■YF-22とYF-23 さて、チームYF-22とYF-23はそれぞれ、4年計画で実機製作を開始しました。 以後の遅延ぶりを考えると意外と言っていいほど計画は順調に進み、ほぼ4年後、1990年の8月にノースロップチームのYF-23 1号機(PAV-1/ペイヴ ワンと読む)が初飛行、続いて9月にロッキードチームのYF-22の一号機も初飛行に成功します。そして引き続きそれぞれ2号機も飛行に成功、試験に臨む環境が揃います。 ちなみにYF-22とYF-23ともに1号機と2号機では搭載エンジンが違うのですが、YF-22では1号機がYF-120エンジン、YF-23では1号機がYF-119エンジンと、なぜか両者で先に完成した機体の搭載エンジンが異なりました。理由は不明ですが、YF-22の1号機とYF-23の2号機、YF-22の2号機とYF-23の1号機が同じエンジンとなっているのです。このためテスト時のデータなどを見る時はちょっと注意が必要です。 ロッキード YF-22A PAV-2(2号機) シリアルナンバー(S/N) 87-0700機。 YF119エンジンを積んだ方の機体なので、これがエンジンと機体の勝者コンビとなります。後のF-22と比べるとだいぶ印象が異なりますが、実際、YF-17がF/A-18に変身した以上に変化しています。その結果、量産型の登場から、部隊配備まで異常なほどの時間がかかる事になるのでした。 ノースロップ YF-23A PAV-1(1号機) シリアルナンバー(S/N) 87-0800機。2機造られた試作機の内、これもYF119エンジンを積んだ方の機体で、ブラックウィドーIIの愛称を持つ方。ちなみにYF-120エンジンを積んだ2号機の愛称はグレイゴースト。 このYF-23の開発コンビ、ノースロップとマクダネル・ダグラスはF/A-18製造チームと同じ組み合わせであり、ノースロップが原型を作って、マクダネル・ダグラスが後からそれに手を加える、という流れも一緒です。おそらく、そこら辺りを知った上で空軍はこのチームを造ってます。 ところがYF-23の開発期間、1986年から初飛行までの1990年は、F/A-18のLERXが生じさせる乱気流が垂直尾翼を直撃して破損させる欠陥が発覚、その対策で両者が大混乱となっていた時期と完全に重なります。 この期間、マクダネル・ダグラスではF/A-18にほぼかかり切りであり、おそらくYF-23に集中するのは難しかったように思われます。それ以外にも実に多くのトラブルがF/A-18には発生中で、これはノースロップの基本設計のミスにある、とマクダネル・ダグラス側が批判したため、両社の関係は険悪そのもの、という状況になってました。そして先にも見たように1985年まで両者はF/A-18の海外販売権を巡って裁判で争っていたのでYF-23の製造チームは離婚寸前の夫婦漫才師を無理やりステージに立たせるようなものになって行きます。 どう考えてもうまく行くとは思えず、この状況でYF-23を形にしただけでも大したものでしょう。もし採用になっていたら、どうなってたんでしょうね…。 対してF-22はロッキード、ボーイング、ジェネラルダイナミクスの3社共同開発ながら、その関係は良好だったようです。開発においては機首から空気取入口周辺、そして水平&垂直尾翼、主翼の外縁部というステルス性能に直結する部分は全てロッキードが製造を担当しました(それ以外も基本設計はほぼ全てロッキード)。後にロッキードに吸収合併されるジェネラル・ダイナミクスは胴体の中間部分と主翼付け根前半部周辺を、ボーイングは胴体のエンジン収納部から後ろと、主翼の主桁構造を含む内部構造の製造を担当してます。 こうして両機種がそろってから、その競作飛行試験が開始されます。この辺りに付いては未だによく判らない部分が多いのですが、1990年12月まで約3カ月に渡り試験は続けられ、YF-22は74回、約92時間、YF-23は60回、約56時間の試験飛行を行いました。YF-23の方が明らかに飛行時間が少ないのは2号機(PAV-2)が飛行回数(16回)、飛行時間(21.6時間)ともに少なめのためです。ただし、その理由はよく判りませぬ。 試験は順調に進み、最高高度、最高速度、最大迎え角、の各性能を試した後、空中給油の試行も行われました。 その後、1991年の4月になってYF-22が勝者に選ばれた事が国防長官より発表され、以後、生産型のF-22の開発に入って行くのですが、これが前回も述べたような大迷走となって行くのです。 ちなみに後で見るように、2015年に行われた当時のYF-23テストパイロットの講演会において、YF-23もYF-22も空軍の要求は全て満たしていたとされ、さらに超音速巡行における最高速度などではYF-23の方が優れていた事も明らかになってます。 このためYF-22が選ばれたのは機体性能ではなく、ロッキード社の開発、管理能力に賭けた結果だ、という意見もあります。ノースロップはあの殺人機であるF-89以降、アメリカ空軍の戦闘機を製造した経験はなく、それどころか海空軍どちらにおいても、大規模な機体生産をほとんど経験してませんでした(T-33だけが唯一の例外だった。F-5は事実上アメリカ空軍は使用して無いに等しい数しか導入してない)。このため、ノースロップの開発、生産に対する信頼性に疑問が示され、これが敗因となったとするものです。 まあ、この辺りロッキードだってF-117までロクに軍の仕事はもらって無いですから、どっちもどっちという気もしますし、空軍は未だに公式な説明をしてませんから、真相は闇の中ですが。 ■F-22への迷走 YF-22の初飛行までは計画開始から約9年、試作機製作開始から約4年でした。参考までにF-15では研究開始から初飛行まで約7年、試作機製作開始からだと約4年です。よってYF-22の開発時間は、F-15とそんなに大きくは変わりません。がんばった、と言っていいでしょう。 ちなみにボイド、スプレイという明確な方針を持った強靭な開発責任者が最初から計画を牽引したF-16はもっと効率的でYF-16の初飛行まで計画開始から4年半、試作機製作開始からだとわずか1年と10ヶ月であり、これはF-15やYF-22の約半分です。ただしF-16の場合、エンジンの新規開発がなかったので、その点を考慮する必要がありますが、それでも大したものでしょう。 が、YF-22の開発が順調だったのは初飛行までで以後は悪夢としかいいようがない計画遅延の嵐となりました。この辺り、量産型のF-22開発開始直後に冷戦が終了、それに伴う仕様変更への迷走などもあり(実際はほとんど変更されなかったようだが)、先行量産型F-22の1号機が完成したのは1997年4月で、YF-22の初飛行後から実に6年半後となります。その原因については攻撃機能力を追加しようとした説、レーダーと電子システムの遅れに巻き込まれた説などなどイロイロありますが、例によって真相は闇の中です。その先行量産型の初飛行は1997年9月で、YF-22の初飛行から7年後でした。ゼロから造った試作機を飛ばすのより時間がかかってしまったわけです。 さらに実際の量産型の完成後も遅延が連発、部隊配備用の機体が最初に引き渡されたのが2003年1月。これは量産型1号機の完成から約6年、、YF-22の初飛行からだと12年半という年月が流れておりました。 開発後半における遅延の要因は主に電子装備のためで、先行量産型1号機の完成段階で搭載予定のレーダー&電子装置であるAN/APG-77はまだ一部が試験中でした。よって量産型1号機はレーダーシステム無しでロールアウトしてます。その後、どの段階で機体に組み込まれ、さらにレーダー周りの量産のメドが立ったのかがはっきりしないのですが、とにかく、これに大きく足を引っ張られたのは確かです。 空軍に引き渡された新型機は一定の数が揃って、パイロットの訓練が終了してから配備開始と見なされます。それが作戦可能初期段階(Initial Operational Capability (IOC))と呼ばれる段階であり、F-22がこれに達したのは、2005年の12月中旬、もうほとんど2006年じゃん、という段階になります。最初の部隊配備用の機体が空軍に引き渡されてから3年近い時間がかかってるわけです。 これほどの時間がかかってしまったのは、技術的な問題も大きいでしょうが同時に有能な計画責任者、全体をキチンと引っ張て行く指揮官が不在だった、というのも大きいと思います。ここまで来るととりあえず部隊配備が終わっただけでも奇跡、という感じすらします。 ちなみにF-22の量産はちょっと変わった生産体制で製造が行われていました。最初に純粋な試作機YF-22が造られ、その次に量産状態の試験機体、PRTV(Production Readiness Test Vehicles/量産可能試験機)と呼ばれる先行量産型が8機造られた後、本格的な量産がスタート、という段取りでした。このPRTVと呼ばれる8機から、全生産数の中にカウントされてます。ただしその名の通り、各種試験にも使われており、さらに前回見たように最初の3機は部隊配備がなされませんでした。 |