですから、えー、まあ、その、…がんばれ。




昭和61年、NHKがこの件を取材して番組にし、後に角川文庫から
「フォードの野望を砕いた軍産体制」という本になって出版された。
その中に、この件に関する、ヘンリーのコメントが載っている。
「(前略)日本の軍部は国産自動車でまかなおうとしているらしいが、
自動車工業というのは、そんなに甘いものではない。
軍部は、ほんとうに日本のためを思っているのか」
この点については、ヘンリーが完全に正しかった。
日本は、自らの手で、最大のチャンスを切り捨てたのである。

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