■祥鳳の悲劇と記録と

今回は人類初の空母艦隊戦における航空戦力の破壊力を
数字で確認して行きましょう。

もっとも、この辺りはインド洋遠征時に日本空母機動部隊が
イギリス空母HMSハーミスを沈めたのが、人類初の空母決戦という気もします。
が、あの時のHMSハーミスは完全に丸腰、艦載機無しですから、
やはり珊瑚海における祥鳳の悲劇を最初の空母決戦と考えるべき、としておきます。

で、数字でこの戦いを考える場合、祥鳳の戦闘詳報が唯一の情報源となります。
ただ何度も書いてますが、祥鳳は沈没した結果、
その記録は生存者の記憶だけを頼りに書かれているため、
どこまで完全か、と言われれば微妙なところがありまする。

とりあえず最初の12機の索敵爆撃隊(VS)による空襲では被弾ゼロ、
その後、戦闘機3機を発艦させた後に最初の命中弾が出た、
といった辺りまではおそらく間違いが無いと思われます。
が、その後、特に沈没までの10分前後、
USSヨークタウンの攻撃隊からタコ殴りにされていた時間は、
船体全体の損害状況を正確に知るのは不可能だったのではないか、
と思われるのです。

この点を説明するため、沈没直前、完全に停止した状態(煙がほとんど流れてない)、
と思われる祥鳳の写真が残ってますので掲載します。

■Image credits:  Official U.S. Navy Photograph,
now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-17015



祥鳳は空襲の終盤では、船体のほとんどが煙で覆われ船首しか見えなかった、
と報告されるほど、壮絶な状態になってました。
この写真で見ると、その艦首ですら舳先が折れて、
さらに飛行甲板の先端部も失われてるようです。

単なる火災の煙ではない、爆発による煙が船体全体を覆っており、
艦内で受ける衝撃が、どれが魚雷で、どれが爆弾で、さらには艦内の弾薬の誘爆なのか、
とても区別がついたとは思えない気がします。
逆にこれでよく200名以上の生存者(後述)が居たな、といった印象です。

写真を見る限りでは複数の爆弾が同時着弾してるようにすら見え、
実際は記録以上の被弾があったように思えます。
ただし、そんなこと言ってたらキリがないので、
ここではとりあえずその戦闘詳報の数字を信用しましょう。

ついでながら大戦時、航空攻撃にさらされる艦艇の写真はいくつか残ってますが、
ここまでメチャクチャにされてる例は他に無いんじゃないでしょうか。
この辺り、アメリカの空母攻撃隊も、初めての大型艦の撃沈ですから、
頭に血が上ってしまい、必要時以上の攻撃を祥鳳単体に加えたような感じがします。
本来ならこの半分の攻撃で十分であり、
残りの機体は周囲の護衛艦を沈めるべきだったでしょう。

ちなみに艦尾付近の煙の前で回避運動に入ってる機影は魚雷を投下した後のTBD。
シルエットだけで断言するのは微妙ですが、この高度で横方向の回避行動をとる
急降下爆撃機はあり得ないので、ほぼ間違いないでしょう。
どうやらアメリカの雷撃は投下後、目標を飛び越えるのではなく、
その手前で腹を見せて旋回するようです。
どっちが危険なのか私にはよくわかりませんが。

参考までに祥鳳の700人以上の乗員の内、
救助された生存者は203名で(戦史叢書による。数字の出どころは不明)、
生存率は全乗員の1/3以下となってます。
これを多いと見るか、少ないと見るかは難しいところなんですが、
本来ならもっと多くの命が助かっていた可能性があった、という事は書いておきましょう。
祥鳳の場合、沈没直後に周囲の護衛艦が救助もせずにスタコラ逃げちゃった、
というヒドい話となっており(涙)、この辺り、この作戦に参加してた指揮官は
全員チキン閣下なのか、という感じです。

前回見たように祥鳳は11:35に沈みました。
それとほぼ同時(11:30)にMO主隊(六戦隊)の司令部は
一時的に北西に退避していたポートモレスビー攻略部隊に
もはや敵空母からの攻撃を防ぐ術なし、北東に全力で逃げよと命じます。
(敵は南東に居るのになぜ北“東”に逃げろと命じたのか、さっぱりわからぬ。
実際、ポートモレスビー攻略部隊はこれを無視して北北西に離脱した。
ちなみにMO主隊自身はその通り北東に逃げ出す。…パニックになっていた?)

と、ここまでは理解できるのです。
ポートモレスビー攻略部隊の保護が最大の目的ですからね。
ところが、その後、祥鳳の沈没を見ると、
無傷だった重巡4隻と駆逐艦 漣までもが、生存者の救助をせず
大慌てで、ひたすら全力で現場から逃走を始めてしまうのです(涙)。

この段階で、アメリカの攻撃機は引き上げつつあり、
さらに直前まで接触を維持していた索敵機からも、
敵の第二波攻撃隊発進の報告は入ってません。
というか、二隻しか敵空母が居ないのはわかってるんだから、
飛んで来た機数から計算すれば、当分第二波は無い、
というのは頭の弱い私ですら暗算で判断できます。

すなわち、空襲の危機は去っていたと判断できる状況でした。
敵機の空母までの帰還時間、さらに補給、兵器の再搭載の時間を考えると、
最低でも3時間以上の空白が開く、という事を意味します。
全艦で1時間だけでも救助に当たって、その後に北西方向に離脱に入っても、
2時間以上、全力で逃げれば敵空母の攻撃圏内から
完全に逃げ切れる可能性は高いのです。
(さらに、この一帯も東風だったので離着艦のためアメリカ側の空母が
MO主隊とは逆方向に一時的に転じる必要があるのはわかってたはずだ)

それでもMO主隊(第六戦隊)司令部は祥鳳の生存者を救助する事なく、
これを見捨てて全力で逃げ出してしまいました。
完全にパニックになってビビっちゃったんでしょうかねえ…。

この辺り、後に1944年のフィリピン沖で瑞鶴、瑞鳳が沈んだとき、
護衛の駆逐艦がわずかな空襲のスキを見て、必死の救助をしたのと比べると、
あまりにひどい、という気がします。
(この結果、駆逐艦側に被害が出たのも事実だが…)

ちなみに1944年のフィリピン沖のおける空母部隊の戦いと護衛部隊による救助活動は
、神野正美さんの“空母「瑞鶴」”に詳しくまとめられてますから、
興味のある人は一読をお勧めします。
私が知る限り、この本は日本海軍に関するもっともすぐれた記録の一つです。

このフィリピン沖において、生存者救助に当たった駆逐艦の戦いは
日本海軍における、もっとも勇気ある戦いの一つだったと言ってよく
この戦いが神野さんのような類まれな記録者を得たことは
日本の軍事的な記録における、数少ない幸いの一つでしょう。

ちょっと脱線すると神野さんの本では、
戦時に学徒動員されて天空の星の運航をひたすら計算し続けた
少女たちの物語も非常に興味深いものでした。
あの本はタイトルでずいぶん損をしてると思います…。

で、そのMO主隊は14:15ごろ、すなわち2時間半近く全力で逃げた後、
ようやく生存者の救助に向かうのですが、
艦隊から分離して送り出したのは駆逐艦 漣一隻だけでした。
その後も司令官を抱えた重巡4隻は17:00まで
ひたすら北東に向かって全力で逃げ続けてましてよ。

まあ、航空戦力相手にロクに対空装備の無い重巡は無力ですから、
その戦術は正しいのですが、
沈没艦の生存者救助をほったらかしたままひたすら逃げてたのは、
どうもあまり褒められた印象がありませぬ。

ちなみに漣は17:30ごろようやく現地に戻って救助を開始してますから、
沈没から実に6時間近く、生存者は放って置かれたわけです。
(戦史叢書では20:00現場着としてるが、この数字の出どころはよくわからない)

敵空襲下ならともかく(フィリピン沖の時はそれでも救助をやった)、
上で見たように一度、敵の襲撃が中断されるのは明らかだったのですから、
どうもこの辺りの救助の不徹底ぶりは、理解に苦しみます。
恐らくこの6時間に助かったはずの多くの命が失われたはずで、
無念であったでしょう。


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