■そもそも鶴は戦争に向いてないのでは


    お次は、その攻撃を見てゆきます。

    翔鶴索敵機から報告を受けたMO機動部隊では
    すぐに待機していた攻撃部隊を発進させ、その攻撃に向かわせます。
    再度、前回の攻撃地図を掲載するとこんな感じ。

    朝6時の段階で、MO機動部隊の位置が南緯13度20分、東経158度、
    対するアメリカの給油艦隊は朝7時過ぎごろの段階で南緯16度、東経158度、
    すなわち、両者はそれぞれ真北、真南に相手が居た状態で、
    その距離は約310〜330qほどでした。

    これは攻撃部隊が1時間ちょっと飛べばたどり着く距離であり、
    空母にとっては既に必殺の間合いの内です。
    (軍用機は最高速度で巡行しないからこのくらいかかる。
    艦船同様、そんな事をしたらあっという間に燃料が尽きる)



    それまで南下中だったMO機動部隊が、
    突然、90度曲がって東に向かってるのは、この日の風向きのためで、
    燃料満タン、さらに武装を積んだ攻撃隊を発艦させるために
    風上に向けて全艦回頭した結果です。

    記録によると攻撃隊は朝8時10分の発進となってますが、
    7:40分には翔鶴が90度(真東)に時速20ノットで変針、
    という記述が残ってるので、この段階から発艦準備に入り、
    30分近くかかって全機が出撃した、と思われます。

    さらに、この段階では、これから攻撃するのは敵主力の
    空母機動部隊だと思ってましたから、
    後は戦果報告を待つだけ、よってそのまま東に向かって
    攻撃隊の帰還を待つことになったようです。
    (南下すると必要以上に敵に接近してしまう)

    当然、これは本当のTF17と正反対の方向ですから、
    結果的に、敵主力からドンドン遠ざかる、という事になります。
    徹底的に運が無かった、という感じなのが、この朝のMO機動部隊なのでした(涙)。
    が、この朝の不幸はこれで終わらず、全力で攻撃隊を発進させた後に、
    ホンモノのアメリカ空母機動部隊、TF17を発見した、
    という連絡をMO機動部隊から受け取る事になるのは前回説明した通り…。

    ここら辺り、運、という部分もありますが、
    ラバウルへのゼロ戦輸送で要らぬ時間を浪費せず、
    さらに少なくとも前日の南下中に索敵機を飛ばしておけば避けれた悲劇でした。

    どうも幸運の女神は、やる気がある方に味方する、という印象がありますね。
    いい悪いはともかく、やる気だけは人一倍の
    フレッチャー閣下が相手だと、どうも日本は分が悪い気がします。

    ちなみに両艦の艦載機数については、既に
    こちらに書きました。
    この数字は戦史叢書からの引用なので、どうも怪しい気がして、
    元の第5航空戦隊戦闘詳報 第7号を見て置こうと思ったのですが、
    2015年9月現在、アジア歴史資料センターではなぜか6号までで
    公開が止まってしまっており、残念ながら見る事ができませんでした。
    よって、直接その数字の正しさを確認することはできず。

    が、戦史叢書に出てくる以上、戦後まで現存はしてたはずですし、
    あの著書の皆さんでも、さすがに数字の写し間違いはしないだろう、
    という事にして、上の数字をとりあえずは基本的なものとしましょう。
    …が、いきなりデータとして破綻するんですけどね(笑)。

    でもって7日の8時10分までの発進で、
    五航戦が送り出した攻撃部隊の編成は以下の表の通り。
    (両艦の飛行機隊戦闘行動調書による)

    ちなみに翔鶴の索敵機が敵空母からの艦載機発艦を通報してないからか、
    (つまり向こうからの攻撃部隊は当分飛んでこないはず)
    この時、艦隊上空に護衛戦闘機は飛ばしてません。
    おそらく甲板上で待機、という形になっていたと思われます。

    このためか、いつもは艦隊の護衛に就くことが多かった
    瑞鶴航空部隊のゼロ戦パイロット岩本徹三さんが、
    この朝は攻撃部隊を護衛する
    制空部隊の第三小隊隊長として加わってました。

     

     瑞鶴

    翔鶴 

    97艦攻(雷撃機) 

     11機

    13機

     99艦爆(急降下爆撃機)

     17機

     19機

    ゼロ戦(制空隊)

     9機

     9機


    …翔鶴の97艦攻は16機だったはずで、6機が索敵に出て戻ってないのに、
    なんで13機出撃できるんだろう、という疑問が残りますが(笑)、
    一応、正式な記録の数字そのままです。

    こちらの名簿には各機の搭乗員の名前までキチンと記録されてますから、
    翔鶴の97艦攻は計19機以上搭載だった、が正解という気がしますが…。
    どうもここら辺りは一次資料といえど情報は錯そうしており、
    正解はタイムマシンが発明されるまでわからん、というところでしょうか。

    ちなみに翔鶴も瑞鶴も作戦開始時に、単純に各機種18機ずつ積んでただけだよ、チャオ!
    という数字が世の中には出回ってますが、あれの出どころは
    MO機動部隊(第五戦隊)司令部の戦闘詳報です。
    が、この数字はどうも怪しく、そもそも巡洋艦の艦隊の旗艦、
    妙高から一歩も動かず、さほど空母部隊ともうまく連携していたように
    見えないMO機動部隊司令部がどこまで正確な数字を持っていたか、という気がします。

    そもそも、最初に書いたようにトラック諸島出航後、哨戒に出ていた
    瑞鶴の艦爆×1と艦攻×2が悪天候で帰還できなくなっていたのです。
    となると、瑞鶴の艦攻も最初は11機+2機+6(索敵機)=19機あったはずで、
    やはり全機種キレイに18機ずつにはなりません。
    よって、この数字は無視します。

    で、これらの攻撃部隊は発艦後、1時間半近くかかって
    USSネオショーの艦隊に到達するわけです。

    が、その間に、はるか西に居たMO主隊の索敵機が
    あっさりホンモノのTF17を発見するわ、
    USSネオショー艦隊は謎の大編隊から爆撃を受けるわ、
    実はいろんな事があったりしたのでした。

    このあたりをキチンと見てゆくのが、次回のお話となります、はい。



    ■Image credits:Catalog #: 80-G-427153 Copyright Owner: National Archives



    最後にまたアメリカ海軍歴史資料センターからの引用で、
    今回の記事で話題沸騰の、中島97式艦上攻撃機3号の写真を。

    2人乗りの急降下爆撃機(艦爆)を使っていたアメリカとは異なり、
    日本では3人乗りの艦攻(雷撃機)を索敵機として使っていたわけです。
    おそらく3人いれば、1人の偵察員が置けたためだと思われます。
    (操縦、そして無線と航法(作図と計算)をやりながら周辺の観察するのは
    楽ではなく、 できれば見張りに専任できる搭乗員が欲しかったのだと思う)

    魚雷は機体の下にむき出しで搭載するようになってましたが、
    “ほぼ1000馬力(970馬力前後)”とされた栄11型エンジンを積み、
    最高速度で370km/h前後出た、とされるので、最高速度は330q/h前後だった
    アメリカのデヴァステターよりはちょっとマシ、という機体でした。
    もっとも、ミッドウェイの後にはアメリカ側の雷撃機はアヴェンジャーになってしまうので、
    性能的には逆転してしまうんですがね。

    ちなみに97艦爆には3号という変な名前がついてますが、
    これは当然、1号と2号があるからで、1号はこの機体の試作機、
    2号は三菱で作られた全く別の機体です(笑)。
    でもって、その三菱の別物97艦2号は少数が生産されただけなので、
    基本的に97艦攻と書かれてる場合、こちらの中島製の3号を指します。

    ついでに写真は戦争後期の塗装で、珊瑚海海戦時の艦載機は白っぽい塗装のはず。

    といった感じで、今回はここまで。


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