戦闘経過

「信長公記」によると27日の夜明け前に浅井・朝倉連合が突然、大依山砦から陣払いした、すなわち居なくなったとされます。これを見て横山城の救援を断念して撤退したのだろうと思っていたら、翌28日の「未明」に姉川の北、三田、野村の二つの集落に表われて陣取ってしまうのです。ちなみに現代語で「未明」は夜明け前の深夜ですが、この時代の記述にはあまり見られない単語で、どの時間帯をさすのか判りませぬ。

ただし、この辺りの説明は謎が多く、これがこの合戦の内容を判りにくくしています。ざっと並べただけでも、

■一万を超える大軍が、視界を遮るものが無い平野を南下して来るのに織田軍はなぜ気が付かなかったのか

■浅井・朝倉連合軍は約3q南下するだけなのに丸一日かかっている。なぜここまで進撃速度が遅いのか

■浅井・朝倉連合軍が1q近く離れた三田と野村の集落に分散して陣取ったのはなぜか。


などなど理解に苦しむ部分が多いです。現状、これらの謎には明白な回答が無いので、ここではこれ以上考えないで置きます。いずれにせよ織田軍は横山城を先に片づけるつもりだったのに、そうも行かなくなり、28日の早朝から両者の決戦が始まる事になります。もっとも、後で見るように織田軍が「決戦」と呼べるような戦力を投入したかは疑問が残るのですが…

ちなみに「信長公記」だと28日未明に突然出現した敵と戦う羽目になった、といった記述なのに対し「三河物語」では織田軍は既に27日の段階で翌日の決戦を予期し、その出陣の準備をしていたと述べています。ここで家康は自分が二番手だと知り、信長に一番手へ変えて欲しいと願い出るのですが断られます。ところが家康は若武者の自分が二番手では恐れをなしたと思われる、是非一番にして欲しい、さもなければ帰らせてもらう、とまで言いだし、最終的に一番手を任される事になったと「三河物語」にあります。

一番手は当然、手柄も大きいですが、もっとも激烈な戦場に突っ込む事になりその損失も甚大です。織田家の武将でない家康が手柄を上げても得るものは無いですから、これは純粋に織田家のために働きます、という家康からの宣言だったと見るべきでしょう。信長ですら遠慮していたのに、家康自ら最も危険な部署を願い出たのです。これで織田家の兵は最も危険な場所に投入されずに済んだ事になり、同時に横山城の城攻めに主要戦力を温存できました。家康、金ケ崎で一度は見捨てられかけたのに、なぜそこまでするの、と思うところ。ホントに不思議な関係なのです、この二人。

ここで再度、両軍の位置関係を確認しましょう。



浅井・朝倉連合軍は姉川の北、500m前後の位置にある二つの集落、西の三田と東の野村に分散して着陣しました(信長公記)。ただし単純に浅井勢、朝倉勢に別れていたのか、それとも別の形で分散していたのか、信用できる史料には一切の記述が無いので不明です。当然、総大将となる浅井長政がどちらに居たのかも判りません。

ここで一番手を任された徳川軍は、夜明けと共に龍ヶ鼻砦から出撃、まずは西の三田集落に居た軍勢へと突っ込んで行くのですが、「信長公記」では敵味方が姉川を超えてぶつかり合った、「朝倉始末記」では朝倉軍は姉川を超えて攻めた、とあるので、先に浅井・朝倉連合軍が川を超えて襲撃して来た可能性もあります。

ここまでの記述は「信長公記」も「三河物語」も同じですが、その後の展開の記述がやや異なります。

まず「信長公記」では、残る東の集落、野村に居た敵に対し美濃三人衆、すなわち稲葉、安藤、氏家の三人の軍勢が向かい、信長の馬回り衆(直属の護衛。一種の親衛隊に近い)がその援護に回ったとだけ述べられてます。すなわち織田家の主要武将は合戦に参加してない、という事です。

21日の小谷城攻め段階では柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、木下藤吉郎(秀吉)、蜂屋頼隆という織田家の主要な武将の名が「信長公記」にずらりと出て来るのに、姉川の合戦には全くその名が出てこないのです。すなわち織田軍の主力はまともに戦ってない、という事になります。よって横山城攻めの陣地から外されず、この合戦には参加してなかった可能性が高いです。家康が一番手を請け負った、というのは織田軍の主要武将が横山城攻めにそのまま専念できるようにした、という事だったのかもしれません。

それでも特に問題があったという記述は無く、大乱戦で押しつ押されつの戦いになったが、最終的に千百人の敵の首を取って勝利した、そのまま小谷城まで敵を追いかけたが、堅牢な城ゆえ攻略は諦め、周囲に放火するだけにした、その後に横山城を攻め落とし、木下藤吉郎(秀吉)がそこに置かれた、と述べられています。すなわち、主力を投じるまでもなく勝っちゃった、おかげで横山城攻めも順調に進んだ、という事です。ただし具体的な記述はありませんが、馬回り衆が参戦した以上、信長閣下はこの戦いに指揮官として参加している、と判断していいでしょう。

対して「三河物語」では織田軍の参加武将に関する記述はなく、織田軍は一万人、徳川軍は三千で打って出たとだけあります。その後、押しつ押されつの大乱戦になった、という点までは一緒。その後、家康軍は敵を打ち破って前進、追撃に入ったが、織田軍は信長の本陣近くまで切り込まれてしまっていた、そこで家康の軍勢がこれに切り込み敗走させた、となっています。このため信長は「今日の合戦の勝利は家康のお手柄だ」と褒めた、と。戦に勝った、という点は同じですが「信長公記」には無い、織田軍のピンチの記述があるのが特徴です。

この点、敵の朝倉家関係者によって書かれた「朝倉始末記」は非常にあっさりした記述となっていますが、これも紹介しておきます。「朝倉始末記」では川を渡って攻め込んだのは浅井・朝倉連合軍で、織田軍を打ち破ったものの、徳川軍の五千が頑強に戦ったので信長は岐阜に逃げてしまった、とされてます。徳川軍が大活躍なのは一緒ですが、こちらでは織田軍は敗走した、と述べているのです。

ちなみに横山城が落城した点については「信長公記」以外に記述が無いのですが、この時期に織田家の支配に入ったのは間違いないので、この点は信用していいと思われます。

■まとめ

さて、ではこの戦いのまとめに入りましょう。とりあえずほぼ間違いない結論として

●信長の当初の目的、小谷城を落とし、浅井家を滅ぼすは達成されなかった。戦略的には敗北と言っていい。

●ただし浅井家の重要な拠点だった横山城は奪ったし、その攻城戦の中で発生した姉川の合戦でも事実上、勝利したと見ていい。
実際、この後の浅井・朝倉連合軍はじり貧で、以後、織田家との決戦を回避してるうちに体力が無くなって滅ぼされてしまう。


よって織田軍の戦術的勝利、短期的には戦略的敗北、ただし長期的には戦略的にも勝利、というのがこの戦いだったと思います。

意外に見落とされがちですが、姉川の合戦は横山城の救援のために発生したモノであり、主目的は横山城の方なのです。よって「信長公記」の記述の通り、織田軍の主力はこれに参加せず、横山城の攻城戦を続けていた、と考えるのが無難でしょう。とりあえずこの合戦に投入された美濃三人衆の軍勢は弱かった、という事でもあります(笑)。

といった感じで、今回はここまで。

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