■軽量戦闘機計画
既に見たように1968年9月にボイドたちによるF-15の要求仕様が固まりました。
その後もボイド、クリスティはそれなりに多忙だったようですが、1969年6月に各メーカーの案が提出された後はそれを監督する、という立場になって行きます(最終的に12月にマクダネル・ダグラス案に決定)。
その後、NASAとマグダネルダグラス社に開発を委ね、手の空き始めたボイドとスプレイの二人は、やはりF-15の重さとデカさに失望を隠せず、密かに彼らが理想としていた戦闘機のデザインを検討しはじめたようです。これが後の軽量戦闘機計画(Lightweight
fighter program/LWF program)の基礎となり、やがてF-16として結実する事になるわけです。
その直前、1969年の始めごろにボイドが国防省で所属していた空軍の開発計画室(Development planning
office)責任者として新しい大佐が就任して来ていました。それが第二次大戦から戦闘機パイロットだったリッチョーニ(Everest
Riccioni/イタリア語読み。英語読みだと発音が違う可能性アリ)で、彼は基本的に従来の空軍の戦闘機に対して批判的でした。
コレを知ったボイドとスプレイはリッチョーニ大佐へ彼らの軽量戦闘機に関するアイデアを打ち明けます。開発室の責任者であるリッチョーニを仲間に引き込めれば正式な予算申請ができるため、本格的に計画を動かす事ができると考えたからです。
結果から言えば、リッチョーニは話に乗ってきました。乗ってきたどころか熱狂的に支持すると言い、俺たち3人で空軍を変えるんだ、というような事まで言い出しました。そして彼がイタリア系であったことから、戦前のボンバー(爆撃機)マフィアにあやかって自分たちをファイター(戦闘機)マフィアと呼ぼう、と提案し、このため軽量戦闘機計画、後のYF-16とYF-17の開発を支持するメンバーをファイターマフィアと呼ぶようになるのです。が、どうもこの呼び名、ボイドとクリスティは気に入ってなかったような感じがあります(ファイターマフィアの存在はF-15の開発とは関係ないのにも注意)…。
さて、こうなるとその手の細工が得意なボイドが予算獲得の口実を考えることなりました。
彼は海軍のF-14は明らかに重すぎ、そして高価すぎるから空母への多数配備は無理で、必ずこれを置き換える、あるいは補佐する機体が必要になると予測しました。それは小型で安価な機体になるだろうから、そういった機体を海軍より先に研究せねばならぬ、という主旨の提案書をまとめあげます。
そしてリッチョーニがこのボイドの提案を空軍上層部に申請すると、海軍より先に、という部分が評価されあっさり研究用の予算が承認されてしまい、1969年の夏ごろから軽量戦闘機計画は動き出す事になるのです。
そしてF-14はあまりに高価になった上に期待していたほどの性能が出なかった事で、実際に議会から集中砲火を受け始めます。その政治的混乱に乗じてF-16に繋がる軽量戦闘機計画が正式に採用される事になったわけです。
ちなみに、この段階では海軍を口実に使っただけなのですが、F-14が問題続出となった結果、実際に軽量戦闘機は海軍にも採用され、これが後のF/A-18になります。この辺りはボイドに先見の明があったという事でしょう。そしてこれは従来の海軍から空軍へ、という流れを初めて撃破ったものでした。
この段階でボイドが考えていたのは離陸重量はF-15の半分となる20000ポンド(約9トン)、レーダーは射撃管制に使う測距用の簡単なものだけで索敵用のレーダーを積まない、そして爆撃能力などは一切不要、という軽量、安価な戦闘機でした。索敵用のレーダーを積まないのは冒険のように思いますが、当時のレーダーは高価な上、重くて性能も悪いものしかなかった事、そして大型レーダーを積んだ空中警戒機からの支援を受けて空中戦を行えば必要なしと判断したようです。
■ノースロップとF-5
ただし正式に承認されたものの、この段階ではまだ“研究計画”に過ぎず、予算も総額で14万9000ドル、戦闘機開発では頭金にもならない額でした。それでもこれを使って戦闘機メーカーに基本的な研究を行わせようという話になり、1969年半ばごろ、ボイドたちが選んだ二つのメーカーに参加を打診しています。
一つは当時、アメリカで唯一まともな軽量戦闘機だったF-5を生産していたノースロップ社、そしてもう一つがF-111にケチをつけたボイドと意気投合してしまったヒルカーの居たジェネラル・ダイナミクス社でした。ちなみに予算の配分はノースロップが10万ドル、ジェネラル・ダイナミクスが4.9万ドルだったそうな。後に敗者となるノースロップが優遇されていたのは興味深い所です。
安価な超音速戦闘機として、アジアやヨーロッパの貧乏反共産主義国家、すなわちアメリカの同盟国にばら撒かられたノースロップ F-5タイガー。写真はタイ空軍が使っていたA型です。 余談ですがF-5開発当時のノースロップではノースアメリカンを去った後のエドガー・シュムード、あのP-51の設計責任者が開発部門を統括してました(ただし直接設計には参加してない。その後、F-5の初飛行前の1957年に引退)。改めてこの人も、スゴイ人なんですよね。
せっかくなので、ちょっとこの機体についても見て置きましょう。
F-5の原型となったのがノースロップ社の自社開発小型戦闘機、N-156でした。これは1955年当時、F-89スコーピオンの迷走もあって、まともな仕事が無くなりつつあった(涙)ノースロップが独自開発を始めたものでした。当時、まだ現役だった大戦中に建造された小型空母向けの海軍用ジェット戦闘機としてN-156Nが、未舗装の滑走路などでも運用できるタフな小型戦闘機として空軍向けのN-156Fが、さらに複座練習型のN-156Tが計画され、それぞれ売込みがなされたのです。
が、まず海軍が小型空母の廃止を決定、こちらの需要が自動的に消滅します。さらに当時のアメリカ空軍はデカイ戦闘機がエライ、という信仰の真っ只中でしたから興味を示さず、こちらも道が絶たれてしまいます。
ただしその後、先にも書いた固定翼の攻撃機を持とうと考えた陸軍がN-156に興味を示すのですが、空軍の横槍で流れてしまったのは既に説明した通り。ちなみに、N-156はその簡易な構造が幸いして、かなりラフな運用が可能となっており、超音速戦闘機ながら前線基地のような未舗装の滑走路から運用できる、というアメリカ製のジェット戦闘機としては珍しい機体でした(後にアメリカに置かれた各国パイロット用F-5の訓練基地にも訓練用の未舗装滑走路があった)。この辺り、ソ連機なら珍しくないんですけどね。
ここでN-156計画は終わりかと思われましたが、当時、空軍がT-33練習機の旧式化にともない、新世代の超音速の練習機を探していたのが幸いします。ここで操縦が容易で安価なN-156Tが注目されアメリカ空軍に大量採用が決定されたのです。これが後のベストセラー練習機、T-38タロンですね。
1959年に初飛行した60年選手ながら、2019年現在、未だにアメリカ空軍では現役のT-38タロン。操縦が容易で安価で小型軽量なため、基地間の連絡機、新型機の飛行試験の時の随伴機など多用な任務にも投入されてます。
さらに戦闘機型も、1962年にケネディ政権が開始した軍事援助計画(MAP)によってF-5戦闘機として生き返ります。
軍事援助計画(MAP)はアメリカが友好国にしておきたい、共産化を防ぎたい、と思った途上国に兵器を供与、すなわち実質無料で与えるというバラマキ外交戦略でした。このため安価で一定の性能があったこの機体に対しF-5Aとして大量発注がかかります。この結果、まさにノースロップ社の黄金期の到来となるわけです。まあ、この後は例のYA-9がA-10に敗北したりして、必ずしも順調ではないんですけどね(笑)。
このためアジアだけでもタイ、シンガポール、台湾、インドネシア、韓国、マレーシア、フィリピンと、どっちを見てもF-5だらけという状態になって行き、後期改良型のE型などは21世紀に入るまで多くの国で現役で活躍していました。最終的にF-5を採用した国は20カ国を超え、西側諸国の最初の“超音速”世界標準機となり、この跡を継ぐのがF-16という事になります。
このためF-5シリーズだけでその生産は2200機を超え、派生型の練習機、T-38タロンと合わせると3400機近い生産数となりました。これは西側諸国の超音速ジェット戦闘機としては、F-4ファントムII、そしてF-16に次ぐ数です。イマイチなじみの無い印象があるF-5ですが、実は大ベストセラー機なのでした(超音速ではないF-86などを除く数字なのに注意)。
ちなみに最終発展型、1972年に初飛行したF-5Eですら250万ドル以下でありこれは当時初飛行したばかりのF-15Aに比べて1/10近い価格でした。なのでF-15一機を購入するコストでこの機体は10機買えてしまうのです。これは数で圧倒戦法が取れる、という事を意味します。
そして軽量で運動性に優れたF-5、とくに最終型のE型の性能は侮りがたいものがあり、空軍、海軍ではミグを模した仮想敵機用にも採用されていました。ただしエンジンがやや非力、まともな電子装備は無い、という問題を最後まで抱えてもいたのも事実で、この辺りがこの機体の弱点になって行きます。
それでも安価であり、軽量で運動性もいい、というのは当時のアメリカ戦闘機の中では、ボイドの理想に最も近いもので、この機体は彼のお気に入りでした。ノースロップが軽量戦闘機計画に参加できたのはこの機体の存在によるでしょう。
さらにノースロップを巻き込んだ結果、棚ぼた式の偶然によって生まれていた驚くべき高揚力技術、LERXが軽量戦闘機計画に取り込まれて行く事になり、これがF-16の性能向上に大きく貢献します。この辺りはまた後で。
さて、ようやく動き出した軽量戦闘機計画ですが、空軍内に予想外の動きが出て来て障害となり始めます。F-15より安い軽量戦闘機が採用された場合、空軍がもらえる予算総額が目減りする可能性があると考え、軽量戦闘機計画に反対する勢力が登場して来るのです。
ちなみに後にF-16は正式採用され空軍全体がこの支持に回るのですが、これはF-15の予算を削るのではなく、別枠でさらに予算がいただけそうだ、という事になったからです。前にも書いたように軍はお金で動くのです(笑)。
このため、ボイドもスプレイも、なるべく上層部を刺激しないよう密かに計画を進めていたのですが、途中参加という形になったリッチョーニ大佐が、やや暴走気味にこの計画にのめり込んでしまうのです。彼はどうも、やや自己顕示欲が強い性格だった印象があり、自らをファイターマフィアのボスとして軽量戦闘機計画を1969年の年末ごろから周囲に売り込みまくってゆきます。この結果、幸か不幸かリッチョーニは空軍上層部に疎まれて1970年に韓国の基地に左遷されてしまうのです。
この結果、以後はボイドとスプレイのコンビが再び計画の主導権を握ってゆき、主に技術的な面をボイドが、政治的な交渉面をスプレイが取り仕切って行く事になります。
ちなみに、F-16が大量採用された後、リッチョーニは自らがその産みの親だ、と主張してましたが、これは間違いではないものの、実質、彼はキッカケを作った以外はあまり何もしてないように思います。そして、皮肉にもリッチョーニが現場を去った後の1971年辺りから、スプレイの政治的な駆け引きが始まり、ここから一気にこの計画は現実的になって行くのです。
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