■アメリカの空母事情1942

さて、これに対してアメリカの空母戦力はどうだったのか。

まず2万5千トンを超える正規空母は
USSレキシントン(CV-2)、USSサラトガ(CV-3)、
USSヨークタウン(CV-5)、USSエンタープライズ(CV-6)、USSホーネット(CV-8)
の5隻。

2万トン以下、1万5千トン以上の中型空母は
USSレンジャー(CV-4)、USSワスプ(CV-7)の2隻

これが全てです。
ただし中型空母のUSSレンジャーは、
強力な日本海軍空母と戦う太平洋戦線に投入するのは無理だ、
と判断されていたようで、アメリカの空母機動部隊がどれほどピンチになっても、
最後まで大西洋で運用され続けてます。
また、同じ中型空母のUSSワスプも当初その能力が懸念され、
イギリスの支援のため大西洋に投入されてましたが
1942年(昭和17年)5月の珊瑚海海戦でUSSレキシントンが沈んだため、
贅沢は言ってられんと太平洋に回されてます。
ただし、その到着は1942年の6月の下旬であり、ミッドウェイ海戦までの段階では戦力となってません。
(しかもそのわずか3ヶ月後には空母艦隊決戦ではなく潜水艦の雷撃で沈没…
一度もまともに戦闘に参加しないまま沈んでしまった)

また、この時期のアメリカでは、
商船改造の小型空母(後の護衛空母)の試作と量産が始まりつつあったのですが、
1942年までは試験中か、ほとんどがイギリスに送られたため
これも戦力になってないと考えていいでしょう。
どっちにしろ、速度が遅すぎて空母決戦に使えるような艦ではありませんし。

さらにアメリカ海軍初の空母、USSラングレーがこれまた現役だったんですが、
これは既に空母としては使えぬ、という事で水上機母艦に改造され、
しかも開戦後まもなく日本軍に撃沈されてしまってます。
…艦になってからも踏んだりけったり人生だな、ラングレー教授…。
(スミソニアン航空宇宙協会のボスにして、ライト兄弟のライバルだった
あのラングレー閣下から名前を取ってる。彼については以前ここに書いた)
よって、これも戦力外と見ていいでしょう。

なので、珊瑚海海戦のあった1942年(昭和17年)の5月の段階で、
日米海軍双方の空母戦力は

 正規空母

 中型空母

小型空母 

改造空母 

 日本海軍

 4隻

 2隻

 1隻

 3隻

 アメリカ海軍

 5隻(-1)

 2隻(太平洋には0隻)

 なし

 なし


といった感じで、ほぼ互角、といっていい戦力となってます。
ちなみに日本の改造空母が3隻になってるのは、
1942年の1月に祥鳳(しょうほう)が完成してるため。
でもって、この祥鳳が珊瑚海海戦で海戦史上まれにみる
凄惨なタコ殴りにあって沈没することになるんですが…

ここで注意点としてアメリカの正規空母には
USSサラトガという名の海に浮かぶ不幸というべき存在が居て、
これが事実上、ミッドウェイ海戦後まで戦力になってませんでした。
よって表内でアメリカの正規空母を-1としてます。
さらに太平洋に中型空母はゼロですから、太平洋戦域に限って言えば、
日本側の方がかなり有利だった、と言っていいと思います。

そんなアメリカの正規空母、USSサラトガはまれに見る不幸な艦で(涙)、
開戦直後の1942年1月に潜水艦から雷撃を受けて損傷、
ミッドウェイが終わるまで復帰できず、最初の二つの空母決戦では全く戦力になってませんでした。
よって、珊瑚海海戦とミッドウェイ海戦の時の
日米の正規空母の数は全くの同数と見ていいです。

さらにこの艦、同じ年の8月末、初めてまともに参加した空母決戦である
第二次ソロモン海戦を無事に乗り切った直後に、またも潜水艦から雷撃を受け損傷、
11月まで修理を余儀なくされます。
このため、1942年の半分以上の期間にわたり、USSサラトガは戦力になってません…。

ついでにUSSホーネットも1941年12月の開戦の段階では
まだ就役したばかりで、その慣熟訓練中でした。
この艦が本格的に参戦してくるのは4月のドゥーリトルの東京爆撃に使われた後からです。
(そして半年後の10月の南太平洋海戦で沈められてしまう…)
5月の珊瑚海海戦の時期で、ようやく戦力になっていた、という感じでしょうか。
なので1942年の4月までなら、太平洋は日本の海、と言っていいくらい、
日本側に優位な状況が続いてました。
その間、われらが日本海軍がどこで何をやってたかは、後で見ましょう(涙)…。

で、慣熟訓練が終わったUSSホーネットはドゥーリトルの東京爆撃に参加、その作戦終了後、
ようやく真珠湾に着いた、という段階だったため、珊瑚海海戦には間に合ってません。
これは同じく東京空襲に護衛部隊として参加していたUSSエンタープライズも同様です。
アメリカ側の空母運用も意外に苦労してるんですよ。
(ただし海戦に間に合う可能性はある、として緊急補給の後、真珠湾から出撃してる。
結局、間に合わないのだが、この空母艦隊決戦に全力を投入する、
という基本的な姿勢の違いが、後にミッドウェイの勝敗に繋がって行く)
よって、1942年5月の人類最初の空母決戦、珊瑚海海戦に参加できたのは、
USSレキシントンとUSSヨークタウンの2隻のみでした。

ちなみに空母戦力を一つの機動部隊に集め、
集中的に運用することで、その打撃力を最大限に発揮する、
というのは、日本側の機動部隊が真珠湾攻撃で世界で初めて見せた戦術でした。
この点は見事と言っていいでしょう。
(戦果とそこから得た成果はお粗末だったが)

開戦より1年以上前の1940年6月9日に、当時、第一航空戦隊の司令官だった
小沢治三郎が海軍大臣に提出した意見具申で、
“一つの指揮系統の下で全ての空母をまとめ強力な航空打撃力を成す”という方針が示され、
ここから真珠湾に至る大空母機動部隊の発想が動き始めたと思われます。
(余談ながら、この空母集中運用はオレのアイデアだと
真珠湾攻撃隊の隊長を務めた淵田美津雄が後に回想してるが、かなり怪しいと思う。
この男は平気でウソを付く、というタチの悪い面を差し引いても
空母の集中運用という考え方は当時の海軍航空部隊では既に常識だった印象がある)

以後、日本海軍は真珠湾、インド洋(後述)でこの空母打撃力を
最大に生かす、という作戦を見事に展開します(その後の効果を見ると問題が多いが)。
手持ちの空母は出し惜しみ無しで、一気に戦場に投入してるのです。
が、なぜか1942年の5月から始まる空母艦隊決戦にはこの考えを持ち込みませんでした。
珊瑚海海戦では翔鶴と瑞鶴の五航戦2隻+改造空母1隻だけ、
ミッドウェイでは一航戦と二航戦の4隻だけ、という戦力を出し惜しみをやってます。
インド洋なんかより、そっちの方がよほど重要な目標でしょうに、なんで(笑)?

対照的なのがアメリカで、連中は逆に敵基地攻撃力としての空母は分散運用してました。
恐らく数が足りない、というのと同時に、一箇所にまとめると
敵の反撃を受けて一気に損失する可能性がある、と考えていたのだと思います。
ところが、これが空母決戦となると出し惜しみなしとなり、
1942年の空母決戦では常に全戦力を一つの機動部隊にまとめ、全力出撃させてます。

珊瑚海海戦まで、アメリカ空母機動部隊は日本の前線基地を何度か空襲してますが、
常に全空母戦力3隻(USSレキシントン、USSエンタープライズ、USSヨークタウン)
を二分して、2隻一組の機動部隊と1隻だけの機動部隊にして行動してました。
つまり、打撃力の集中より、分散による利便性と全滅を避けるという安全性を重視してます。

その後、ドゥーリトルの東京空襲の護衛部隊として、USSエンタープライズが抜けると
(B-25を甲板上に積んだUSSホーネットは戦闘機の発進ができないと見られた)
残った2隻が別々に二つの空母機動部隊を形成、活動しておりました。

つまり、敵の基地を攻撃する空襲作戦では、空母の集中運用をやってないのです。



この大きなB-25を空母から発進させて日本を爆撃したんだぜ、冒険だぜベイビー、
という感じでアメリカでは今でも人気が高い歴史上の事件、
ドゥーリトルの東京空襲ですが、協力させられたアメリカ海軍は結構大迷惑でした(笑)。
(写真のアメリカ空軍博物館のB25はその時の機体の再現展示)

新型艦で、まだまともな戦力になってなかったUSSホーネットはともかく、
3隻しかない貴重な太平洋の空母の中の一隻、USSエンタープライズまで
この作戦に持って行かれてしまったからです。
しかも当初は空母から発進したとは秘匿されたため、
その賞賛は全て陸軍航空軍に向かうことに…。
(日本側は墜落機から捉えられた捕虜の尋問により、
初めてドゥーリトルの部隊が空母から発進したと知る。
アメリカ空母機動部隊が日本近海に居るのは発見していたが、
まさかB-25を飛ばして来るとは思ってなかった)

このため、とりあえず残りの全戦力である、USSレキシントンとUSSヨークタウンが
珊瑚海海戦に向かう事になるのですが、アメリカ海軍はここで初めて、
手持ちの作戦可能な空母戦力全てを一箇所の作戦に集中させることになります。

この時、アメリカ海軍は空母決戦における数の集中に非常に気を使っており、
もしかしたら海戦に間に合う可能性がある、という事で、
ようやく東京空襲から真珠湾に戻って来たUSSホーネットとUSSエンタープライズも
緊急補給しただけで、そのまま珊瑚海に向かわせてます。
結局、間に合わないのですが、本来なら手持ちの全空母をこの戦いに集中させたかったわけで
もしアメリカ側の空母4艦がそろっていたら、珊瑚海海戦は全く異なる結果になっていたはずです。
ドゥーリトルの東京空襲は意外なところに影響を及ぼしてもいるんですね。
少なくとも珊瑚海海戦の時に限って言えば、
ドゥーリトル東京空襲は日本にとってプラスに働いてます。

ちなみに、珊瑚海海戦の直前にアメリカの空母機動部隊がツラギ基地を空襲した時は
USSヨークタウンが再び単独行動を取っており、
その後でUSSレキシントンと再度合流して、日本の空母機動部隊を迎え撃ってます。
この辺りは、作戦中常に行動を共にしていた日本の翔鶴、瑞鶴とは対照的です。
あくまで連中が全空母戦力を集中するのは空母決戦の時のみでした。

そしてミッドウェイでも全く同じ傾向がアメリカ軍には見られ、
この時は珊瑚海海戦で損傷していたUSSホーネットを緊急修理して
手持ちの全空母、3隻全てを総力戦で戦場に送り込んでます。
そして、これがアメリカの大勝利の鍵となりました。
(ただしその次の戦い、やや予定外の遭遇戦となってしまった
第二次ソロモンではアメリカ側も空母の集中運用を目論んで無かったが)

対して、理由は全くわからないのですが(涙)、
あれだけ敵基地の攻撃では空母の集中運用にこだわった日本海軍が、
空母決戦では、正反対に分散運用の罠にはまって自滅してるのです。
この辺りの戦術決定は連合艦隊司令部の専任事項ですから、
その原因と責任をつきつめれば連合艦隊司令部、
そしてその最高責任者である連合艦隊長官、コント56号こと
山本五十六さんにあるわけです。

明らかに空母決戦が予期されていた5月のツラギとポートモレスビー攻略作戦では
(その途中で発生するのが珊瑚海海戦)
最初から最後まで五航戦の祥鶴、端鶴の2艦だけしか派遣する気は全くなく、
それどころか、最初は佐世保で修理中(後述)だった加賀を単独で送りこむ気でした。

さらに追加でMO作戦に送り込んだ改造空母 祥鳳(しょうほう)を
翔鶴、瑞鶴の主力機動部隊とは完全に別部隊として分散配備して、
みすみす自殺行為に近い戦闘に追い込み、これを失っています。
(ただしこれは連合艦隊司令部の責任ではなく現地指揮官の責任)

真珠湾とインド洋であれだけ空母の集中攻撃力を確認したはずなのに、
より大きな打撃力との衝突になる空母決戦で、
海軍の皆さんは、なんで空母攻撃力をわざわざ減らして戦場に出て行ったんだか、
こればかりは全く理解でませぬ。
やりようによっては、珊瑚海海戦の段階で、アメリカの空母機動部隊の
殲滅も可能だったはずで、そうなれは戦争の流れは大きく変わっていたでしょう。

先にも登場した元赤城の飛行隊長、私は大嫌いな淵田美津雄も、
わかり難い表現ながら、同じ趣旨の発言をしてますから、
多少なりとも空母打撃力を理解してる人間なら、
常に同じ結論にたどり着くはずなんですが…

ただし、6月のミッドウェイ海戦の日本海軍の大敗にも関わらず、
実は翌年の1943年(昭和18年)夏の段階まで、日米海軍の空母戦力ははほぼ互角でした。
というか、ミッドウェイの勝利でようやくアメリカの空母機動部隊は
日本の空母部隊と互角になった、という状況だったのです。

翌1943年夏から登場するエセックス級空母軍団の登場まで、
アメリカは上の6隻の空母でやりくりしてるのですが
各海戦の終了後、それぞれの空母の稼動状態は以下の通りだったりします。
(レンジャーは一度も太平洋に来ないので表から省いた)

なんと一度たりとも全艦稼動状態だった事がないんですね。
(そもそも開戦直後の段階でUSSホーネットはまだ慣熟訓練中、
開戦1ヶ月後にはUSSサラトガが潜水艦の魚雷で損傷という状態から始まってるのだ)

**1942年海戦結果早見表 ●印が海戦に参加したアメリカ空母**

 海戦名

 5月珊瑚海

 6月ミッドウェイ

8月第二次ソロモン 

 1942年9月

10月南太平洋 

1943年初頭 

 USSレキシントン

 ●撃沈

 /

 /

 /

 /

/ 

 USSサラトガ  

 修理中

  修理中

●損傷

  修理中

● 

 USSヨークタウン

●損傷  

 ●撃沈 

/ 

/ 

 /

 /

 USSエンタープライズ

 東京空襲

●  

●損傷 

 ●

 ●損傷 

 USSホーネット

 東京空襲

不参加

 ● 

 ●撃沈 

 / 

 USSワスプ

 大西洋

移動中 

不参加

 ●撃沈

 / 

 / 

 戦闘後 稼動空母

 2

 2

3

2 

 0

2


6月のミッドウェイで日本の4空母が沈んだとはいえ、アメリカ側の残りも正規空母2隻のみで、
日本の翔鶴、瑞鶴と同じ数、さらに日本側にはまだ小型空母の龍驤、さらには改造空母が3隻残ってました。
実は、ミッドウェイが終わった後の状態でも、空母の数だけ見れば、両者の残存兵力はほぼ互角なのです。
ここで一気に日本が不利になった、という事実はありませぬ。
ただし、日本側は多くの戦闘機パイロット(他の機種の乗員は意外に生存救助されてるらしい)と
各種機体をミッドウェイの海戦で失ってるので、その補充の問題を抱えてましたが…。

そもそも1942年の空母決戦で、日米共に初めて知ったのは、
空母同士の戦いが始まったら、どちらも半端な損失では終わらない、
という点であり、実際、上であげた海戦で、両者空母の損失なし、という海戦は一度もありません。
(第二次ソロモンでは正規空母の損失はないが日本の小型空母 龍驤が沈んでる)

特にアメリカ海軍の場合、1942年8月の第二次ソロモン海戦以降は悲惨の一言でした。
上の表で海戦とは別に設けた1942年9月の欄を見てもらうとわかるように、
第二次ソロモン海戦を無事生き残ったUSSサラトガとUSSワスプが
この時期に潜水艦の雷撃を受け、USSサラトガは損傷(8/31)、
太平洋に廻航されて来てまだ3ヶ月のUSSワスプが撃沈(9/15)されてしまいます。
(こうして見ると、この頃までの日本海軍の潜水艦はかなり優秀な気がする)

この段階でUSSエンタープライズが再度復帰してくるものの、
次の10月に行われた南太平洋海戦で、唯一無傷に近かったUSSホーネットが撃沈され、
USSエンタープライズも再度損傷する事になります。
この南太平洋海戦後のUSSエンタープライズは約1ヶ月の修理が必要でした。

なので1942年の10月26日の南太平洋海戦から、
11月10日ごろにUSSサラトガが先に修理から復帰するまで約2週間、
太平洋上にアメリカ空母はゼロ、という事になっているのです。
そしてUSSエンタープライズもまだ修理中でその工員を乗せたまま、
11月10日ごろから、その出撃を余儀なくされてます。

この間、日本の翔鶴も損傷によって修理中でしたが、
瑞鶴は健在、改造空母も複数が生き残ってましたから、
両者の空母兵力は1943年(昭和18年)夏ごろまで、つねに互角だったように見えます。

凶暴な戦闘力を持つ艦隊による、そうぜつな殴り合い、というのが空母決戦の実情で、
この段階では、アメリカ側も決して楽勝ではなかったわけです。
その牙はあまりに強力で一度戦ってしまったら
互いに無傷では終わらない、という感じでしょうか。

ただし、この均衡状態が維持されるのは1943年半ばまでで、
1943年の夏からは世界最強の能力を持ちながら、恐るべき大量生産がなされた空母、
エセックス級の皆さんが次々と就役、大戦終了まで17隻(涙)も配備されてきます。
これ1隻で日本の正規空母を軽く撃破できる能力を持ってましたから、
航空機も含めた日本の海上戦力は、それ以降は完全に粉砕される事になるのです。

よって、アメリカ側が一方的とも言える空母戦を展開するのは、
その戦法が洗練され、さらに日本側のパイロットの連度不足が明らかになってくる
1944年の空母決戦以降であり、1942年の段階では、
両者とも互角の破壊力のパンチを持っていて、常に壮絶な殴り合いとなる、
といった海戦が展開されて行くのでした。


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