■第七章 エネルギー機動性理論の時代


■エネルギー機動性理論への道

さて、アメリカ空軍初の空戦マニュアルを完成させたボイドは、1960年の夏に長年勤めた戦闘機兵器訓練学校(FWS)教官の地位を去る事になりました。

次にどこに行ったのかというと、別の部隊に移動にはならず、ジョージア工科大学(Georgia Institute of Technology)で学生をやってました。アメリカ南部では最高レベルを持つ、といわれる工科系の大学で、軍に籍を置いたまま、ここに入学するのです(ちなみに後のカーター大統領の母校でカーターは珍しい理系大統領)。

ボイド33歳、大学1年生。ただしボイドはこの学校を2年で終了してるので、どうも正式に卒業した、というよりは聴講生みたいな形で通ってたようです。アメリカの大学の場合、成績がよくてやる気があれば2年で卒業も不可能ではないですが、当時の成績表によると、そこまで優秀ではないみたいですし。

なんでまた33歳になってから再度大学に行ったか、といえばこれも1957年のスプートニクショックが原因の一つだったりします。当時のアメリカ空軍指導部は技術系の士官をもっと増やしてソ連のミサイル技術に対抗せねばならぬと考え、多少なりとも素質とやる気があれば、軍の予算で専門的な知識を得るために学校に行かせてもらえたのでした。ただしボイドはミサイルになんて興味は無く、自分の空戦論をキチンと数学や力学によって理論化できないか、という考えから工科大学への入学を希望したようですが。



弾道核ミサイル時代に突入した後のアメリカ空軍は、数学で戦争する軍隊の最たるものになります。
弾道ミサイルの軌道を計算するだけでも高度な数学が必要で、さらにこれを制御するとなると、
力学と工学的な高度な知識と経験が要求されます。
空気抵抗まで考慮すると、死にたくなるような計算の嵐です。

このため空軍はスプトーニクショックの後、積極的に理系の人間の確保、さらには育成に力を入れており、
その一環としてボイドはジョージア工科大に入れてもらえたようです。
彼は元は文系の人なんで、よほど独学でがんばったのだと思われます。

写真のポスターは1960年代ごろの空軍の人員募集ポスターで、
退役軍人の技術者に、空軍への復帰を促すものらしいです。
余談ですが、Former servicemen は退役軍人の事で、サービスマンには修理係と同時に軍人の意味もあります。
この辺り、日本語英語だと軍人の部分がすっぽり抜けてるので、英語圏の記事とかを見ていて、
湾岸戦争から帰って来たサービスマンとか言われると、一瞬、何者?と思ってしまうので要注意。
(ちなみに退役軍人はEX servicemen とも言う)


ボイドは決して成績優秀な生徒ではなかったようですが、大学では熱力学という分野を知ることになりました。
熱力学におけるエネルギー保存法則を知ったとき、彼は自分が探していたものを見つけた事に気が付きます。もっとも当時のボイドの同級生(と言っても当時19歳、14も年下だが…)によると、ボイドは熱力学を理解するのに苦労していたみたいだよ、との事ですが…。
とりあえずジョージア工科大学で熱力学との出会ったことでボイドはエネルギー機動(E-M)理論の基本となるを考えを得る事になります。それまで、速度や高度、そして加速度(G)だけで考えられていた空の戦いに、おそらく彼が初めてエネルギーと言う概念を持ち込む事になり、これが世界の空の戦いを根底から変えてゆく第一歩となるのです。

ボイドが最初に思いついたのは飛行中の機体が持つエネルギーは形を変えながら、常に一定のまま保たれるはずだ、という単純なエネルギー保存則でした。飛行中の機体が持つエネルギーはエンジンの力を蓄積して選られる運動エネルギーと、高度(厳密には重力中心点に対する距離)を蓄積して得られる位置エネルギーの二つしかありません。そしてこのエネルギーが機体を動かす力を生みます(力(F)=エネルギー(E)/移動距離(L))。
音速飛行以下なら、造波抵抗と熱による損失はほぼ無視できるので、空気の抵抗力によるエネルギー損失だけを考えればよく、だったら機体の持つ全エネルギーから、空戦に利用できる力の大きさは計算で求められるのでは、と彼は考えます。

ここまでなら、多くのパイロットも数式を使わずとも体感的になんとなく理解していたのですが、ボイドのスゴイところはそこにエネルギーの変換速度の考え方を持ち込んだことです。
すなわちどんなに大きなエネルギーを持っていても、ゆっくりとしか使えないのでは意味が無い、すばやくエネルギーを貯めて、すばやく使えるヤツが強い、という事です。これがいわゆるPump and Dump(エネルギーの貯め込みと放出)の高速化となります。ちなみにPump and Dump はもともとかなり下品な意味を持つスラングで、さらに1990年代後半辺りから、株式市場において風説で株価を吊り上げて売り逃げる違法手段を指すようになってしまったので、あまりいい言葉ではありませぬ。戦闘機パイロットの以外の英語圏の皆さん相手にこの言葉を使うのは注意しましょう。

話を戻します。エネルギーの変換速度とは何か。
例えば偵察機のU-2は戦闘機では到達できない高高度を飛び、巨大な位置エネルギーを持ちますが、その飛行速度は遅く、位置エネルギーを力に変換するのに時間がかかりすぎるため、戦闘機相手に空中戦なんてできません。より低い高度で小さい位置エネルギーを持ってるだけの戦闘機に空中戦を挑んでも勝てないのです。すなわち単にデカいエネルギーを持ってるだけじゃダメなのだ、というの事になります。これが彼のエネルギー機動性理論のキモであり、それはエネルギーの使用と蓄積の速度、速さの問題である、と考える事も出来ます。



高度27000mが通常活動高度というベラボーな高高度性能を持つU-2ですが、ご覧のようにグライダーのような長い主翼を持ち、かつ構造的にも高いGに耐えられないため、その位置エネルギーを利用して戦闘機相手に格闘戦を仕掛ける、なんて不可能なわけです。これは高いエネルギーを持つ者が必ずしも有利ではない、という事を意味します。
機体の持つエネルギーが大きいほど有利、というのは既に第二次大戦中から戦闘機パイロットは勘で理解してましたが、これをキチンと理論的に整理し、さらにエネルギーの使用速度、すなわち変換効率という考えを持ち込んだのがボイドのエネルギー機動性理論なのです。この点についてはまた後で詳しく見て行きます。

ちなみに最初にボイドがこの理論を思いついた時、理屈の上では単純な話だからおそらく先行研究があるはずだ、と彼は考えます。が、そもそもボイドは戦闘機兵器訓練学校(FWS)の教育部で指導監督をしており、この手の情報の最前線に何年もいたのですから、そういった理論があるなら、何らかの形で情報は入って来たはずです。
しかしエネルギーで空中戦を説明する、なんて話を彼は聞いたことがありませんでした。念のため、大学の熱力学の教授にも確認したようですが、そんな研究は知らんと言われて終わります。この結果、ボイドは自分が何か大きな発見の入り口にいる、と気が付くのです。そして彼はより厳密な理論にすることに、この後の2年間を費やすのですが、あくまで個人での活動であったため空軍からは何ら援助を得られませんでした。

そして1962年にジョージア工科大学での勉強を終えたボイドは空軍に復帰、今度はアメリカの東南の果て、といっていいフロリダ州のエグリン(Eglin)基地への配属を告げられます。同時にボイドはようやく少佐(Major)に昇進するのですが、これが彼の長い少佐時代の始まりになるわけです。ちなみにこの時期のボイドのニックネームは“狂った少佐(Mad Major)”でした。

1962年だと、すでにケネディ政権ですが、空軍の最高責任者、空軍参謀総長の地位に居たのはあのカーチス・ルメイであり未だSACの力は衰えてませんでした。よってボイドの戦闘機に関する研究を続けたい、という願いは全く受け入れられず、基地の通常業務に就くように辞令を受けるのです。
この結果、エグリン基地での仕事に不満をつのらせたボイドは上官とトラブルを起こし続け、万年少佐への道を邁進する事になります…。

それでもボイドはエネルギー機動性理論の追及をあきらめず、仕事が終わってからと週末の時間を使って、狂ったようにこの理論を追求し続けました。どう考えても彼のキャリアに何のメリットもないアイデア、金にも何もならない考えを、ただ知りたいと言うだけで追求し続けるのはボイドの個性の一つで、これは晩年まで続くことになります。もっとも、このおかげで彼の家族はそれこそ大迷惑となるのですが…。

そのような環境の中で独自に理論を固めつつあったボイドですが、それが正しいのかを確認するには、あまりに膨大なデータを一人で計算する必要があり、さすがに厳しい状況になりつつありました。さらに2年ほど工科大学に通っただけで、もともと数学に関する知識が少なかったボイドは限界を感じ始めます。

そんな時、彼は基地内に、コンピュータを運用する組織がある、と知り興味を持ちます。エグリン基地は空軍の研究開発部門という傾向が強い基地の一つで、ここには当時まだ珍しかったコンピュータを運用する組織が置かれていたのです。当時はまだコンピュータがどんなものかよく知られてなかった時代ですが、ボイドはコレを使えば膨大な計算もなんとかなるのではないか、と直感的に見抜いたようです。
当時、空軍の大型コンピュータの運用は軍に雇用された民間人が行っていたのですが、ボイドは正面からこの事務所に乗り込み、自分の研究のためにここのコンピュータを使わせろ、と要求しますが一蹴され、速攻で追い出される結果になります。

このような状況に行き詰まりを感じていたボイドは週末に基地のバーに乗り込んでは、手当たり次第に誰かを捕まえ、自説を説明しては気炎をあげていました。が、その辺りを直感的に理解できるパイロットは当たり前だ、だからどうした、という顔をし、理解できなかった人間は、話をほとんど聞いてない、という状況が続きます。なので全てはここで終わってしまっても不思議は無かったのですが、前向きに突き進む人物には、時として運命ともいえる出会いがあったりするのです。

ある週末、例によってボイドが基地のバーで気炎を上げていると、知り合いの士官から、一人の男を紹介されます。紹介が終わるとボイドは、さっそく自分のエネルギー機動性理論を説明し始めます。そしてボイドの話が終わったとき、その男は静かに一言、感想を述べます。
「あんたは正しいと思うよ。そんな考え方は初めて聞いた」
これにはボイドの方が驚いたようで、彼はナプキンにあわてて数式による説明を書き、興奮したように説明を続けました。そして一方的に話を続けていたボイドは、突然思い出したように相手に尋ねます。
「ところであんたは、この基地で何の仕事をしてるんだ?」
「爆弾投下用のチャートを開発してる。コンピュータを使って計算してね」

ボイドの理論に初めて賛同してくれた男の名はトーマス・P・クリスティ(Thomas P. Christie)。
基地のコンピュータを使う権利を持つ人物であり、さらにボイドが持っていなかった、高度な数学の知識を持っていました。二人は意気投合し、共同でその理論の研究を行うことに同意します。この瞬間、エネルギー機動性理論が生まれる事になった、と考えてよいでしょう。そしてその夜、ボイドが言った言葉を生涯、クリスティは忘れませんでした。

“オレたちはコンチクショウって感じにいい仕事が出来そうだな、タイガー”
(Tiger, We are gonna do some goddamn good work)

タイガーというのは当時の空軍の戦闘機乗りが仲間に呼びかけるときの言い方で、これをボイドはパイロットどころか軍人ですらない、コンピュータ技術者のクリスティに使いました。そして彼とボイドの不思議な友情は、ボイドが死ぬ時まで変わらずに続く事になります。


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