姉川の合戦

今回は姉川の合戦について説明して置きましょう。

この合戦は横山城攻防戦の一環として発生したものですが、創意も工夫もっあったものでは無い、平地で真正面から両軍が激突する力勝負の戦いでした。そもそも織田軍はまともに参加しておらず、徳川軍が信長守って大暴れという以外、特に見るべき点はありませぬ。やっぱり頭使わない戦いでは徳川最強、というだけの合戦です。よってちゃっちゃと片づけちゃいますよ。

ちなみにこの合戦の信頼できる史料としては「信長公記」「三河物語」「朝倉始末記」の三点があります。



その名の通り、姉川が流れる土地のすぐ横、琵琶湖に流れ込む直前の平野部で起きた合戦でした。
夏真只中で(太陽暦で7月末)に川沿いの平地で戦われた、という事は戦場は田んぼであり、泥沼の戦闘になったと思われます。ただしそういった記述はあらゆる記録に無いので、この点はあくまで筆者の推定です。

戦いの前提条件

姉川の合戦は織田軍の一部&お手伝いで呼び出された徳川軍 VS 地元の浅井軍&越前の朝倉軍の激突でした。ただし後で見るように、織田側の参加戦力は美濃三人衆と信長の親衛隊とも言える馬回り衆だけで、主要武将は横山城の城攻めに張り付いていたと思われます。よってほとんど徳川軍が一人で大暴れ状態となってしまうのです。

ちなみに地元で信長を迎え撃つ事になった浅井家は元々は織田家の同盟者であり、当主の浅井長政の奥さんは信長の妹、お市さんでした。ちなみに美人で有名とされる人ですが、私の知る限り、当時の史料で彼女の容姿に触れたものはありませぬ。とりあえずあの弾正織田家の一人ですから、かかあ天下だったと推測してますが、これも証拠はありませぬ。とりあえず浅井長政が信長を裏切って怒りを買った結果発生したのが姉川の合戦でした。

浅井長政がなぜ信長を裏切ったのかと言えば、織田家と同盟しながら北陸の越前一帯を治める朝倉家とも古くから繋がりがあったからです。このため姉川の合戦の二か月前、1570(元亀元)年旧暦4月に信長が朝倉領に攻め込むと、両者の板挟み状態になってしまいます。ここで浅井長政は織田を捨て、朝倉と組む決断をするのですが、なぜそんな決断をしたのかは信頼できる資料が無いために未だに謎です。私だったら奥さんの市さんが怖いし、朝倉の義景は優柔不断だしで、絶対にそんな事しませんが。実際、信長は浅井長政を信頼しきっており、その裏切りの報を聞いてもなかなか信じなかったと「信長公記」にあります。

余談ながら、度胸も知恵も信長より上なのに、女に生まれたばかりにブサイクな浅野長政に嫁にやられたことを根に持っていたお市の方が暗躍、信長を殺して自分が天下を獲ろうとして亭主をけしかけた、とするのが山科けいすけさんの傑作歴史漫画「SENGOKU」ですな。戦国時代を理解するのにもっとも優れた四コマ漫画だと思うので(笑)、興味のある人は一読をお勧めします。

この時の浅井の裏切により、越前攻略のため敦賀に入っていた織田軍は本拠地の岐阜へ繋がる連絡路を断たれ大ピンチとなります。浅井家の支配する琵琶湖東岸は敦賀、そして越前と岐阜の連絡路だったのです。そもそもこうなると、浅井の本拠地である小谷城から目と鼻の先の距離にある織田家の本拠地、岐阜城が信長不在中に攻め込まれてしまう恐れすら出てきます。

よって信長にはもはや撤退しか手がありません。その結果として行われたのが有名な金ケ崎の撤退戦です。退路と補給路を断たれた織田軍は秀吉の部隊を殿軍として金ケ崎城に残して逃げ出すのです(これも凄まじい話なんだけど今回の記事とは関係ないので省く。この時、援軍として現地に居た家康は信長から何の連絡を受けておらず捨て置かれる形になった(三河物語)。後に秀吉が使者を遣わして初めてこれを知り撤退する。そんな目に会いながらも、家康は再び姉川の合戦のために駆けつける。不思議な関係と言うほかない。単なる利益を基にした同盟ではないと思うべきだろう)。

織田軍は来た時と同じ美浜経由でいわゆる鯖街道に入り、朽木から琵琶湖西岸に抜けて坂本経由で京都へ撤退します。この時、朝倉軍が追撃南下して来た場合に備え森可成が坂本の南にある宇佐山城(のちに志賀城)に入るのですが、これが日本の合戦史上最大の奇跡とも言える後の志賀の戦いの伏線になります。

当然、この浅井の裏切りに信長は激怒しました。このため岐阜に戻って態勢を立て直すと、あの野郎、ぶっ殺してやると、舎弟の家康を再び呼び出して関ケ原を超え、浅井家の本拠地、小谷城へと向かうのです。金ケ崎の撤退から二か月後、同年の旧暦6月の事でした。
浅井側もそうなる事は当然予想しており、越前の朝倉に救援を求めたのですが、当主である義景は出てこず、家臣の朝倉景建(かげたけ)が軍団を率いてやって来てました。せっかく助けてもらったのに本人は出てこないのかい、という所であり、朝倉義景という人物がよく判る話でもあります。

合戦に至るまでの両軍による城攻め

この時の信長は旧暦6月19日に岐阜から出陣(現在なら7月後半、すなわち梅雨明けを待っていたと思われる)、二日後の21日には浅井家の本拠地である小谷城を攻めます。だがこれを落とせず、翌22日に一旦兵を退きました。どうもこの辺り、記述があいまいながら、恐らく浅井軍に押し返され撤退したのだと思われます(信長公記)。

金ケ崎の撤退戦から僅か二か月という織田軍の準備不足、そして信長の性格を知る浅井側が防衛準備を徹底していた、などで織田軍側に不利な戦闘が続いたのでしょう。とりあえず22日の段階で関ケ原の手前、弥高(やたか)山の下まで退くのですが、翌23日には反撃に移り、24日には浅井側の横山城を包囲、これを攻めます。城の北側にある姉川南岸の龍ヶ鼻砦を本陣として、浅井の本拠地、小谷城との連絡を絶ち、城を囲んだのです。これを見た浅井は朝倉軍の到着を待ってから、横山城救援の後詰(後巻)として小谷城の南西約3.5qの位置にある大依山砦に入り、織田軍と対峙します(信長公記)。対して徳川軍も27日に到着(三河物語)、これで両軍の陣営が揃った事になりました。

では例によって国土地理院様の立体地図機能でこの辺りの位置関係を確認して置きましょう。

出典  国土地理院地図のツールにより作成 


浅井・朝倉連合軍の大依山砦と織田・徳川舎弟軍団の龍ヶ鼻砦の間は約4qほどの距離があり、そこからさらに1.8kmほど南に、浅井側の城、横山城がありました。この城の東を通る街道が関ケ原に通じており、小谷城の前衛とも言える城となっています。普通に考えると、最初にここを落とすべきなんですが、なぜか信長は小谷城に直行、その攻略に失敗してからここまで戻り、改めて城攻めに入るのです。なんでやねん、と思わざるを得ない部分ですが、理由は不明です。行けると思って無視したんだけど、後から街道を封鎖され、挟撃される恐れが出て来た、とかですかね。

本来はその横山城を攻めるために置かれたのが龍ヶ鼻砦なのですが、結果的に横山城の救援に来た浅井・朝倉連合軍との決戦の本陣となりました。 家康率いる徳川軍はここに決戦前日の27日に到着してます(三河物語)。

 

龍ヶ鼻砦と横山城周辺を西側から見る。
この丘陵は龍が伏した形に似てる、という事で臥龍山と呼ばれ、その先端にあった古墳を龍の鼻に見立てた名のようです。現地の案内だとこの古墳が信長の本陣となってますが、普通に考えて、視界を確保するためもっと高い場所、丘陵の頂上位置に本陣を置いたはずです。配下の部隊だけを下の平野部に置いた、と見るべきでしょう。

その砦の尾根続き、1.8km後方にあるのが関ケ原から小谷城へ向かう街道筋を抑える横山城でした。
最終的に織田軍は姉川の合戦後に攻め落としてます。その後、秀吉が城主デビューしてここに入り、織田家の対浅井戦線の担当者となりました。その時期に城の麓、画面右側の田んぼの真ん中辺りに住んでた居た石田三成が木下家に入る事になるのです。

光成はここで生れ、近所の佐和山城(彦根城のすぐ隣にあった)を後にもらい受け、すぐ南の関ケ原で破れるわけで、これだけ狭い範囲に人生のハイライトが集中する戦国期の有名人物も珍しいかもしれません。当然、小谷城も近所ですから、そこで産まれた秀吉の側室、長政と市さんの娘である淀君にも光成は強い思い入れがあったと思われます。



姉川の堤防の上から北を向くと、浅井・朝倉連合軍の陣地、大依山砦がよく見えます。凡そ標高350mで、一帯を眼下に治める理想的な位置でしょう。ちなみにすぐ近所に見えますが、ここから約3qの距離がありにけり。横山城が織田側に囲まれたのを見て、その救援のためにここまで進出、陣を張ったのでした。

とりあえず、ここで両軍の兵力を確認して置きましょう。

 織田徳川連合  浅井朝倉連合
 織田軍 1万人(三河物語)  浅井軍 5000人(信長公記)
 徳川軍 3000人(三河物語) 5000人(朝倉始末記)  朝倉軍 8000人(信長公記) 
 計 1万3000〜5000  計1万3000(信長公記) 3万人(三河物語)

両軍の人数を全て記述した史料が無いので正確性は微妙ですが、人数的にはほぼ互角と見ていいと思われます。ただし三河物語が浅井朝倉連合は計3万人としてるのが気になりますが、ここでは著者本人も参戦していた可能性が高い信長公記の記録を採用して置きます。その後の展開を見ても、そこまで浅井・朝倉連合軍が数的優位を持っていたとは思われないですし。

ただしこれは姉川の合戦に参加した人数で、横山城の浅井軍、城攻めに残された織田軍の人数は含まない数字です。

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