■A-10への道 今回はちょっと脱線して、アメリカ空軍の奇跡とも言えるA-10攻撃機について少し見ておきしょう。この機体の完成にはボイドの盟友、スプレイが深く関わっているからです。それは攻撃機ながら、エネルギー機動性理論の影響を受けてる、という事でもあります。 A-10は頑丈でかつ安価に大量配備できることを主眼に開発されています。このため1972年5月初飛行したF-15と同世代機ながら電子装備なんてほとんど持ってませんでした(レーザー照準ポッドは1980年代に装備可能となったが)。さらに最高速度は700km/h前後で第二次大戦世代のプロペラ機P-51ムスタングのH型と同じレベル、このため後退翼は必要なく、潔い直線翼のジェット機になっています。さらにジェット機なのに、飛行中でも主脚は完全には収容されず車輪の一部がむき出しのまま飛んでる、という実に無骨で、あまり洗練されてない無い印象の機体です。が、これらは全て地上軍への近接支援(CAS)を行うためにタフで安価な機体、という条件から考えられた結果のスタイルで、その優秀な性能は湾岸戦争で友軍の地上部隊から絶大な支持を受ける事になります。 フェアチャイルドA-10サンダーボルトII。 サンダーボルトIIという愛称は第二次大戦のリパブリック社の機体、P-47の二代目という事です。ただしA-10の開発前の段階で既にリパブリック社はフェアチャイルド社に吸収合併されていたためA-10はフェアチャイルド社製となります。そしてP-47が戦闘機から戦闘爆撃機に転用されたのに対し、この機体は最初から地上攻撃、とくに地上の友軍への近接支援(CAS)だけを任務に開発されています。これは戦略空軍として発展してきたアメリカ空軍の中では極めて異例な機体と言えます。 空軍で最も人気の無い分野、近接支援(CAS)機であるために湾岸戦争までは日陰者扱いされていたのがA-10でした。ジェット機なのに700q/hという低速のため、A-10で飛行する時は後方からのバードストライクに気をつけろ(鳥並みに遅いという揶揄)、とまで言われてたのですが実戦デビュー後は大活躍を見せ、地上部隊から熱狂的に支持されました。この結果、その評価は急反転、一気に空軍を代表する機体の一つになってしまいます。 「戦場に行く前は全く好きになれない機体だったが、今では世界最高の航空機だと思ってるよ」 という空軍の将軍の発言が、この辺りの事情をよく説明してるでしょう。ちなみに、捕虜になったイラク兵に言わせると、他の機体は爆弾を落としたらすぐどっかに飛んでいってしまうから怖くないが低速で滞空時間も長いA-10は地上で動くものがなくなるまで上空で旋回待機し続けるから恐ろしいんだそうな。 ■ベトナムでの陸軍の不満 さて戦略爆撃編のとこでも書きましたが、アメリカ空軍は一度たりとも地上軍と共同して戦う近接支援(CAS)用の航空機を開発したことがありませんでした。ミッチェルらボンバーマフィアによって戦略爆撃空軍としての進路を決められていたため、その手の機体を必要と認めなかったからです(この点はイギリス空軍も似ている)。 よって第二次大戦時に泥沼の地上戦を戦ったドイツ、ソ連では盛んに近接支援(CAS)機が造られたのに対し、アメリカでは全く造られませんでした。戦後もその方針は変わらず、それによってベトナムでは海軍の機体で乗り切るハメになったのは既に述べた通りです。よってこのA-10が最初の近接支援機であり、そして最後の近接支援機でもあります。そんな空飛ぶ特異点みたいな機体がなぜ生まれたのかを少し見て行きましょう。 そもそもはベトナム参戦の2年前、1962年に陸軍の航空支援兵力強化が決まった事が始まりでした。歩兵を搭載して移動する大規模なヘリコプター強襲部隊には武装ヘリコプターの護衛が必要だ、とマクナマラ国防長官が判断したのです。これを受けて1962年末から米陸軍は最新の武装ヘリコプターの開発をスタートさせます。ちなみにベトナム参戦前(地上戦は1965年以降)ですから、この段階ではまだその戦訓による開発ではないのに注意。 そして第二次大戦から朝鮮戦争にいたるまで航空戦力による支援には常に飢えていた陸軍ですから計画には大分力を入れました。先進航空火力支援システム(Advanced Aerial Fire Support System /AAFSS)と命名されたこの計画はベトナム介入直前の1964年に要求仕様が出され、その結果、ロッキードのAH-56Aシャイアン(Cheyenne)の採用が決定されます。 ■Photo US Army ただしシャイアンは、あまりに野心的で新しい技術を詰め込み過ぎた結果、開発は迷走、予算はオーバー、1967年9月に初飛行までこぎつけましたが以後も開発は迷走し続け、最終的にその採用が見送られてしまう事になります。そしてこの機体の開発迷走を受けて、急遽陸軍がドロナワ式に導入を開始した攻撃ヘリが世界でおなじみベルAH-1 コブラで、結局こちらが世界標準とも言える機体になってしまうわけです。 余談ながらシャイアンは胴体下の主脚と尾翼の先にある尾輪の三点姿勢で着陸、そのまま高速で地上を自由に走り回れ、さらにバック走行もできました(どういう目的でこうなったのか未だによくわらからん…)。そして前部の銃手席は照準に合わせて360度回転するなど、いろいろ変わったヘリだったのです。当然、お値段も相当なものになり、これも計画中止の一因となったとされます。 そして、ほぼ同時期に陸軍はさらに野心的な計画、護衛用の固定翼機、すなわち通常の攻撃機の採用も模索し始めてました。このため1962年初頭からノースロップN-156(F-5の前身となった戦闘機)、フィアットのG-91、さらには海軍のダグラスA-4などの試験を独自に行い始めています。 これを知った空軍は自軍の領域が侵犯されると猛烈に反対、これを受けてこの計画は一度中断となるのですが、その3年後、陸軍がベトナム戦争に本格的に巻き込まれると空軍にまともな近接支援(CAS)機が無い事が問題となり始めます。この時、シャイアンヘリの開発が迷走していた事もあり、再び陸軍は独自の固定翼攻撃機の採用を模索し始めるのです。これに対抗するため空軍は、1966年の秋ごろ地上部隊を支援する攻撃試験計画室( Attack Experimental program office)を立ち上げました。あくまで固定翼機は空軍で、という事です。 この問題は最終的に1967年1月、地上戦で用いられる固定翼機は全て空軍の管轄とする、という取り決めがマクナマラ主導で国防省により決定され、陸軍はその開発計画を中断することになります(この結果それでまで陸軍が使っていた輸送機も空軍に取り上げられてしまい、最終的に一部の小型連絡機だけが残された)。 これにより空軍は固定翼の独占運用を確保したものの、同時に陸軍を支援する近接支援(CAS)機の開発が必須となってしまうのです。ただしそれは予算が新たに確保できる、という事も意味したので空軍にとっては必ずしも悪い話ではありませんでした。これが近接支援(CAS)機になんて興味が無かったアメリカ空軍がA-10の開発を始める切っ掛けです。 このため空軍はケイ(Avery Kay)大佐を責任者とする設計チームを発足させ、早くも1967年3月には最初の要求仕様をまとめました。この段階で空軍の攻撃機はA-Xと命名されますが、これはAttack Experimental の略称だそうな。この要求仕様に基づき、グラマン、ノースロップ、マクダネル(この直後にダグラスと合併してマクダネル・ダグラスになる)、ゼネラル ダイナミクスの4社が競作に応募します(後の勝者、フェアチャイルドがこの段階では居ない事に注意)。 ところが空軍は生まれてから一度も近接支援(CAS)機なんて造った事ないんですから、いきなり開発は迷走を始めます。 ソ連の地上軍の侵攻を完全に食い止めるため全天候型運用(高価な専用のレーダーとFCSが居る)を要求し始めたり、ベトナムの戦訓が入って来て、もっと頑丈な機体が必要だとされたり、誰もが好き勝手な性能要求を追加し始めたのです。この結果、徐々に収集が付かなくなり1967年3月の最初の要求仕様による機体開発は一度、中止とされてしまいます。 この混乱を受け、ボイドをF-X計画に引き込んだ空軍で一番偉い人、空軍参謀総長マコーナルはスプレイに目をつけるのです。スプレイはペンタゴンに勤務する民間人ですが、以前から航空優勢戦闘機と並んで、近接支援(CAS)機の重要性を空軍に訴えていました。そして相棒のボイドと組んで、あれほど迷走していたF-15の開発に一定のメドを立て、その開発を加速させる原動力となっていたのをマコーナルは知っていました。 ちなみにマコーナルはF-15と同時にA-10を開発させた参謀総長であり、ある意味、SAC出身とは思えない人物だった印象があります。ついでに、この直後(1969年7月31日)に彼は退役してるので、これが最後の大仕事だったと言えるでしょう。 アメリカ空軍博物館の展示より、第六代空軍参謀総長マコーネル。 ルメイの跡を継いだ人物なのですが、彼が主導した機体開発により、アメリカ空軍はその後、40年近く戦い続ける事になるのです。そういった意味で、極めて重要な役割を果たした人物と言えます。ちなみにルメイが任期途中でクビになった結果の就任だったので、ルメイの残りの任期+4年で4年5カ月その地位に居ました。これは朝鮮戦争の勃発で任期が延長された超絶ハンサム野郎、二代目参謀総長ヴェンデンバーグに次ぐ歴代二位の記録となっています。ベトナム戦争の最も困難な時期の体験をもとに、次世代への財産を残した点で、歴代空軍参謀総長の中でも最優秀の人物かもしれません。 当時、スプレイはボイドと組んで仕事をしていたことでエネルギー機動性理論を中心に航空機の性能のノウハウを得たと考えており、かつ近接支援(CAS)攻撃機の必要性を長らく訴えていましたから、当然、この仕事を引き受けました。ちなみに1968年ごろからペンタゴンを去る事になる1975年までの間にスプレイはF-15、A-10、さらにはYF-16とYF-17の原型機の開発に関わっている事になります。 彼は一時グラマンで働いていたこともあり航空機開発には縁があったのですが、それでも民間人がこれだけの軍用機の開発に関わり、そのほとんどが傑作機に分類されている、というのはスゴイ話だと思います。 ただし困ったことにスプレイは空軍の開発部門からはかなり嫌われていました(Public enemy 公共の敵とすら呼ばれてたそうな)。これはF-15の開発でボイドと組んで空軍の開発部門と対立、さらに以前の戦略爆撃を批判するレポートによってSACからも目の敵にされていたからです。 このため、スプレイがA-X(A-10)の設計基本方針を製作してる事は当面秘密扱いとされ、主な職員がペンタゴンを退庁した夕方5時以降にこっそりA-Xの計画作業を始めていたのだとか。でもって、これも常に夜中まで一人で残ってF-Xの作業をしていたボイドにアドバイスを受けながら、スプレイはその仕事を続けてゆくことになります。よってボイドも間接的にA-10の開発に絡んでいるのです。 A-10は天才たちの深夜残業で生み出された傑作機、という見方もできますね。 |