■珊瑚海への道
さて、珊瑚海海戦が史上初の空母決戦だったのは事実ですが、
実はそれ以前にも、日本海軍は敵空母を艦載機で撃沈してます。
1942年(昭和17年)の4月に行われたインド洋作戦における、
セイロン沖海戦(Indian Ocean raid)の時、
イギリス海軍の小型空母、HMSハーミーズを、艦載機の攻撃によって沈めてるのです。
ただし、このときHMSハーミーズは艦載機を積まずに避難中だったため、
航空機同士の戦闘は一切行われてません。
当然、HMSハーミーズ側からの反撃もありませぬ。
ちなみに、真珠湾戦後から4ヶ月という段階、
すなわち1942年の3月末から4月上旬にかけて展開された、このインド洋作戦は
最後の日本の機動部隊全力投入作戦となってしまいます。
当時最強の日本の空母艦隊のほぼ全て
赤城、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴を投入し、
(加賀は2月の座礁事故の修理で佐世保に帰ってた)
インド洋に乗り込んでいってセイロン(現スリランカ)周辺に居た
イギリス東洋艦隊主力(旗艦のHMSプリンス・オブ・ウェールズは開戦直後に撃沈済み)
を一掃してしまおう、というのがこの作戦です。
おそらくドイツに請われて、イギリス海軍の戦力をインド洋方面に引きつける、
さらにはビルマ攻略にあたり(インドシナ半島でもインド洋側なのだ)
その補給路を断つ、といった意味もあったんでしょう。
が、これだけの大戦力が20日近く作戦投入されていながら
イギリスの東洋艦隊の主力は補足すらできず、HMSハーミーズをはじめ、
逃げ遅れた数隻の敵艦を沈めただけで終わってしまってます。
…あれま。
後は通商破壊として、敵商船もかなり沈めてますが、
通称破壊と言うのは一定期間、常に行わないと効果は無く、
あ、敵は居なくなったぜ、となれば、あっという間にその通商路は復活してしまいます。
お世辞にも褒められた作戦ではなかったでしょう。
この時期、アメリカ側に対して圧倒的に有利だった空母戦力を、
いたずらに浪費した、というのが正統な評価ではないでしょうか。
先に述べたように、この時期は、太平洋では日本の空母戦力が
アメリカを上回っている、といいう貴重な時期でした。
数的、質的優位があるなら、相手の主力を速やかに粉砕する、
というのが戦争の王道ですから、
こんな事やってる間に、なんでアメリカ空母機動部隊を狩り出して
殲滅しなかったのか、どうも私には理解に苦しみます。
後に珊瑚海海戦で主役を勤める空母 翔鶴&瑞鶴姉妹は
真珠湾奇襲、先に見たインド洋海戦、そしてその後の珊瑚海海戦と、
太平洋戦争初期の主要な空母戦全てに参戦しています。
唯一その任務を外れたのがミッドウェイで、なるほど瑞鶴は幸運艦だと思いますね。
(翔鶴も同じだが珊瑚海海戦でやや大きな損傷を受けてる)
ちょっと脱線すると、例の瑞鶴の模型では、ずらりと艦載機が艦上に並べられてましたが、
この配置はひょっとして真珠湾攻撃の時の再現?
真珠湾奇襲の時は、全艦全力出撃なので、一気に搭載機の発艦が行われており、
艦上には全出撃機がズラリと並んでました。
(第一次攻撃隊をさっさと送り出し、すぐに第二次攻撃隊の準備に入る必要があった)
このため比較的軽くて短い距離で浮かぶ艦上戦闘機(ゼロ戦)が一番前に置かれます。
さらに燃料が少なくて軽い艦隊直衛機がその最前列に置かれてたのですが、
(それでも上空直衛で3時間近い飛行が予定されていたから、わずかな差だと思うが)
先頭の機体には40m以下の滑走距離しか無かったと
瑞鶴の直衛戦闘機部隊に居た岩本徹三さんがその著書の中で回想してます。
このため高速で母艦が風上に向かって航行し、
さらにベテランのパイロットがこの最も離陸が難しい先頭機に乗っていたようです。
(航空部隊発艦時に行われる空母の全艦一斉回頭は
風上に向かって航行し、発艦する機体の揚力を稼ぐためのもの)
灰色のゼロ戦の次がこれも灰色の99式艦上爆撃機(水平尾翼に赤線がある)で、
最後に一番重い97式艦攻(雷撃機)の順で並んでおり、
それぞれが浮き上がるのにギリギリの距離から発艦してます。
ちなみに海軍のパイロットといえど、長距離攻撃のための
航法(現在地を正しく判定し目標の方向をキチンと求める)を操縦中に行うのは難しく、
基本的には、そのための任務を行う搭乗員が居た(航法士)
3人乗り(3座)の艦上攻撃機(雷撃/水平爆撃機)が編隊の誘導を行います。
特に何の目標も無い完全に海上だけの飛行となる空母決戦では
一人乗りのゼロ戦の場合、誘導する機体がないと、
目標への到達も、戦闘後の帰還も極めて困難でした。
ただし、ミッドウェイ海戦の時、飛龍から出撃した最初の攻撃隊は
艦上戦闘機(ゼロ戦)と99式艦上爆撃機だけの編隊でアメリカ艦隊まで到達してますから、
とりあえず艦攻でなくても複座(二人乗り)の艦爆が居れば、
ある程度までは何とかなったのかもしれません。
さらに脱線すると(笑)、後にアメリカ軍がマリアナ諸島からB29を日本本土まで飛ばし、
それを硫黄島から発進した戦闘機、P-51Dが護衛してた時も同じ問題がありました。
戦闘機であるP-51Dの基地があった硫黄島から
日本本土まで約1100km、その間の洋上の目標点は無いに等しいものだったからです。
よって長距離航法のための装置も無く、
パイロットもそういった訓練は最低限しか受けてない
アメリカ陸軍単座戦闘機における洋上長距離飛行は自殺行為に近いものとなります。
なので連中は、大型機で専門の航法士が乗っていた
B-29に常に誘導されて日本本土に向かい、
そして同じように誘導されて硫黄島まで帰ってきたのです。
B-29にとってP-51Dの護衛が必要だったのと同じくらい、
実はP-51D側にもB-29を必要とする事情があったのでした。
途中ではぐれたら、確実に燃料切れによる死が待ってますから。
憎たらしいくらい欠点が少ない(というかバランスがいい)傑作機、P-51といえど、
往復2200kmの海上飛行は想定外の運用でした。
そもそもこれ、海軍の空母決戦よりはるかに長距離ですから、
よくまあこんな無茶をやったもんです。
ちなみにこの距離は日本海軍の航空部隊が、
ソロモン諸島周辺で苦しんだ長距離戦闘にほぼ等しい距離です。
(わずかながらP-51Dの方が長い距離を飛んでるが)
その長距離戦消耗からソロモンの航空戦は日本機の墓場になって行くのですが、
ほとんど同じ距離の航空戦闘をアメリカでは
陸軍の戦闘機がやってのけてたわけです。
そしてこれらの航空攻撃によって日本本土の航空戦力は壊滅することになります。
恐るべしアメリカ陸軍航空軍、というところでしょう。
ちなみに終戦直前になるとP-51Dだけで機銃掃射とロケット弾による
日本本土攻撃が行われ始めますが、この場合も
誘導のB-29が付いており、おそらく攻撃が終わるまで、
集合ポイント上空で待機していたと思われるんですが、
ここら辺りはあまり資料がなく、その段取りはよくわかりませぬ。
(対日戦略爆撃の場合、鉄道網の破壊と海上艦船の破壊、
すなわち交通網の破壊には戦略爆撃機のB-29よりも
P-51Dや、空母から発進した海軍の戦闘機が主に使われている印象がある)
さて話を珊瑚海海戦直前、1942年4月中旬の時点まで戻し、
この時のアメリカと日本の空母の状況を見ておきましょう。
アメリカの空母機動部隊はUSSサラトガが例の修理のため行動不能で、
USSホーネットとUSSエンタープライズの2隻は
ドゥーリトルの作戦のため本国(サンフランシスコの隣のアラメダ)に向かい
ここで陸軍のB-25爆撃機を搭載、初の東京空襲に向かってました。
対して日本側は例のインド洋作戦が終わり、翔鶴、瑞鶴は台湾に寄港(4月18日に入港)、
赤城、蒼龍、飛龍は日本に向けて台湾沖を帰還中でした。
所在不明なのが加賀で、佐世保で修理中だったのか、すでにどこかに出航してたのか。
ここら辺りは何の記録を見ればいいのかもわからん、という感じで、
とにかく調べられる限り調べてみましたが、その行動が全くわかりませぬ…。
どっちにしろ加賀も日本本土周辺に居たのは間違いないのですが。
とりあえず、1942年(昭和17年)4月18日のドゥーリトルの東京空襲は、
日本の空母艦隊の留守を襲う形で行われている、というのだけは見といてください。
この時期だと、すでにアメリカによる日本海軍の暗号解読が始まっていた可能性が高いので、
恐らく空母機動部隊が日本を留守なのは、バレていたはずです。
ちなみに現在も、サンフランシスコの隣町、アラメダの街には海軍基地があり、
空母USSホーネットが記念博物館として展示されてます。
当然ながら、実際にドゥーリトルの東京空襲に参加、
その後に南太平洋海戦で日本海軍に沈められたアメリカ空母8号のUSSホーネット(CV-8)ではなく、
その沈没を受け、建造中のエセックス級に同じ名前が付けられた新艦の方です。
すなわち空母12号、新型USSホーネット(CV-12)で、こちらは大戦を生き残ってます。
この新しい艦に退役した艦の名前を引き継がせる、という英米の軍艦の伝統は、
気をつけないと、とんでもない間違いの元となりますので要注意。
アメリカ人でも、エセックス級の新型ホーネット(CV12)がドゥーリトルの
東京空襲をやったと思ってる人がたまに居ますから。
(以下余談。1942年10月の南太平洋海戦で沈められた
USSホーネット(CV-8)がアメリカが失った最後の正規空母で、
1942年に失われた4隻(1隻は中型空母のUSSワスプだが)以後、正規空母の損失は無い。
その後の損失は全て改造小型空母のみとなる。
ちなみにアメリカの戦艦はもっとすごくて、
損失は真珠湾奇襲時のUSSアリゾナとUSSオクラホマの2隻のみだ。
つまり開戦初日の真珠湾奇襲で失われた以外、まともな戦闘では一隻の損失もない。
さらに上の2隻以外で真珠湾で着底した戦艦は全て引き上げ修理後、戦線に復帰してる。
対して日本側は自爆と言うなんだかよくわからない陸奥、
USSワシントンの主砲砲撃だけで撃沈された霧島、航空攻撃で沈んだ武蔵、大和と、
実に多彩な不沈艦の沈没ぶりで、全8隻の損失)
さて、そんな感じで1942年の4月18日のドゥーリトル東京爆撃の段階で、
日本海軍の空母部隊は加賀以外、全てがインド洋から帰って来る途中であり、
そのうち五航戦の二艦、翔鶴と瑞鶴は途中で別行動をとり、台湾に寄港した直後でした。
アメリカ側ではUSSホーネットとUSSエンタープライズが東京空襲後、真珠湾に向かいつつあり、
USSサラトガは例によって(笑)修理中ですね。
よってこの段階で、南太平洋戦域で活動中だった空母はたった2隻、
アメリカのUSSレキシントンと、USSホーネットだけだったのです。
すなわち南太平洋は日本の空母真空地帯でした。
これはさすがにノンキすぎると日本海軍も気がついたのと、
その後のツラギ、ポートモレスビー攻略作戦、すなわちMO作戦の必要から、
インド洋から帰還途中の空母艦隊に指令を送り、翔鶴と瑞鶴の二艦を台湾に向かわせ
その後、南太平洋の日本海軍の拠点、トラック泊地(現在のチューク諸島)への移動を命じます。
この決定、瑞鶴にゼロ戦パイロットとして乗っていた
岩本さんの手記によると、てっきり国に帰れると思っていたパイロットに
相当な失望を引き起こした、との事ですが…。
ところが、翔鶴、瑞鶴が台湾に入港した当日に、
ドゥーリトルの東京空襲があったため、そのアメリカ空母機動部隊の捜索を
この2艦が命じられ最低限の補給のみで翌19日には出航、硫黄島方面に向かってます。
まあ、どう考えても、ハワイ方面に逃げる敵を、台湾から出発して追いつくわけないんですけど…。
実際、当日中には、やはりトラック泊地に向かえ、という指示が出たようです。
その後、五航戦は、後で見るMO作戦機動部隊として珊瑚海海戦を向かえる事になるのです。
(台湾沖を帰還中だった赤城、飛龍、蒼龍にも追撃が命じられていたが、
これは単純に先の敵機動部隊日本近海で発見の報による。
この指令の段階ではまだ空母機動部隊からB25が飛び立ったとは気がついてなかった)
この結果、同時期に南太平洋で活動していた
アメリカのUSSレキシントン、USSヨークタウン、そして翔鶴、瑞鶴が
オーストラリアの北の海、珊瑚海で5月に激突し、
史上初の空母決戦が行われることになるのです。
という感じで、ちょっと脱線しすぎて疲れたので、今回はここまで。
次回こそ、ホントに珊瑚海に到達できるはず…。
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