■新しい朝が来ちゃった

というわけで、両軍ともに相手を間違えて全力攻撃だ、
というよくわからないシンクロぶりを見せた5月7日の戦いは終わりました。
日米の空母機動部隊はその夜の間、一定の距離を取るために南北逆方向に航行し、
その結果、ある程度の距離を維持しながら、5月8日の朝を迎える事になります。

夜に入った後は、どちらもその接触を失っていたため、両軍とも、
この日の朝、索敵機を放って敵を探す、というところから始まる事になるわけです。
そして最後の決戦の日となったこの8日も、
不思議なほど、両者の行動は時間が揃ってます。

すなわち、この日もほぼ同時に敵を発見し、ほぼ同時に攻撃をしかけ、そして両者とも
自分たちの優勢勝ちだと思いながら結局、第二波の攻撃隊を出さず、
午後3時ごろまでに戦域から離脱を開始するのです。
(その後でUSSレキシントンが沈んでアメリカ側の勝利気分は吹き飛ぶ事になるが)

そしてこの8日の戦いは、日本側の航空部隊の敢闘が
全てをひっくり返した日、という評価に尽きるでしょう。
数の上で劣勢に立たされていたはずの、五航戦の攻撃隊が、
それまでの上層部や索敵機のスカタンぶりを
その実力で一気に取り戻してしまう事になるのです。

この上層部がスカタンでも現場の戦いは見事だ、という現象は、
以後、日本海軍ではよく見られるもので、
この辺りは、研究の価値があるかもしれません。
…私はやりませんが。

とにかくこの日の五航戦の攻撃隊は、
凄まじいまでの奮戦ぶりだった、と言ってよく、日本の航空部隊が、
アメリカ海軍と正面からぶつかって、ここまで圧倒的な力を示したのは
他にはミッドウェイにおける飛龍から飛んだ攻撃隊があるくらいでしょう。

ミッドウェイの時は、ほとんど最後の力を振り絞って、というものだったので、
正面からぶつかり合って、日本の航空部隊がアメリカ海軍の機動部隊を圧倒したのは
これが最初で、最後でもあったわけです。
ある意味、この日の五航戦の攻撃隊の戦いを書くために、
私はこの記事を延々と続けた来たのかもしれませぬ。

とにかくこの日の朝まで、戦闘の流れは完全にアメリカ側にあったのですが、
戦闘が始まると、完全にほぼ五分、航空戦に限って言えば、
日本側がかなり有利に戦闘を進める事になるのです。
この結果、アメリカは正規空母のUSSレキシントンを失う事になります。
これがこの戦争を通じ、日米ともに最初の正規空母の損失でした。

この辺りは実戦経験の差が出た、というべき部分かもしれません。
日本側の空母が低気圧の中にあって、発見が困難だったとはいえ、
経験が浅かったレキシントン攻撃隊の一部は、
攻撃目標の日本空母にたどり着く事にすら失敗してます。

ちなみに、この段階までの日米両機動部隊の実戦経験を見ると以下の通り。

 五航戦

 USSレキシントン(CV-2)

USSヨークタウン(CV-5) 

 1941.12 真珠湾攻撃

 

 

1942.1 ラバウル攻略

 

1942.2 マーシャル・ギルバート空襲 

 1942・4 インド洋作戦(コロンボ・トリコンマリー)

 1942.3 ラエ・サラモア空襲

1942.3 ラエ・サラモア空襲

 珊瑚海・USSネオショー攻撃

珊瑚海・祥鳳攻撃 

珊瑚海・ツラギ空襲 祥鳳攻撃


この段階でUSSヨークタウンの航空部隊はアメリカ空母機動部隊でもっとも
実戦経験が豊かな連中だったのですが、それでも五航戦に比べると見劣りします。

基本的にこの段階までのアメリカの攻撃は、上陸直後の部隊を奇襲するか、
まともな対空設備の無い前線基地を空襲するかのみで、
相手に十分な戦力がある戦いは、実は前日の祥鳳戦が初めてでした。
そして、幸か不幸かこの時の日本艦隊は晴天の海域に居て発見がたやすく、
さらに祥鳳が居たMO主隊の対空戦闘は、太平洋戦争前半において最低最悪、というのであり、
この結果、アメリカ側は軽微な被害で済むと同時に、貴重な経験を積むこともありませんでした。

対して五航戦側は1942年(昭和17年)1月のラバウル攻撃はほとんど仕事がなかったものの、
それ以外では十分に、実戦の場数を踏んでました。
奇襲とはいえ、太平洋におけるアメリカ海軍の心臓部、真珠湾への攻撃、
そして敵基地への強襲という形になったコロンボとトリコンマリー、
これらで長距離攻撃の困難さと、激しい対空砲火の洗礼を既に受けていたわけです。
さらに日中戦争からすでに何年も戦場を渡り歩いてきた古参搭乗員も居り、
この差がこの日の戦闘の結果を左右した、と言えるでしょう。

ただし、それと引き換えに深刻な損失を五航戦の攻撃隊は被ることになり、
戦いが終わってみれば、あれだけ強力な攻撃力を誇った
五航戦の航空戦力は、ほぼ壊滅してしまってました。
ゼロ戦の戦闘機隊だけは、やや軽い損失で済んだのですが
それ以外の艦爆、艦攻部隊は大半の機体が失われてしまったのです。

今回は8日の空母艦隊決戦の詳細を見る前に、空母艦隊決戦における
恐ろしいほどの損失率を見てしまいましょう。

先にこの日の戦いによる艦船の損失を見ると、アメリカ側はUSSレキシントンが最終的に沈没、
USSヨークタウンが損傷、日本側は翔鶴が損傷、日本の瑞鶴だけが全空母の中で唯一、無傷でした。
それ以外の艦船は銃撃と至近弾を受けたくらいで、損害らしい損害はありません。

前日の祥鳳、USSネオショー&シムスの損失を合わせると、
正規空母を一隻失ったアメリカの方が少し損失が大きい、と言えます。
が、航空戦力の損耗は、両者とも壊滅に等しく
この点では、ほぼ引き分けと言うのが正当なところでしょう。
艦隊決戦としては日本の優勢勝ち、航空戦としては引き分け、という感じですね。
(戦略的に見るとこの海戦後、ポートモレスビー攻略を放棄した日本側の完敗だが)

ただし航空戦の引き分けは、MO機動部隊司令部のお粗末な作戦によって、
数の上で劣勢に立たされながら、瑞鶴、翔鶴、の攻撃隊が圧倒的な戦闘能力を見せて、
強引に互角の結果に持ち込んだものでした。
本来なら日本側の損失はこんなものではすまなかったと思われます。
よくぞ航空戦で互角の戦果に持ち込んだ、というのが正直なところで、
この日の五航戦航空部隊の戦いは、凄まじいという他ありません。

この点、MO機動部隊司令部にもう少し知恵があれば、
圧勝に終わってたはずの戦いが、珊瑚海海戦なのだ、
というのは再度指摘しておきたいと思います。

ただし、この海戦で受けた航空隊の損失はあまりに大きく、
五航戦は事実上、再建不能な損耗を被る事になります。
このため後に解体されるまで、最後までその戦力が戻る事はありませんでした。

対するアメリカ側で生き残ったUSSヨークタウンの航空隊も損失が激しく、
航空部隊の大半はその再建のため、一度基地に戻されます。
この海戦の後、例の奇跡の3日間でUSSヨークタウンは緊急修理がなされ、
ミッドウェイ海戦に投入されたのはよく知られてますが、船の修理と違って、
航空部隊の機体とパイロットの補充には応急措置が存在せず、
本来なら打つ手ありませんでした。

ところがドンスコイ ドミストリースキー、勘のいい人はああ、と思ったでしょうが、
居たんですね、アメリカには仕事がなくて遊んでた航空隊が。
そう、この1942年(昭和17年)の1月に魚雷食らって長期修理中だったUSSサラトガの航空部隊、
VB-3、VF-3、VT-3で、これらが急遽、USSヨークタウンに乗り込んでミッドウェイに行くのです。
あの戦いで奮戦したUSSヨークタウン航空隊は、その多くが実はUSSサラトガの航空隊なのでした。
(もっとも、なぜか索敵爆撃隊だけはVS-5が引き続き乗り込んていた。
ただしVS-5パイロットの約半分(18人中8人)はサラトガの航空隊から来たもの。
逆にVF-3の戦闘機パイロットの半数以上、27人中16人は
VF-42(42だが以前書いたようにUSSヨークタウンの戦闘機部隊)から来ていた。
ちなみにミッドウェイに参加した日本側の空母航空部隊で、珊瑚海の死闘を経験していたものは無い)



当たり前ですが、空母艦隊決戦は空母が戦うのではなく、その艦載機と乗員が戦うのです。
よって、艦体に十分な収容能力さえあれば、瑞鶴だろが赤城だろうが氷山空母だろうがスターデストロイヤーだろうが問題にならず、
後はパイロットの技量でその勝負が決まります。
(スターデストロイヤーの場合、フォースの能力にもよるが)

このあまりに単純明快な事実を最初に示したのが珊瑚海海戦における五航戦の航空部隊だったのですが、
当時は日米どもに、全くこの点に気が付いておらず、さらに言うなら、海戦後75年近く経った今も、
ほとんど誰も気が付いてません(笑)。

そして、この単純明快な事実、一線級の航空機乗員が居なければ
どんだけ空母があっても意味が無い、という事を、後に日本海軍は1944年になってから痛感する事になるのです。

ちなみに、こう書くと空母と航空機部隊は一心同体少女隊、という気がしますが、
実際は両者の人員の間では、結構トラブルが多かった、という証言もあります。
航空戦が無い時は単なる暇人でしかないパイロットたちに、
艦の乗組員側は、どうも微妙な感情を持っていたようです。

ただし、この点は日本側の話で、アメリカ側ではどうだか私は知りませぬ。



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