■ソ連と呼んでよロシア?
ヘンリーの三大嫌いなモノベストテン四天王は
「ユダヤ人」「労働組合」「単純大量生産に向かない車」
だったのだが、なぜか労働組合の親玉のようなソ連での現地生産を1929年に決定する。
この時期のフォード社は、ヘンリーによる完全独裁帝国だから、間違いなく、ヘンリーの意思だ。
これはスターリン自らの要請、と言われるから、ヒットラーとスターリン、
その両方にヘンリーは繋がっていた事になり、まあ、わけがわからん(笑)。
このとき、ソ連から研修生をアメリカの工場に受け入れ、
さらにはアメリカの技術者も何人かソ連に送った。
至れりつくせり、と言っていい。
余談だが、ヘンリーとフォード労働組合の対立は1937年、
「陸橋の戦い」と呼ばれるヘンリー直属ヤクザ部隊vs労働組合員の暴力衝突に発展、
その時の写真が新聞に載って大々的に報道され、ヘンリーはえらく評判を落とします。
で、この時、労働組合を指揮していたウォルター・ルーサー(Walter
Reuther)は、
1929年の契約で、ソ連に送られた技術者メンバーの一人だったりするんですね。
余談ながら、ルーサーは、戦後、
あの
全米自動車労働組合(UAW)のトップを勤め、
アメリカで最も有名な人物の一人にもなるのですが、それらの資料を見ると、
「ルーサーは自費で世界一周をしている途中、たまたまソ連のゴーリキーに立ち寄り…」
という記述が多く見られる。
…そんな都合のよすぎる話はないやろー(笑)。
この話の出所は、多分、ルーサー自身だと思いますが、
素直に「フォードの金で、仕事としてゴーリキーの自動車工場に行った」
と見るべきかと。
で、後で書くように、ソ連はヘンリーに恩を仇で返すようなまねをして、
その上、結果的に労働組合の幹部まで育ててしまったわけですから、
まあ、踏んだりけったり。
もしかすると、ヘンリーの共産主義嫌いは、この1935年ころから後で、
ナチスラブなのは、もう本当に心のそこから単純に、
「ユダヤ人が嫌い」という、その一点からだけだったのかもしれない。
そもそもフォード社は革命前、共産主義国家になる前からロシアに輸出をしては、いた。
主な輸出商品は、車ではなく、例のフォードソンブランドによるトラクターだったようだ。
革命後、一時途絶えていたそのパイプは、徐々に復活し、
やがて1929年、よりによって大恐慌発生直前という最悪のタイミングで、
フォードはソ連政府との共同出資で本格的な自動車製造に乗り出すことになる。
みんな大好きフォードソンのトラクター。
革命前、帝政時代のロシアにおいて、農業代化の切り札のような存在だったらしい。
写真は軍用トラクターだが、フォードソンブランド、ロシア国内では、
農業用トラクターメーカとして、かなり知られた存在だったようだ。
当然、共産主義国家のソ連に株式会社は存在しないから、
その施設は「ニジニ・ノヴゴロド自動車工場(NNAZ)」と言う名で、
モスクワの東にあるゴーリキー市(現ニジニ・ノヴゴロド市)に設立された。
生産が終了して、余剰になったT型フォードの生産ラインは、
ソ連に丸ごと売却された、という話もあるから、
もしかしたらここに運びこまれたのかもしれない。
工場はやがて「ゴーリキー自動車工場」(GAZ)と名前を変え、
この「GAZ」が、後にソ連を代表する自動車製造工場になって行く。
知っている人もいるかもしれないが、GAZは
GAZA(ゴーリキー自動車)と名を変えて、
ソ連崩壊後も、ロシアにおける巨大企業の一つとなっている。
で、前にも書いたように理論段階ですでに間違っている(笑)共産主義、
当然のごとく、1935年ごろには破綻が訪れる。速いなあ(笑)。
そこに持ってきて世界的な不況に巻き込まれ、どうもフォードへの
支払いが不可能になった結果、ソ連政府は一方的に全てを踏み倒し、
工場を強制接収したようだ(笑)。
うーむ、それでこそソ連だ。イカスぜスターリンのダンナ。
(ソ連側の資料だと「アメリカの支援で工場を建設」となってるとか。モノは言いようだ…)
で、提携期間中に得たノウハウと、残された生産器具を、ソ連はおいしくいただいた。
第二次大戦中、GAZはフォードのA型を中心に、その改良型であるトラック、
さらにはフォードお得意のトラクターなどのコピーをガンガンに造りまくる。
共産主義国家による「無断コピー商品」のルーツはここら辺ではなかろうか(笑)。
アメリカ兵から見れば、「ソ連兵までアメリカのトラックに乗っているぞ!」なのだ。
ソ連のトラックは、ほとんどフォードA型そのまんまのボンネット&運転席なデザインとなっていて、
あきらかに時代遅れなのだが、米国からレンドリースされた最新型トラックを
併用することで、戦争後半以降を乗り切って行く。
アメリカ本国では1932年の段階で生産は終わっていたフォードA型トラック。
フォードは、これの生産設備もソ連に持ち込んだらしく、
それを寄贈された(ソ連側主張)ソ連は第二次大戦まで、
このトラックを造りまくる事になる。
よって、モータリゼーションなんて火星人並みに縁のなかったソビエト陸軍の連中が、
戦争中、まがりなりにも機械化された歩兵部隊を運用できたのは、フォードのおかげだ。
クリスチー戦車と、フォードの大量生産システムがソ連の陸軍に与えた影響を考えると、
あの国の軍隊は1/6ぐらいはアメリカ製だと言っていい気がする(笑)。
ゴーリキーの自動車工場、GAZはソ連を代表する戦車、T-34も造っていた。
一時、後期型ともいえるT-34/85の開発チームもここにいたらしい。
ただし、生産数そのものは、全体数から見てそれほど大きなパーセンテージとならない。
とはいえ、ゴーリキーに伝えられたフォード式大量生産システムの与えた影響は、
ソ連の兵器生産全体で見ても、決して小さくなかったろう。
徹底的に余分を省いて効率化する、というT34にも見られるその生産方針は、
あきらかにヘンリー フォード式なのだ。
で、ゴーリキー市は独ソ戦の最中にもほとんど戦闘に巻き込まれてないから、
GAZの工場では、ソ連の顔とも言えるT-34戦車も造りまくった。
よって少なくとも、ゴーリキーで生産されたT-34は、フォードの血が流れてる(笑)。
とりあえず、大戦開始4年前までに、ソ連は十分、
ヘンリー式大量生産術を学んでいたのである。
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