■42歳の中佐
が、ここで再びボイドの出世の遅さが問題になって来てました。 軍では階級ごとに退役年齢が決められており、中佐のボイドは42歳までしか空軍に在籍できず、それは1969年いっぱいで彼の軍歴が終わる事を意味していました。前回の1967年はミグショックとF-15への開発関与もあり、なんとか中佐に昇進してこの問題を乗り切ったボイドですが、2年後の今回は軍の中でも重要な大佐級への昇進とあり、とにかく敵だらけのボイドは厳しい状況に置かれます。
このため1969年8月にボイドはアンドルーズ空軍基地にあったF-15の開発管理部門に転属を命じられます。これは新しい基地に配属となったら、最低でも半年〜1年ほどは勤務するという軍のルールがあり、退役を控えていても有効だったからでした。よって1969年8月にに転属になったボイドは少なくとも1970年2月までは軍に勤務可能という事になったわけです。 アンドルーズ基地は首都ワシントンDC用の防衛基地ですからペンタゴンのすぐ近所であり、ボイドはワシントンDCに住んだまま、そちらに通えたのでそのまま、ペンタゴンでも仕事をこなしていたようです。 この後、1970年2月に再度退官勧告が出るのですが、当時のボイドの上司に当たる将軍によってその延期が命じられ、最終的に期限ギリギリである1970年の夏にようやくボイドは大佐に昇進、しばらくは空軍勤務が続けられる事になったのです。
余談ながら、空軍では中佐までが中間管理職という扱いで、大佐から上が司令官級という扱いになるんだそうな。よって、それなりに優秀な士官なら中佐までは問題なく出世できるものの大佐になれる人物はかなり限られるのだとか。このためボイドは退官後も自分が大佐まで昇進したことをかなり誇らしく思っていた形跡があります。
こうして1970年の秋以降もボイドは空軍に残り、引き続き軽量戦闘機計画を続ける事になります。 彼らはこれらの作業を“神の御業(Lord's
work)”というニックネームで呼んおり、そこに当時はまだエグリン基地とペンタゴンを往復する生活を送っていたクリスティーも当然のごとく巻き込まれて行きます。後にクリスティーはエネルギー機動(EM)ダイアグラムをコンピュータシミュレーションで次々と製作、最終的には1500ものダイアグラムを造り、この計画に大きく貢献しました。
■軽量戦闘機計画
一方、1970年ごろから、F-14の価格高騰が明らかになりつつあり、議会ではより安価な戦闘機が必要なのではないか、という議論が出始めていました。ちなみに、ここら辺りのデータはウィズキッズ時代から議会や国防省幹部へのパイプを持っていたスプレイが意識的に流した可能性があります。
高価な上に重すぎて性能が低下してしまい、さらにエンジントラブルも抱えていたF-14は実戦配備が始まる前から、問題視される機体になってしまっていました。ボイドの予言通りの展開になった、とも言えます。
さらに1971年に入ると、開発が進んでいた空軍のF-15まで価格の高騰が避けられなくなりそうだ、という事になって来ます。これによって議会が軍の兵器調達予算に関して、疑問を示し始めるのです。
それを受けてニクソン大統領が、当時の国防長官のラード(Melvin R.
Laird)により低コストな戦闘機の開発について調査を命じました。でもってこの仕事は副国防長官だったパッカード(David
Packard)に回され、彼はこれまでの兵器開発を根本から見直すことにします。ちなみにA-10で採用された試作機まで造って飛行テストで採用機を決めるFly
offを考えたのは自分だ、とパッカードは言ってますが、考えたのはスプレイ、これを支持したのがパッカード、という辺りが事実に近いように見えます。
とりあえずパッカードはニクソンの命を受け、1971年の夏に今後の全軍の航空兵器開発予算を当面2億ドルに制限する、と宣言し各軍に必要と思われる兵器試作計画を提出せよ、と通達するのです。とにかく何か提案しないと、以後の予算は付かなくなるので空軍もこれに合わせて急遽、開発計画の立案に迫られます。で、その計画選定にあたったのがキャメロン(Lyle
Cameron)大佐でした。彼は空軍内でも進歩的な考えをする人物の一人であり、そして何より、スプレイの友人の一人だったのです。
このため彼は空軍から提出する開発計画に短距離離着陸輸送機と、ボイドたちの軽量戦闘機の二つを選出します。
この二つの試作機案は間もなくパッカードに承認され、1971年12月、軽量戦闘機の試作に予算がつく事になります。約2年間、水面下で続いていた研究が、ここでついに実を結ぶことになるわけです。ただし、この段階ではあくまで試作機製作に予算がついた、という話であり、空軍上層部としては正式採用する気は全くありませんでした。これが量産に持ち込まれるには、後ほどもう一波乱あるのです。
が、それでも試作機製作にはある程度の予算が動きますから、乗り遅れてなるかとロッキード、ボーイング、ヴォート(LTV)など多くの航空機メーカーが次々とボイドの元にやって来ます。が、彼らはエネルギー機動(EM)理論をほとんど理解してませんでしたし、しようとしませんでした。
そもそも既にジェネラル・ダイナミクスとノースロップによる研究ははるかに先まで行ってしまっており、途中から参加を表明したメーカーに勝ち目は無かったのです。この結果、最後まで最初の2社を中心に、この計画は動いて行くことになります。
■軽量戦闘機 要求仕様
こうしてその翌年、1972年の1月には正式な要求仕様(RFP)が出されます。
それによると重量はF-Xの半分である20000ポンド、約9.1トン(この段階ではまだF-15は初飛行してないのでF-X計画時の数字)、速度は最大でマッハ1.6、運用高度は30,000〜40,000
ft (約9,150〜12,200
m)といった辺りが求められていました。
ちなみにマッハ1.6というのは発生する衝撃波が、離脱衝撃波から接触衝撃波に変わる境界速度の辺りですから、おそらく、衝撃波対策が簡単に済むのを狙った速度でしょう。速度や高度が大分控えめなのは、ベトナムやイスラエルによる6日戦争の実戦データから、これ以上はあってもあまり意味がないと判断されてたためで、単純に安価に造るための妥協ではないのに注意が要ります。
実際、より重要な要素であると判断された航続距離などは、F-X並みの長大さを求められ、全重量に対するエンジン推力の比率も同じレベルの性能が要求されています。さらにエネルギー機動(EM)理論に基づいた運動性能はF-X以上のものが求められていたのです。
これに各社が応じたものの、順当に試作機競作メーカーにジェネラル・ダイナミクスとノースロップが選出され、それぞれYF-16とYF-17の製作に取り掛かって行くことになるのでした。以後、計画は順調に進んで行くことになります。
■PHOTO
NASA
ノースロップ社案YF-17。後に敗者になるのですが、ボイドは当初、こちらの方が優秀だと考えていました。エリアルール2号に適応するため、主翼と水平尾翼の間に間に置かれた垂直尾翼が特徴ですが、この垂直尾翼には最後の最後まで振動(フラッター)などのトラブルが付きまといます。後に海軍のF/A-18の原型となりますが、あくまで原型で、実際はほとんど作り直されてしまってます。
■ボイド ベトナムへ
ところがこの時期、まさに軽量戦闘機の要求仕様書をまとめ終わった段階で、ボイドは今さら、という感じでベトナム戦争に派遣されることになります。さすがにこの段階では大佐でしたから、パイロットとしてではなく、基地の副指令としての派遣だったようです。この辺り戦闘機マフィアへのいやがらせ、という感じが無くも無いタイミングですが、最初から1年という期限は切られていたようで、よって軽量戦闘機のFly
Offを行う段階では帰国という段取りになってました。
実際、ボイドは特に左遷された、というような印象は持たず1972年の4月、タイの北東、ラオスとの国境に近い地区に置かれていたナコーン・パノム空軍基地に赴いてます。ここは現在、小さな地方空港になっていますが、当時はアメリカ空軍の中でも東南アジア最大規模の基地の一つでした。
この基地には北ベトナムが物資の輸送に使っていたホーチミンルートを監視するための空軍特別任務部隊が駐屯しており、ボイドはその関係の仕事をしていたようです。ここからホーチミンルートを監視する電子機器が空軍によってばら撒かれ、盗聴器やら震度感知装置やらの情報を基に攻撃部隊へ出撃命令を出していた、とされます。この監視網がいわゆるマクナマラ・ラインで、極めて原始的なベトコンに対し高価な電子機器を投入し莫大な予算が使われてました。その効果ははなはだ疑問でしたが…。
とりあえず、ボイドはこの特殊部隊の基地で1年を過ごし、1973年の春にペンタゴンに復帰します。この間、彼は軽量戦闘機計画から離れていたのですが、後に有名になるOODA(ウーダ)ループの原型を考えたり、エネルギー機動性理論の改良をやっていたようです。さらに例のF-111の連続墜落事故調査の報告書をまとめたのがボイドだ、という話があるんですが確認できず。ただしどうもボイド本人が自分がやったと言ってるようなので、何らかの調査には関わったのかもしれません。
そしてこの時期にエグリン基地に居たクリスティーがようやく国防省に配属となってより重要な役割を果たして行くことになります。 |