■スプレイによるA-X要求仕様第二段
さて、A-Xの開発計画には二つの特徴がありました。
まずは予算が確保されたものの決して十分ではなく、それでいて大量の配備が必要だったので、とにかく安く造る必要があったこと。このため搭載の装備、期待される能力の要求は必要最低限のレベルとなり、この段階で高価なレーダーと火器管制装置(FCS)が必要となる夜間および全天候戦闘能力は切り捨てられます。が、このシンプルさを逆にスプレイは武器にして行くのです。
ちなみに700機以上生産して、最終的な平均調達価格は1機あたり約1180万ドル前後でした。参考までに同世代のF-15のA型が約2800万ドルでしたから、お値段半分以下と極めてお買い得な機体なのです。
もう一つの特徴は、空軍全体が無関心だったこと。
F-15の時は、それこそ空軍中から、さまざまな要望が入ってきて取捨選択するだけでもえらい労力となったようですが、今回は攻撃機、しかも低予算機なんかに誰も興味を示さなかったのでスプレイは自分の思ったように仕事ができました。そういった意味でもA-10はスプレイが産み出した機体と言えます。
彼が最初にやったのはとにかく資料に当たることでしたが、そもそもアメリカ空軍にはこの手の機体の開発経験はないのです。ただしスプレイはドイツ語が出来たため、ドイツが第二次大戦中に開発した攻撃機、Ju-87、He-129に関する資料を徹底的に洗い出して行くことで、その基本方針を固めて行きます。なにせ国防省にいるのですから、終戦後に集められたドイツ側のレポート類は自由に読めたようです。
第二次大戦を代表する急降下爆撃機、Ju-87。大戦中はドイツとソ連が両者でこの手の機体を造りまくりましたが、ドイツ語が堪能だったスプレイは、主にドイツ側の資料に当たったようです。ちなみにこの辺りもスプレイのスゴイ所で、私は知識人です、と顔に書いてあっても、英語以外の言語は全くダメなマヌケが多いアメリカの知識層では珍しいことに、彼は英語以外にもドイツ語ができました。これも彼の武器の一つでしょう。
まず、スプレイはドイツの急降下爆撃の伝説のエース、ハンス・ルーデルの自伝を読み、さらに当時のパイロットの報告書や、機体に関する報告書などを調べまくります。ただしルーデル本人がA-10の開発にも関わった、という話は私の知る限り確認できませんでした。とりあえずスプレイが電話で話をした事があるのは事実らしいですが、これも確証はありません。ちなみにルーデルはネオ・ナチ運動の協力者であり、当時はビジネスで成功していたもののスキャンダルがらみで問題人物とされてましたから、もしスプレイに協力を要請されたところで、アメリカに入国はできなかった可能性が高いです。
でもってそれらの基本的な調査が終わると、スプレイはベトナム戦線から帰ってきたばかりのA-1スカイレーダーのパイロットから可能な限り話を聞き取りを行います。そしてここから最終的な機体に求められる要求仕様をまとめて行ったようです(A-7はまだ配備が始まっていなかった)。
海軍の第二次大戦世代の攻撃機、A-1をアメリカ空軍が供与されて使用していた事はすでに述べました。この機体によるベトナム戦の経験が、もっとも大きな影響をスプレイに与えたようです。
この時A-1のパイロットから出された要望としては、現場に十分に留まれる滞空時間(=航続距離)の確保、低速飛行の時の運動性のよさ、強力な固定兵器(機関砲)の搭載、そして耐弾防御力による生存性の向上、といったところでした。 これらは後に要求性能の中に盛りこまれて行きますが空気抵抗の高い低空飛行任務が多くなってしまうため、航続距離だけは通常の戦闘機に比べると、やや短くなってしまいました。
それでも戦闘行動半径は450kmを超えてるので前線での使用が前提の近接支援機としては十分でしょう。アメリカ空軍の作戦行動は常に途中で空中給油するのが前提ですし。
こうして大体の方針は固まり、1970年5月に改めて全く新規の、スプレイによる第二段の要求仕様書(RFP)が出されます。その中で、もっとも重視されたのが機体の生存性でした。スプレイによれば、第二次大戦と朝鮮戦争における地上攻撃機の損害のうち、約85%はラジエターなどの機体の弱点、あるいはパイロットに弾が直撃したためと推測され、機体全体としてはほとんどが正常なまま墜落にいたっている、としています。
つまり機体の脆弱部へ被害をこうむると、たとえ小銃弾であろうと撃墜されてしまう、という事です。なのでA-10ではコクピット周りにソ連の
シュトルモビクで採用されていたようなバスタブ型防弾を施し(軽量化のためチタニウム製)、さらにエンジンと燃料タンク周りの防弾を行い、最終的に機体全体で全重量で500kgを超えるといわれる防弾装備を組み込みました。 その上で操縦系統のケーブルを複数に分散し生存性を高めます。さらに要求仕様では、主翼の半分を失っても飛行可能であること、昇降舵(エレベータ)やエルロンの舵面が半分吹き飛ばされても、最低限の操縦が可能であることが求められています。特に操舵に関しては油圧系統がやられても、最後はケーブルだけで動かせるようになっていました。
ちなみに本来、細い電線で何重にも操縦系を確保できる電子飛行装置、フライ バイ ワイアはこの手の任務に向くのですが高価な事、そして当時の技術ではまだアナログ フライ バイ ワイアが限界だった事などから採用を見送ったようです。
そしてボイドのエネルギー機動性理論に基づき、可能な限り軽量な機体と強力なエンジンの搭載を求めてゆきます。で、本来はより軽量にするため、スプレイは単発エンジンを考えていたようですが、この点だけは、最後に空軍の設計チームに押し切られ、双発エンジンとなりました。ちなみに、ゴツくてデカイ印象がありますが、A-10の通常離陸重量は14t以下とされており意外に軽いのです(空軍型ファントムIIがだいたい21t前後、単発エンジンのF-105でも16t前後)。
さらにA-Xには高速性が全く求められなかったので後退翼は不要であり、分厚い直線翼を採用しています。これにより機体構造の軽量化と同時に大きな揚力を発生させられるようになりました。この結果、低速でも十分な揚力が確保でき、さらに武器の搭載にも有利なスタイルとなったわけです。かてて加えて、これは要求仕様書で4000フィート(約1200m)とされた短距離の離陸を実現するのにも大きく貢献する事になります。
この1970年5月の要求仕様に応えたのが6社、その中からノースロップ社(YA-9)とフェアチャイルド社(YA-10)が選ばれ、最終的にフェアチャイルド社のA-10が選ばれる事になります。
そして高い生存性を持ち、同時に安価で軽量であることが求められたA-10には他の機体では見られない特徴がいくつかあります。
直線翼の低翼配置の機体ですからロール安定性(進行軸を中心にした回転)確保のためプロペラ機のような大きな上反角が主翼に付いてるのもA-10の特徴です(後退翼、デルタ翼の場合上反角が無くてもロール復元性があるので低翼でも安定性に問題は出ない。まあF-4ファントムIIみたいに設計失敗から上反角つけた機体もあるが)。
また、火災等が起きても機体への損害を最低限に抑えるため、エンジンはポッドに入れて機体の外に置かれ、さらにかなり高い位置に置かれました。これによって石や大きな砂粒が散乱する前線基地の滑走路でも、異物を吸い込まないようになってます。
そして垂直尾翼は1枚がやられても操縦が可能なように2枚に分けられ、さらにこの双尾翼はエンジンの赤外線をさえぎる効果があり、赤外線誘導の地対空ミサイルを防ぐことも狙っています。ちなみにエンジンと垂直尾翼周りのデザインはスプレイが特に求めたものでは無く、フェアチャイルド・リパブリック社による独自の工夫だったようです。
でもって一番変わってるのは、機首の中央に強力な30mmガトリング型機関砲(GAU-8)を搭載してしまった結果、収納場所がなくなった前脚が中心線より右側にずれて取り付けられた事でしょう。他の機体なら、何らかの対策が考えられたでしょうが、なにしろ安く軽く、がテーマの機体だったので、そのまんまズラして搭載となったようです。このため真正面から見るとなんだか異様な印象があります。
このズレた前輪だと、地上滑走がやりにくそうですが、そういった問題の指摘は見たこと無いので意外に平気なんでしょうかね。ちなみに地上で右に曲がるのは、左に曲がるのよりずっと小回りが効くそうな。
さらに主翼に取り付けらえた主脚も主翼下に爆弾を積むため、翼内に畳み込むスペースが無く、このため縦長な筒を主翼に取りつけて前方に畳み込むようになってます。ただし車輪は完全には筒内に収まらず、飛行中、半分近くが外に飛び出したままとなってしまいます。ただしこれは設計ミスではなく脚が故障して緊急着陸する場合、機体の損傷を最低限に抑える目的で狙ってやったものです。
30mmガトリング砲もA-X計画用に新規に開発されたもので、機体と同時に競作が行われ、G.E(ジェネラル・エレクトリック)社が新規に開発したGAU-8 アヴェンジャー(Avenger)の採用が決まります。ジェットエンジンで有名なG.Eですが回転するなら何でも来いとばかりに、この手のガトリング型機関砲も主要な製品で、有名な20mm M-61ヴァルカン砲もGEの製品となってます。ちなみにヴァルカン砲は、本来M61の固有名詞で、こういった回転銃身式の連射砲はガトリング式連射砲と呼ばれます。
とにかく巨大な30oガトリング式砲、GAU-8アヴェンジャー。
本体もデカいですが、30oの巨大な弾(500oペットボトルをちょっと細くした位のサイズ)を収納する弾倉、画面左の銀色の筒部がまたデカいのです。A-10の機首部はこれを搭載するのでほぼいっぱいで、まともな電子機器を積む余裕なんて無いのが見て取れます。パイロットはこの機関砲の上、弾倉の前に乗っかったバスタブ型の防弾ケースに包まれてる形になるわけです。
そしてF-15を引きついだような広い視界の全周型水滴風貌はおそらくボイドからの影響でしょう。
■フライ オフ試験と空軍のイヤガラセ
すでに述べたように、1970年の要求仕様に応えたメーカーは6社ほどあったのですが、最終的にはノースロップ社とフェアチャイルド・リパブリック社が勝ち残りました。その後、両社が試作機まで製作して性能試験をやり、そこで採用する機体を決定という事になります。
この最終競合2社に試作機を造らせた上で、実際に飛ばしてから採用を決めるのをFly-off
(飛行選り分け)と呼び、諸説あるんですが、どうもスプレイが考案したもののようです。そしてアメリカ空軍では以後の機体、F-16、F-22、F-35などでも、この採用形式が定着しています。実機を造ってみなければわからない部分は多いですから、これは理にかなった選別方式でした。
もっとも、この手のやり方は初代全天候型戦闘機F-89スコーピオンの時や、F-105とF-107などの前例があるので必ずしも初めてという訳ではありません。ただしA-10以降では、実際の機体を造ってみることで、以後の製造コストまでキチンと見積もろう、という目的があったようで、よりシビアな審査になっています。 とりあえず試作機の名称はノースロップがYA-9A、フェアチャイルド・リパブリックがYA-10Aと決まります。1972年の夏ごろからテストは開始され、最終的に1973年1月にYA-10Aの採用が決定、ここにA-10が誕生することになるわけです。
■Photo US Air
Force
敗者となったノースロップ社のYA-9。単尾翼、エンジンは機体横で主翼下という構造。
全体的にどうもやる気が感じられず、負けて当然という気がします。というかこれの機首にアヴェンジャー砲、入らんのでは?YA-10も試作段階ではまだアヴェンジャーを搭載してませんが、一応、ここに積む、と判る設計になってます。対してこのYA-9の場合、前脚も普通の位置にあるし、銃口部すらありません。どうもよく判らん機体ですね。ちなみにYA-9は現在、カリフォルニア州のマーチフィールド航空博物館(March Field air museum. )に実機が保存されています。
ところがこのA-10採用決定後、雲行きが怪しくなり始めます。当時、1972年から配備が始まったばかりのA-7に対し、ホントに優秀なのかを証明せよ、という空軍上層部からの要求が出て来て、さんざんモメる事になるのです。結局、1974年になってからわざわざA-7との比較試験を行う事になってしまいます。ちなみに、これは空軍上層部からのいやがらせという面が強く、連中は本気でA-10の計画をつぶして、浮いた予算を計画が迷走中で開発費が暴騰していたB-1爆撃機に回す気だったようです(後にB-1はボイド一味の活躍もあって不採用となる。ちなみにレーガン政権で復活するB-1Bは事実上、別の機体だ)。
試験結果は辛勝という感じでしたがA-10の勝ちとなり(そもそも試験の要求仕様がA-7に有利だったらしいが)、ようやく1975年から量産がスタートすることになるのです。ちなみにレーダーを積み、複座にしてそのオペレーターも搭乗するようにした夜間攻撃機型や、単に複座にしただけの練習機型も計画されたようですが、どちらも予算がつかずに中止となっています。
このため、A-10は最後までA型しか存在しないという機体になってしまいました。冷遇されてますね…(ただし耐用年数延長の改造を受けた機体をC型と呼ぶ場合もあり)。
そんな感じで配備が進んだA-10ですが、配備当初は極めて評判が悪く、特にその速度の遅さが戦闘機乗りに嫌われたようです。ただしA-10はエネルギー機動性理論の影響を受けた機体だけあって見かけの割には運動性は良く、航空ショーなどでは高い機動性を見せて観客を驚かせてます。
ちなみに高速性が求めれらず、空力的な洗練がそれほどでもないA-10ですが、この機体の開発にもNASAは参加しており、風洞テストを中心に、いくつかの協力をしています。基本的に、軍とNASAは切ってもきれない関係にある、と思っておいていいでしょう。
とりあえず配備後もしばらくは日陰者扱いで、“A-10ではバードストライクに注意しろ、特に後ろから追突に”とかメチャクチャなことを言われていたようですが、配備から16年かかって訪れた本格的な実戦参加、1991年の湾岸戦争によって評価が一変するのは既に見た通りです。
戦争期間中8000回を超える出撃を行い、もっとも危険な対空砲を持った地上部隊までも相手にしながら撃墜されたのはわずかに4機となっています(ちなみに損失は全て地対空ミサイルらしい)。
F-16やF/A-18が積んできた爆弾を落としたら、速攻で帰ってしまうのに対し十分な滞空時間を生かして、30mmガトリング砲の弾が切れるまで低速で地上の敵を掃討し続けるA-10は地上部隊から熱狂的に支持され、さらに先にも見たようにイラク軍捕虜の尋問から、もっとも精神的な恐怖感を与えていた事が判明します。
ここまで事実が重なると、誰ももうこの機体の存在を否定できませんから当時予定されていたF-16による近接支援(CAS)任務計画はキャンセルとなり、以後、21世紀に入るまで、この機体は使い続けられる事になるのです。
間違いなく、これはスプレイが考えた基本コンセプトの勝利でした。キチンとしたビジョンを持った責任者にまかせるだけで、軍用機というのは優れたものになる、という一つの例でしょう。
という感じで、今回はここまで。
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