■5月6日
さて、いよいよ決戦前夜、X-4日の5月6日です。
この翌日からいよいよ珊瑚海海戦が始まるのですが、
この日の夕方から始まっていても不思議は無かった、という辺りも見て置きましょう。
この日もとりあえず、北側の日本海軍の動きから。
ちなみにデボイネに基地建設部隊が上陸した日がわからない、と先に書きましたが、
戦史叢書 49巻の記述によれば、この日の午後に
先行していた部隊が上陸、水上基地建設を始めてるようです。
さて、4日の午後にラバウルを出たポートモレスビー攻略部隊の艦隊に、
ツラギ攻略部隊から輸送艦(おそらく2隻)が、この日の午前中に合流してます。
その後の予定としては翌7日夕方にデボイネ横の
ジョマード水道(この海域で大船団が通過できる唯一のルート)を通過する予定でした。
そして、ようやくこの日の午後遅くになってから、
MO主隊全体の護衛を受けることになります。
まあ、まだ敵の勢力圏内ではないので、これでも十分だったのでしょう。
ちなみに祥鳳の艦載機がこの日も艦隊上空の護衛にあたってましたが、
こちらも現地時間の昼頃からで、まだそれほど緊迫した状態ではなかったようです。
ただし、この日も2機のアメリカ側哨戒機(B-17らしい)を追い払ってます。
ちなみにMO主隊は現地時間8時半の段階で補給を打ち切り、出撃しており、
このため空母 祥鳳は十分な補給を受けてないままだったのは先に書いた通りです。
お次は南のアメリカ軍の動きを見てしまいましょう。
前日5日朝に全艦隊が第17機動部隊(TF17)として合流した後、
再度補給に入り、この日の夕方まで続いてました。
最初の補給と言い、常に2日近くかかってるわけで、
機動部隊の補給の困難さが知れますが、
対する日本の機動部隊、MO機動部隊の空母は、実は海戦に至るまで、
合計でもせいぜい数時間の補給時間しか取れてません。
この辺りは護衛の巡洋艦の数が半分以下しかない事、
(羽黒 妙高の2隻のみ。対してアメリカはTF44を別にしても5隻)、
さらに5月1日にラバウルを出航する段階で満タンだった、
といったところが原因としては考えられます。
が、それでも、この作戦中、合計で4日近く補給に費やしてる
アメリカ海軍の空母機動部隊と比べると、かなり対照的な状況ではあります。
この点を優秀か否か、で比べた場合、明らかに日本側の方が優位に立ってます。
ただし、詳細は不明なので、実際は日本海軍は常に燃料切れ直前の状態で戦ってた、
という可能性もありますが…。
余談ですが、後に1944年(昭和19年)のマリアナ沖海戦、すなわちあ号作戦の時、
瑞鶴は戦闘終了後、帰りの燃料が不安になってしまいます。
よって護衛に付いていた駆逐艦 初月を何も言わずに呼び寄せてから(笑)
その燃料を抜き取る、という事をやってます(初月艦長 田口大佐の証言による)。
とにかく空母は高速も出る代わり、大食いだったようです。
そしてこの日の午後、フレッチャーはパールハーバーの太平洋方面司令部から、
新たに日本側の空母3隻がソロモン海に入ったこと、
それと別行動を取ってるポートモレスビー攻略部隊も
ラバウルから南下して8日ごろデボイネ近辺を通過する見込みである事を知らされます。
先に見たように実際の日本側の計画では7日の夕方ですが、
それでもかなり正確な敵情把握と言っていいでしょう。
この段階でポートモレスビー攻略部隊を始めとする日本艦隊は
アメリカ陸軍の哨戒機に発見されてたのですが、
その全ての情報が海軍に渡っていたわけではなく、
さらに翔鶴、瑞鶴のMO機動部隊はまだ発見されてませんでした。
よって、ここまで詳細な情報となると、やはり暗号解読による、と思われます。
で、この情報を受け取った段階で、補給は完全には終わってなかったのですが、
フレッチャーはすぐさまこれを中断、日本軍の出現予定地点、
デボイネ(正確にはその横のジョマード水道)に向けて全艦隊を出航させるのです。
8日ごろここを通る、という事は翌7日には空母からの攻撃圏内に敵が来る、
という事を意味したからですね。
とりあえず夕方まで補給を行った後、アメリカ海軍の機動部隊は
給油用の補給艦、USSネオショーとその護衛駆逐艦、USSシムスを分離、
別行動を取らせて次の補給地点に向かわせます。
高速の機動部隊が、低速艦の非戦闘艦を艦隊から切り離すのは
当然の行動なのですが、これが後に珊瑚海海戦の行方に
決定的な影響を及ぼすとは、オシャカ様でもご存じあるまい、
すでにあの人2500年前に死んでるしね、というところでしょう。
さて、ここで同じ地図をもう一度。
でもって、この日の主役は活動を始めたばかりの
ツラギ水上基地から飛び立った九七式飛行艇(大艇)でした。
この内の一機が、ついにアメリカ機動部隊を発見するのです。
最初は10時10分(現地時間)に
ツラギの南東192度(北を0度して360度で表すのでほぼ真南)
約420海里(778q)の位置を針路190度、速度20ノットで大艦隊が航行中、と報告します。
そしてその20分後、10時30分に艦隊には空母が居る、
という決定的な情報を報告するのです。
その後、この機体は3時間近く接触を維持し、しかもレーダーを持ってる
アメリカ側の艦隊に気付かれなかった、という幸運に恵まれました。
これは日本海軍の大ヒットと言っていい発見です。
なせにこの段階で日本のMO機動部隊は発見されておらず、
(日本側もまだ見つかってないと考えていた)
しかも先に書いたように、この時、アメリカ側機動部隊は補給中で、
低速航行ゆえに何もできない状態にありました。
ただし、いくつかの点でこの報告は怪しい部分があり、
これがこの後のMO機動部隊の行動を鈍らせた可能性があります。
まず、最初の接触で敵艦隊の位置を知らせた後、3時間近く接触を続けながら、
以後全く現在位置を報じてません。
よってMO機動部隊としては最初の10時10分(現地時間)の
情報をもとに敵位置を推測するしかなく、
彼らの報告書の多くが午前9時(現地時間11時以降)敵情を得ず、としてるのはこのためです。
戦史叢書は12時(現地時間14時)の情報までは受信してるのだから、
この報告はおかしい、MO機動部隊司令部は情報を生かしてない、と非難してますが、
場所の情報がないんですから、MO機動部隊としては以後の打電は参考にしようがなく、
この点を非難するのは的外れでしょう。
次に、報告されている位置が南すぎること。
当時、アメリカ機動部隊は南緯15度付近のツラギ南方に居たはずで、、
どんなに遠くても距離で700qを超える事はないと思われます。
778qはあり得ない、と言っていい数字で、
実際は100q以上近い670q前後南、が正しい位置じゃないでしょうか。
そして最大の問題は、敵艦隊の針路を190度(南南西)と報告してしまったこと。
アメリカの空母機動部隊は上の地図に書いたように
この日は北西に向かっており、途中で一時的に反転、南東に針路を取りますが
とりあえず常に東西方向に移動してます。
針路190度、ほぼ南に向かっていたのは、ほんの一瞬、
北西から南東に向けて反転した時のみです。
たまたまこの時に接触してしまったのか、方位を読み誤ったのか、
判断がつきませんが、これは致命的な誤報で、
この後のMO機動部隊の行動に強い影響を与えてしまいます。
南に向けて航行、という事はまだ逃げてる、という事であり、
420海里(778q)という距離の誤りと合わせて、これは追いかけても追いつけない、
という先入観をMO機動部隊に与えてしまったと思われるからです。
さらに、この翌日、7日のMO機動部隊の索敵活動まで、
誤った方向に導いてしまうのです。
そして航行速度を20ノット(約37km/h)と報告してしまったのも問題でした。
この時は補給中であり、そんな高速で移動してるはずがありません。
実際、6日におけるアメリカ機動部隊の移動距離は400q前後に過ぎず、
時速にすると平均17km/h前後で、時速10ノットも出てないのです。
ついでに、報告では最後まで空母1隻しか発見しておらず、
さらに戦艦1、重巡1、駆逐艦5としており、どうも数があいません。
戦艦はよくある重巡の見間違いだと思いますが、
それでも重巡だけで艦隊には7隻居た事を考えると、3時間近い接触の間、
これらに気が付かなかったのだろうか、という疑問は残ります。
ただしこの点は、アメリカ側の資料が残ってないだけで、
(というか私が知らないだけかもしれぬ)
例によって補給中は両空母が100海里(185q)近く離れて
行動していた可能性も高いです。
この辺りの事情をまとめると、
■現実のアメリカ機動部隊の状態
ツラギから650q前後南方の珊瑚海を東西方向に低速で移動中だった。
■九七式飛行艇(大艇)の報告
ツラギから780q前後南方の珊瑚会を高速で南に向かってる。
この差は極めて大きい、と言っていいでしょう。
先にも書いたように日本海軍が空母航空戦の
開始距離としていたのは240海里(約444.5q)でした。
(瑞鶴二代目艦長(第二次ソロモン以降) 野本大佐の証言による)
多少余裕をもって220海里(約407.5q)としても、
敵までの距離が650q、しかもこちらの目の前を横切る航路(T字である(笑))
で低速移動中なら、250qも南下すれば、これを攻撃圏内に捉える事ができます。
翔鶴、瑞鶴は最大26ノット(約48km/h)での長距離航行ができましたから、
5時間前後の南下で敵を攻撃圏内に捉える事ができる、という事です。
実際、この日、MO機動部隊が敏速に行動を起こしていれば、そうなったはずです。
10時30分に九七式飛行艇(大艇)が空母の存在を確認、
この無電の内容をMO機動部隊司令部が知ったのが10時50分。
光の速さで進む無線連絡がなんで20分もかかったのかよくわかりませんが、
(暗号解読があったにしても極めて短い文章なのだ)
とりあえず、そこから全力出航するには、4日の朝と同じく40分あれば可能なはずです。
となると、11時半に全力で南下を開始すれば、午後の16時半ごろには敵を攻撃圏内に捉えられます。
ほとんど赤道上ですから、5月の日没は18時半前後であり、
十分、一撃のチャンスはありました。
もっとも、到着が17時過ぎだとアメリカ側も補給を終わっており、
上空援護の機体はすでに上がっていたと思われますが、
日本空母機動部隊本体への反撃は索敵が間に合わず、不可能だったでしょう。
よって、かなり一方的な展開になったはずで、この段階での攻撃成功があれば
翌日の祥鳳の悲劇を防ぎ、ひいてはポートモレスビー攻略部隊撤収という、
戦略的な敗北も避ける事ができたはずです。
(もっともここで勝ってもポートモレスビー周辺に戦闘機だけで200機近く持ってる
アメリカ陸軍をどうするか、という問題が残ってるが…
ちなみに調べてみたら、やはりアメリカ陸軍、
例の陸に上がったドーントレス、A-24をポートモレスビーに持ち込んでいた。
ここに突っ込んだら攻略部隊はもちろん、祥鳳、翔鶴、瑞鶴もただでは済まなかったろう)
が、九七式飛行艇(大艇)からの報告では距離778qで、
さらに高速で南に向かってる、との事でしたから、
これはどう計算しても追いつくのは不可能です。
でもって、この報告に影響された、と思われるMO機動部隊の反応は
極めて緩慢なものになってしまうのでした。
上空から艦船を見つけるのは比較的楽だ、と日本海軍は思っていたのですが、
実は南洋にはサンゴ礁があり、これが強い風と波を受けるとまるで船が航行してるように見える、
という自然現象に何度も惑わされる事になります(笑)。
高速で(通常時速150q以上)で飛んでる航空機から見ると、
せいぜい時速30〜40qで航行してる艦船なんて止まってるようなもので、
周囲に比較対象がない海上では、その移動速度、そもそも動いてるのか、
という判断ですら、意外に難しいのです。
ちなみに、日本軍の場合、陸上の監視所まで同じ誤判断をやっており、
浅瀬に生じる白波を敵の上陸艇と誤判断した結果、
フィリピン防衛戦初期の大混乱が起きたのでした。
ちなみに上の写真は高度6000m前後から見た本物の船ですが、周囲に比較対象がない状態で、
その大きさ、速度をどうやって求めるのか、というのはかなり難しく、
先に見た九七式飛行艇(大艇)の情報の錯誤もある程度は仕方ないでしょう。
逆に言えば、情報を受ける側もその辺りを考慮して受ける必要がありました。
もっとも、この辺りは、一定の訓練を積めばもっと正確な観測はできたはずで、
やはり索敵、偵察をどこか馬鹿にしていた日本海軍の過失、ともいえる気がします。
ただし進行方向だけは、船の立てる白波に対して機体を平行に向ければ
比較的簡単に判断できたはずで、なんで上のような大間違いが起きたのか、よくわかりません。
磁石が狂ってたのか、あるいは風に流されて機体が傾き、
進行方向を勘違いしてしまったのか…
とりあえず、この九七式飛行艇(大艇)は
確認できるだけでも5回にわたって情報を打電してるのですが、
二度目の報告、空母ありと知らせた時に針路190度報じた後、
以後、全く修正してませんから、3時間近く接触していた最後まで
その間違いに気づいてなかった可能性が高いです。
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